主君に仕えるという不幸

映画「武士道残酷物語」を観た。

この映画は1963年の日本映画で、主君に仕える人間の生き様を、ある氏族の家系の繋がりの中で描く映画だ。

この映画では様々な主君に仕える飯倉家の主人たちの生き方が描かれるのだが、この主君の場所には、大名だったり、天皇だったり、会社の上司だったりを当てはめることができる。

この主君の場所に来るものの共通点は、強力な暴力を支配のために用いているということだ。この暴力を背景に持つ人の前に、多くの人々は、無理やりもしくは誘導的な自発性により服従する。

大名が暴力を持つのはよく時代劇で描かれる。天皇が暴力をつかさどったのは、天皇によるところもあるかもしれないが、当時の政治権力が天皇を元首として国家という暴力装置をコントロールしていたからだろう。

そして会社の上司だが、会社の上司は直接的に暴力を動かさないだろうが、会社の社長の権益を支えているのは国で、国の安全性は暴力装置である政府の軍隊により保持されていると考えることができる。つまり会社も軍事力を背景に存在しているものだ。

人は暴力に従う。この映画に通底するものはこの言葉により表すことができるだろう。映画のセリフの中に「侍の命は主君のもの」というものがある。侍は主君が死ねと言ったら死ななければならないという意味だ。

ここに通常の反応として反感というものが生じる。「俺の命がお前のもの?だったらお前の命は俺のものだ」と。この場合に命のコントロールは他者の手の内にあり、自分が命を捨てたくても自分の意思で命を捨てることはできない。その他者が死ねというまでは。

自分のものを自分でコントロールできないことは、人の中に不快なものを呼び起こす。所有権とはそれほど根源的なものなのかもしれないし、はたまた所有権について社会が個々の人に呼び起こさせる像が、人々の間に所有権の蓋然性を与えているのかもしれない。

人は自らの意思を所有することによって自他共に、少なくとも自分が認める程度に、生きる充溢といったものを手にすることができる。

社会の人間は誰のために働いているのか?会社のために?社長のために?自分のために?人々が自身のために会社で働くのならばなぜ社長は部下よりも高い給料を得ることができるのか?

社会のため?社長のため?自分のため?何のために働くのか?幸福のため?ならば幸福とは一体なんなのだろうか?