自分を解放すれば、他人を受け入れられる

映画「ナチュラルウーマン(原題: Una mujer fantástica)」を観た。

この映画は2017年のチリのドラマ映画であり、この映画の主人公はトランス・ジェンダーの女性マリーナ・ヴィダルだ。マリーナは男性の体を持って生まれた女性だ。

マリーナには恋人がいた。オルランド・オネットというオネット・テキスタイル社の社長である男だ。そしてマリーナとオルランドは不倫関係にあった。オルランド・オネットは既婚者であり、オルランドとその妻ソニアの間にはブルーノという息子がいた。

世間は不倫には厳しい。結婚の規範がまだ強く残っている社会では、結婚という行為の契約違反に当たる不倫は世間の冷遇を浴びる。結婚制度というものは、男性の財産を散財させないように婚外子を認めないものだ。

男性が不倫でできた子供に財産を与えると、財産は嫡出子のみに相続する場合よりも、子細かく分かれることになる。つまり、子1人当たりの財産は小さくなる。よって不倫は厳しく罰せられることになる。

一族の財を保つためにマリーナはこの映画の中で、正式な家族から冷たく時に暴力的にあしらわれる。オルランドの妻も息子もマリーナに対して非常に冷たい。マリーナはオルランドをただ愛しており、オルランドもただマリーナを愛していただけだ。

愛する気持ちに正直に生きているだけなのに世間の目は冷たい。世間の結婚に対するイメージというものがマリーナを追い詰めていく。

世間の結婚に対するイメージとは、世にいう理性というものから生じたとされている。人間にはそもそも神のものであるような理性が恩寵により与えられるのだと。

理性を重視する立場に対して、情念を良しとして考える考え方がある。情念に近づくものは愛であり欲求だ。情念から遠のくと憎悪が生じる。人は情念に近いときにこそ人間らしいという考え方だ。

神のものである理性を諦めて、人間は情念を見つけ出した。ただ人は心の中にある情念の近くにいつもいられるわけではない。内的規範と外的規範がぶつかり合い、情念から遠く離れた位置に感情が着地する時もある。人間は常に愛に満ちてはいられない。

さて理性とは情念に近い位置とは何なのだろうか?それぞれの持つ基準というものが存在する。例えば理性はAを良しとし、Bを悪いとするような基準のことだ。この基準は常に見直される必要がある。基準を固定してはいけない。この世界のどうにもならなさに対して我々は敏感でなければならないのかもしれない。

否、どうにもならないのではない。どうにでもありえるということが大切だ。どうしようもなく生物学的男性が生物学的男性を愛するというのではない。男が男を、女が女を愛するのは世界が偶然性に開かれているからだ。