七夕の夜、鎌倉の海の砂浜で、花火をする歌3

音楽は人に影響を与える。

音楽は人の内面を作り出す。こう言い換えてもいいかもしれない。環境は人の内面を作り出す。環境とは人間を取り囲む世界や、人間の過ごしている生活そのもののことだから、音楽と環境を比べると、後者の方が扱う範囲が広すぎてうまい説明になっていないかもしれない。

しかし、人は環境から影響を常に受けているし、環境の中に音楽が含まれるというのは、今現在の世界の状況から見ても妥当だろうし、日本の中に限った場合、環境の中に音楽が含まれるという事実はなおのこと当然のことのように感じられる。

人に影響を与えるものがある。それは環境と呼ばれる。その環境の中には音楽も含まれる。ことに日本の標準的な生活の場合には。日本の標準といわれてこれだ!!!と示すことはうまくできない。生活標準を経済的標準、つまり給与で示すこともできる。ひきこもり、ニートのひとたちは収入がないが、それでも何とか保護者のお金があれば、インターネットやCDのプレイヤーがある生活をすることができる。スマホがあれば、スマホでユー・チューブを観ることができるし、有料音楽配信サービスに加入して月に1000円程度の料金で音楽を聴くこともできる。人の置かれた環境に音楽がある率は高い。

巷では外見的にアピールできるアイドルがテレビに登場して、歌を歌う。その歌はアイドルが書いたものでない場合が多いが、そのアイドルを通じて聴取者は音楽を聴いて歌詞を覚える。人々の間にアイドルの楽曲が浸透していく。それはいくつもの思想が浸透していくのと同じように、人々の間に確実に浸透して、時には長くその聴取者の中に居座る。その聴取者の人生を決定してしまうこともありえる。

環境は人の内面を作り上げる。音楽は人の内面を作り上げる。環境や音楽は、内面に限らず服装も決めるかもしれない。グランジが好きな人は、髪を伸ばして、破れたジーンズを着て、コンバースのスニーカーを履き、ネルシャツを着るみたいに。

人の内面とは当然人の精神のことだ。精神とは気持ちのようなものとも言える。あるいは精神は記憶なのかもしれない。音楽を聴くと気分が高揚するとする。これは音楽が人の精神に影響を与えている証拠だ。人は自分の感じ方によって、これは悲しい曲だとか、これはハッピーな曲だとか言ったりする。このような事態は音楽が人の精神に影響を与えている証拠だ。音楽によりある気持ちが生じる。

音楽は人の内面と人の外見を左右する。音楽により服が変わり、音楽が気分を明るくする。音楽はある種の薬かもしれない。サイケデリック音楽といわれるように、ある種の薬物が人の精神に影響して音楽が生まれるということがある。薬が音楽を作り出すきっかけになり、音楽が誕生し、その音楽が薬をキメているような気分にさせる。音楽により脳内に分泌物が充満する。音楽は薬が無くてもどこか違う世界にトリップさせてくれる特別な少しのコストがかかる反復節だ。

音楽は環境に影響される。

人は音楽に影響されるが、音楽は社会の中に存在する。その社会の中に存在するのが、政治だ。いきなり政治の話が登場するのだが、音楽と政治は切り離された話題ではない。イギリスのリヴァプール出身の4人組のロック・バンドであるザ・ビートルズの曲には、中国の政治家である毛沢東の名前が登場する。毛沢東の写真は革命には必要ないと。(The Beatles/The Beatles/Revolution/John Lennon&Paul McCartey

革命が必要か、それとも革命などただの暴力に過ぎないなどという議論は置いておいても、政治から音楽は遠くに離れることはできないというのはどうも事実である。なぜなら文化は政治と切り離せないからであり、政治は文化を規定し、文化もまた政治を規定するからだ。

政府がクール・ジャパンといって日本の芸術を世界に発信するために予算を割くとする。するとお金を中心に文化が成長することになる。お金がなくても文化は成長するかもしれないが、お金があればより一層の文化の成長が望める。しかし、お金がクリエイティブであることと直結しているかということははっきりとは言えない。

お金があってもアイディアは生まれない。アイディアの創出には人的資本が必要だ。お金があったら人的資本が育つというわけではない。素晴らしい作品を作るクリエーターが食うに困る生活をしているという例はある。例えば、映画「この世界の片隅に」がその例として示せるだろう。クールジャパンといって日本は、世界的に有名な日本のアニメに投資はしていないのだ。

政治からアニメは切り離せない。映画「この世界の片隅に」は、実際にあった周知のとおりの戦争である第2次世界大戦を描いたアニメーション映画だ。日本では太平洋戦争とも呼ばれるこの戦争が政治と無関係であるはずがない。政治とは寡頭制による意思決定も含まれるからだ。民主制のみが政治ではない。

独裁的な中央集権によってもたらされる決定が、政治と呼ばれないことはない。アメリカと対決せよという意思決定は政治だ。そこでは、日本帝国という一つのまとまりの決定という一種の選択がみられる。その選択は、そしてその選択肢が登場することがすでに政治だ。集団が存在するところに政治は存在する。

集団が存在するところに政治は存在する。集団が存在するところに音楽は存在する。集団の内部に、政治と音楽が存在する。政治と音楽は相互に影響を与えあう。社会の内部にあるものは相互に影響を与えあう。内部のものは社会の外部から当然影響をうけるが、それと同時に社会の内部のもの同士も影響を与えあっている。ゆえに、経済と政治が不可分のであるように、政治と音楽も不可分だ。当然、音楽と経済も不可分なのだが。

花火の中に登場する女性像

レミオロメンのアルバムである風のクロマの中の楽曲に「花火」という曲がある。一組の男女が、鎌倉の海の砂浜で花火をするという内容の曲だ。そこには単純明快な原理に従って生きる男性と、複雑な生存理論によっていきる女性という対立がある。

男性は言う。今をみつめていようよ、先のことはどうなるかわからないよ、と。女性は言う。「私は夏の花火のような恋ならしたくはないの」と。将来を楽観視できる男と、将来に漠然とした不安を感じる女がこの歌の歌詞には登場する。

この曲は「風のクロマ」という2008年のレミオロメンのアルバムに収録されている。ここで、2008年の男性と女性の賃金をここで確認したい。国税庁による民間給与実態調査によると、平成20年(2008年)の男性の平均給与は533万円、一方女性は271万円だ。

男性の給与を12分割すると1カ月あたりの給与は約44万円。他方女性の1カ月あたりの給与は22万円だ。例えば女性が子供と2人暮らししていたとしよう。子供が公立の高校から、私立の大学へ進学するとしよう。

例えば私立の大学の入学金が100万円、年間の授業料が150万円だとしよう。子供は4年間大学に行く。すると大学の学費だけでも最低700万円かかることになる。女性の平均給与は年間271万円だ。年間で50万円貯金できるとして、大学の学費をためるには14年かかる計算になる。

年間50万の貯金をするためには、月々給与から4万円以上貯金するする必要がある。この残りの月々の18万円によって生活する必要がある。アパートに住んでいたら家賃が5万円はかかるだろう。食費に、衣料費、交通費、保険等にお金がつぎ込まれることになる。

女性が、手元で自由にできるお金は男性よりは当然少なくなる。このような生活を続けるには忍耐が必要になってくる。生活するのに必要以上に精神的にすり減りそうな感がある。女性のみで生活をすることの難しさ。

なぜ「花火」の中の女性は、将来を楽観視せず、複雑なのか?この給与の実態でなんとなくわかるのではないか?女性だけの家庭では、経済的に楽観的に過ごすことはできない。たとえ夫から暴力を振るわれても、離婚することはできない。離婚は経済的転落だからだ。

女性だけではない。世間にはニートや、ひきこもり、精神疾患者、身体障碍者、ホームレスのひとたちがいる。なぜ、このような人たちが日々の生活に困っている中で、世界の人口の1%に富みが集中(http://oxfam.jp/news/cat/press/20161.html オックスファム・ジャパン、2019年7月27日閲覧)しても、誰も文句を言わないのか?

いやモノ申している人はいる。ただ、その数が少ないからかもしれない。1%にこの声が届かない理由は。だったら、多くの人たちは知るべきなのだ。今ここで何ができて、何が可能かを。富を分配すれば、救われる人たちがいることを。