都会の人、田舎の人

映画「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~(読み:ウッジョブ かむさりなあなあにちじょう)」を観た。

この映画は都市部の生活に慣れ親しんだ若者が、チラシで見た女性の写真に惹かれて、田舎の林業での生活に挑むという内容だ。つまり、この映画の前提として都市部と地方の対立というものがある。

都市部の若者は田舎を馬鹿にして、田舎の人間は都市が地方より優位になる図式を仕方なく受け入れているという図式がそれだ。なぜ田舎の人々は自分たちが劣等者として置かれる都市住居者の図式を仕方なく受け入れているのか?

それは都市部の持つ知識力というものを地方の人なりに尊重しているからだろう。地方在住の人間でも都市部の文化が好きだということは当然あり得る。都市部の文化、つまり家電がもたらした便利さには田舎の人たちも恩恵を与えられていると、田舎の人たちが信じているのだ。

つまり田舎の人々は都会からやってきた便利さの利益を認めているのである。田舎の人は都会の文化を技術を確かなものだと認めているから、むやみに都会の人々を雑に扱わないのだ。

一方都会の人々は田舎を平気で馬鹿にする。大学に入るような知的なエリートでさえも。この映画では確かにそう描かれている。

このような都会田舎図式を土台として主人公の青年平野は、田舎での林業の仕事に挑んでいく。最初は林業の厳しさに気付きいてもいない平野だが、日に日に林業の厳しさを目の当たりにして、何度も研修からの逃亡を計る。

しかし、チラシに載っていた女性を林業を営む集落で見つけて、その女性からの承認を得るために、平野は林業の仕事を身に着けていくのだった。

この映画には超越的なものが存在する。それは山の神だ。山の神は山に住む子供を神隠しにする。その子供を平野は探し出すのだが、それは女性と思われる腕の導きによるものだった。

日本では山の神は女性と考えられている。平野は林業に携わる人たちが、山の神を拝む様子を見て、山の神のほこらに自分の昼食であるおむすびを半分与える。するとその恩返しとして山の神は平野の住む里に、神隠しにあった子供を返すのだ。

柳田國男民俗学が有名だが、日本には古くからの言い伝えというものがあって神隠しの話も柳田國男の書物の中に登場する。そういえば映画「ファーゴ」に出て来るマイク・ヤナギダという人物は柳田國男をモチーフにしていると映画評論家の町山智浩さんが言っていたのを思い出した。