繋がり易い言葉と、繋がりにくい言葉 2

1.東浩紀、雑誌「文學界」2018年12月号での発言

 

雑誌「文學界」の特集「書くことを「仕事」にする」の中で批評家・作家・ゲンロン代表の東浩紀はこう言っている。

「いずれにせよ、哲学者はよく哲学を概念の創造だなんて言いますけど、ぼくはああいうのは全部はったりだと思っています。哲学は何も発明しない。ぼくはなにも新しいことを思いついているわけではない。世界に関する新しい知識を得たければ自然科学に頼るべきであって、哲学や批評によっては知識はまったく増えない。哲学にできるのはせいぜい、散らかしたり攪乱したりすることをとおして、人びとがもともと持っていたもののなかに、いままで存在しなかった繋がりをつくることです。ソクラテスはそう言っていたはずですし、それでいいのではないかとぼくは思っています。(「文學界」2018年12月号 p.16)」

この東浩紀の言葉がぼくの目にとまったのは、以前東浩紀の文章の書き方について触れた自身のブログの内容が一部否定されていると感じたからである。ぼくの東浩紀の考えに対する読みの浅さのようなものを実感したのだ。ぼくは以前ブログで「繋がり易い言葉と、繋がりにくい言葉(2018.7.23 nyfree's bolg)」という文章を書き、東浩紀の文章の書き方について以下のように触れた。

「つまり従来あるように物事が並んでいる状態からは何も新しいものは誕生しない。従来のものとは別の在り方が新しい何かを作り出してくという考え方がこの三者の考え方からは生まれてくる。」

東浩紀は当たり前のことが当たり前に繋がるというのには何の商品価値もないと言う。繋がらない事が繋がって初めてそこに商品価値が生まれると言っている。東は商品価値という言葉を嫌っているようだが、自身の評論が商品として価値を持つのは繋がらないもの同士が繋がることだと述べている。ここで繋がらないものと表現されているのは繋がらない言葉同士と私が前述しているものと言っていいだろう。」

ぼくはこのブログの文章を、東浩紀宮台真司そして内田樹といった人物に共通する特徴として、繋がらない言葉が繋がることが重要であり、それは新しい概念を発明することであるという趣旨を示すために書いた。しかしこのぼくの読みは浅かったことが前述した東浩紀の言葉からわかる。

東浩紀はこう言っている。哲学は何も発明しない。哲学はいままで存在しなかった繋がりをつくるだけだと。つまり厳密に言えば、新しい概念が創造されるのではなくて、概念の今までなかった繋がりがつくられるのだ。

 

 

 

2.哲学者は概念を発明する

 

東浩紀は哲学者は概念を発明するとよくいうと言っているが、それを裏付ける証拠がぼくの手元にある本の中に存在する。それはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの書いた文章をまとめた本である「ドゥルーズ・コレクション Ⅰ 哲学(宇野邦一監修 河出文庫 2015)」の中の文章「ベルクソン、1859-1941」の冒頭の文章だ。

「偉大な哲学者とは、新たな諸概念を創造する者のことである。(p.168)」

東浩紀の言うように、ドゥルーズは哲学とは新たな概念を創造することだとドゥルーズは述べている。

ドゥルーズはこの文章の冒頭の後にベルクソンの哲学に使用される概念である直観について語り始める。その内容は不勉強な私には説明できるものではないので、ここからは持論を述べたいと思う。

 

 

 

3.新しい概念を発明する

 

新しい概念を発明するとは、以前知らなかったことが急に誕生するということである。しかしそんなことは実際に可能なのだろうか?

哲学には超越論と経験論というものが存在する。平たく言うと経験論とは、人は実際に経験したことがあるものしか知らないというものであり、超越論とは経験とは別にイデアというような超越的なものがあってそれが人に与えられ、ひとは自分の対象となっているものについて知ることができるといったものだ。経験論は世界の外にある超越を認めない。それに対し超越論は世界の外にある超越的なものを肯定し、超越的なものがあるからこそ人は対象となる事物が何であるかを知ることができるという。

つまり経験論も超越論もともに、知っているものしか世界に存在しないと述べている。つまりそれは言いかえるとこうだ。未来は過去である。

ここである文章を引用したい。それは未来は過去という考え方を述べた文章である。

「たとえば新しい文学が生みだされ、新たな潮流が形成されたとする。するとひとは、そうした新しいものは、過去に「可能的」に埋め込まれていたもので、そのひとつが実現されたのだと考えやすい。しかしそうした思考において、可能性とは、すでに実現したものを過去に投影することから成り立つものでしかない。ベルクソンはこれを、可能性にまつわる「回顧的」な錯覚と見なしている。つまり可能性とは、すでに過ぎてしまったことを後ろ向きに見直すことによって、形成されるだけのものなのである。だがそれは、流れる時間を、流れた後で、空間化して捉えているにすぎない。(ドゥルーズ入門 檜垣立哉 ちくま新書 2009 p.46-47)」

ここでははっきりと未来は過去であるという考え方が述べられている。人は何かが起こってもそれを過去のものと照らし合わせてしか認知することはできないのである。そこには新しいものは存在しない。既に見たものとの照合によりひとは知ることができるだけなのである。

 

 

 

4.新しい概念は存在しないか?

 

未来は過去である。つまり新しい概念は存在しない。それは既に見てきたものとの照合により知り得るだけである。

経験論も超越論も既知ものから、対象は何であるかを経験や超越と照らし合わせて知るだけだと述べる。未来は過去。この考えから逸脱した考えはないのだろうか?

答えはあるであると言ってこの文章を終わりにしたい。その答えを言い表すとこうである。それは直観である。

直観は対象をみると同時に、その対象に対応する概念が人間の中に沸きおこり、人はその対象が何であるかを知るというものだ。そこには先験的な知識は存在しない。しかしこの考えは超越に少し似ているのかもしれない。概念がふっとわき上がる根拠が経験にはない点で。その概念の出どころは一体どこなのか?

概念の出どころを自然科学における脳の働きに還元してもいいのかもしれない。しかしこれは自分の手に余る分野であるのでここでは述べない。

経験ではなく、超越でもなく、直観。直観は前2者と違って未来は未定ということができるかもしれない。それは自然科学という現在の哲学(物事が何であるかをしめしてくれるもの)の実証にゆだねておこう。未来は過去より、未来は未定の方がワクワクする人もいるかもしれないから。

 

この文章の中で未来は過去という表現を使ったが、自分の記憶に間違いがなければ、これは社会学宮台真司がある場所で述べていたことである。自分の記憶に間違いがなければだが…。

ではこの辺でこの文章を終わりにする。この文章で繋がりが創造できたと願いながら。