未成熟な攻撃性が招く暴力

映画「グリーン・ルーム(原題:Green Room)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、ジャンルはスリラーである。

この映画はパンク・バンドをしている4人組が、本当に攻撃的な人々の間に入ってしまい、悲劇が生じるというものである。つまりこの映画には、偽物の攻撃性であるパンク・バンドと、本物の攻撃性を持つポートランド近くの住人たちという図式がある。

パンク・バンドが攻撃的な精神を歌うのに対して、ポートランド近くの住人たちは攻撃性を地でいく、つまり本当に暴力的な人たちである。パンク・バンドは見せかけだけの暴力性で、ポートランド近くの人たちは人を刺すし殺すし、ヤクはやるいかにも暴力的といった人たちである。

このパンク・バンドとポートランド周辺の人たちとの対立はいつ生じたか?元々両者は両極に立つのだろうか?見た目がパンクで、ポートランドの人たちのような暴力的な人はきっといるだろう。

彼らがアイデンティティー的に対立しているとも言えるが、それだけでは殺し合いは生じない。殺し合いが生じるには決定的な不都合が生じなければならない。この映画の場合その不都合とは何か?

それはパンク・バンド(エイント・ライツ)のメンバーが、カウキャッチャーという精神的な暴力と肉体的な暴力が共存するバンドの殺人を目撃してしまうことだ。

エイント・ライツはアメリカ各地を旅する貧乏バンドだが、カウキャッチャーはポートランドを地元とするポートランドの恐い人たちの共同体に属するバンドであった。しかもカウキャッチャーというバンドのメンバー(?)が殺人を犯していたのである。そしてその殺人現場の地下には秘密の部屋があり、そこでは麻薬の密造が行われていたのだ。

エイント・ライツはいわゆる地元の共同体の罪を隠すために殺されてしまうという危機に陥ったのである。

パンクの一般的なイメージとして、モヒカン、恐い、攻撃的、不良、アウトローなどが上げられるが、地元共同体の外に所属するエイント・ライツのメンバーは、このイメージにとりつかれているようである。不良っぽいのがパンクなんだと。

一方、地元共同体の方はどうかといえば、彼らはパンクというイメージ通りに生活しているのである。簡単に言えば後者には「っぽさ」がない。直球に不良なのである。

パンク・バンドのメンバーたちは、これから本格的に不良か不良でないのか決まっていく人たちである。要するにエイント・ライツはまだ未成熟なのである。しかし映画は人の成長を描くものでもあるから、死闘の中生き残った人間たち(パンク・バンドのメンバーのような未成熟だった人たち)は、自ら生き抜くための攻撃性に目覚める。

そこには生きるための決定がある。殺されそうな時に彼らは武器を手にした。しかし、その決定は避けられないものだったのだろうか?非暴力の思想はこの局面では役に立たないものなのだろうか?