理想的な家族像という束縛

映画「不意打ち(原題:Lady in a Cage)」を観た。

この映画は1964年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスである。

この映画はお金持ちの母子家庭とその財産に群がる人間たち、そしてそれを取り囲む無関心な都会の住人たちが描かれている映画である。

この映画の主人公は母子家庭の母の方のコーネリアスという女性である。コーネリアスには30歳にもうじきなるマルコムという息子がいる。

マルコムが母に置き手紙を残して家から去るところから映画は始まる。

コーネリアス夫人は息子を溺愛していた。息子マルコムは母に愛されすぎて身動きがとれない哀れな息子である。マルコムは自殺を思い立つほど母の愛を重圧に感じていた。

そうマルコムは母の愛という重圧から逃れる決意をしていた。その決意とはもし母がマルコム自身の自立を許してくれないのなら自殺をするというものだった。

映画中でマルコムの母は家の中のエレベーターに閉じ込められる。マルコムの母は自身の危険を知らせるために、非常ボタンを鳴らずが、誰も助けには来ない。

そうこうしているうちに、ホームレスとおぼしきジョージという男が家を物色する。そしてそれに連れられて、ランダルとイレインとエッシーという不良少年、少女も家の中に侵入し最後にはマルコムの母の家の贅沢な品を手に入れようとポールという故買人とその相棒が現れる。

映画中、何度か電話が鳴る。それはきっとマルコムが母の意思を確認するための電話だろう。その電話にマルコムの母は出ることができない。なぜならマルコムの母はエレベーターの中に閉じ込められ、そのエレベーターは宙づりになっているからである。

都会の無関心の中では誰もコーネリアス夫人の助けての声に気付かない。コーネリアス夫人の声に気付いたのは福祉国家が生んだゴロツキ、ホームレス、売春婦そして故買屋である。

福祉国家がゴロツキを生んだのかの議論は置いておいて、コーネリアス夫人の助けに反応したのは、人の不幸を食い物にする人間たちばかりである。そして、コーネリアス夫人自身も息子の不幸の上に成り立っていたのだが。

印象的なのはホームレスのジョージの手の甲に印されている文字である。その文字は“悔い改めよ”である。ホームレスの男が、お金持ちの女に叫ぶ「悔い改めよ!」と。

この世には富者と貧者が存在する。誰かが貧しき者に施しをしなければならない。しかし現実はどうか?コーネリアス夫人は自らのお金を奪う福祉国家を恨んでるようである。その彼女に「悔い改めよ」の声は本当に届くのだろうか?

 

 

 

※この映画では福祉国家がゴロツキたちを生み出したとある。それは国家の介入が不十分だったためではないのか?お金持ちたちは税金を払うのが嫌で、福祉国家にゴロツキたちの不道徳さを強調するのではないのか?この映画は福祉国家をダメなものに見せようとするプロバカンダなのかもしれない。

 

マルクスは母によってがんじがらめになり、母という牢獄の中で命尽きる。そしてコーネリアスの母は理想的な家庭的女性という牢獄を象徴するかのようなエレベーターの中に閉じ込められそこから出ることができない。二人とも理想的な家族像の犠牲者である。