繋がり易い言葉と、繋がりにくい言葉

○繋がらないものが繋がる

 

繋がらないものが繋がる。それが哲学というものであると東浩紀は言った。キーワードを繋げるためにメモをすると宮台真司は言った。整理してはダメだ。雑然としている状態で資料がごちゃごちゃになっている状態から面白いものは生まれると内田樹は言った。

東浩紀は朝カルアーカイブ批評の書き方実践編(朝カルArchive 東浩紀 批評の書き方実践編(ラジオデイズ公演)全三巻 2010年)でそう言っていたし、宮台真司の場合はインタビューズ(「宮台真司interviews 1994-2004」 世界書院 2005年 p.76、100、110、389)の中やウェブページの「宮台真司のこれも答えですよ」

これも答えですよ!

http://www.angelfire.com/me3/meso/korekota.html)でそう発言しているし、内田樹は住まい論(「僕の住まい論」 新潮文庫 2014年)の中でそう書いている。

つまり従来あるように物事が並んでいる状態からは何も新しいものは誕生しない。従来のものとは別の在り方が新しい何かを作り出してくという考え方がこの三者の考え方からは生まれてくる。

つまり従来あるとおりに物事があるというのは保守的な立場であると言えるし、従来とは違う何かに開かれている態度は革新的であるといえる。この世の中には変わって良くなることが沢山ある。そう三者は告げているように思われる。

しかし注意しなければならないのはなんでも文脈を無視して繋げていいわけではないということである。東浩紀は朝カルアーカイブの中でそうはっきりと言っている。文脈を無視していいのには節度というものが必要なんだと東浩紀は言うのである。ではこの節度とは何か?節度など重視していては何も革新的なことはできないのではないか?

ここで来るべき革新の姿について思考を巡らすべきだと思われる。来るべき革新の姿が、文脈を無視する際の節度を設定しているように思われるからだ。

宮台真司はメモを取る時の書く快楽がひらめきをもたらすと書いている。つまり革新的な目的など当初はないのである。ひらめきが革新を決定づける。そしてひらめきとは偶然に近いものである。革新は目的であるが目的としては当初は存在しないものである。

繋がらないものが繋がる。そこには革新的なひらめきがある。ひらめきは想定できない。そのひらめきを目的として、繋がりは存在する。革新的思考にはそれ自身が持つ不確実性があるとういうことができるのではないか?繋がらないものが繋がった時にそこには従来なかった新しいものが存在する。繋がりは革新を求めるが、革新はこれであると示すことはできない。

こう言っていると何か雲でもつかむような気持になるが、繋がらないものが繋がっている、そしてそれが多くの人にとって説得的に響くというのは厳然たる事実ある。繋がらないものが繋がる。それはどこか新しくてどこか懐かしいものなのである。

 

 

○繋がり易いもの同士

 

連想し易い言葉。言葉の日常的な繋がり。繋がりやすい言葉とはこういった言葉である。日常的に使われている言葉の日常的な関連性。それが繋がりやすい言葉同士であると言うことができる。

例えば、「新聞」という言葉と、「朝刊」、「夕刊」といった言葉は繋がり安い言葉である。新聞という言葉に対しての説明を後の二つの言葉はしている。これは日常的に使われている言葉、つまり多くの人が聞いて誰もが理解することができる言葉である。

新聞という言葉と朝刊、夕刊といった言葉の繋がりは容易に見つけることができる。その言葉の組み合わせは日常的に頻繁に使われているから、誰もが新聞という言葉と朝刊、夕刊といった言葉の繋がりを異様に感じることはない。これらの言葉が同じ会話で使われることは突拍子のないことではない。「今日の朝刊読んだ?」「朝刊?読んだよ」「夕刊は?」「読んでない」という繋がりは別に奇妙に感じることはない。

もう少し詳しく記述をしてみたいと思う。言葉には実際に使われる言葉と、実際に使っている言葉の背景にある体系を構成する言葉とがある。実際に使う言葉と、その背景にある言葉の体系。

実際に使う言葉には、話し言葉と書き言葉がある。これらは動的な言葉である。そしてその反対に静的な言葉というものもある。それは実践的な言葉ではなく、言葉同士の繋がりを図式的に示そうとするようなものである。言語学では前者をパロールと呼び、後者をラングと呼ぶ。言葉にはラングとパロールがある。そう言ったのは、ソシュールという言語学者である。

言語学では実践的な言葉をパロールと呼び、体系的な言葉をラングと呼ぶ。人が実際に言葉を使う際に、言葉の体系を思い浮かべているわけではないが、人は言葉を使ってスムーズに会話することができる。人は言葉を話す時に意識して体系から取り出すことはしない。会話は体系など意識しなくてもスムーズに行われる。

アメリカにノーム・チョムスキーという有名な言語学者がいるが、チョムスキーは面白いことを言っている。人は誰もが経験的にではなく、先天的に言語というものを身に着けていると。つまりチョムスキーの考えによれば人は言葉の体系を誰しも持ち、それには特別な教育といったものは必要ない(フォー・ビギナーズ97 チョムスキー 現代書館 2007年 p.69)。

上流階級で有名な大学を出ているから、大学を出ている人よりより高度な言語体系を持っているのではない。人は先天的に誰もが膨大な数の言語を手に入れているのだと。この考え方によると言語体系はどうやって獲得するか?などという問いは立たなくなる。言語の体系を人は誰しも持っているのだから。つまりここで我々は言語体系がどこから来たのか?という根本的な問いをスキップすることができる。人は繋がりやすい言葉と、繋がりにくい言葉の関連性を持つ体系を先天的持っているのだから。

少々脱線したが本題に戻ろう。繋がりやすい言葉があると述べた。そしてその言葉を有する体系が人間には先天的に備わっている。言葉同士が繋がりやすいかどうかは、それぞれの個人の中に存在する言葉の体系によって決まる。各個人の言葉の体系はそれぞれ似通っている。言語は話す言葉が違っても似たような体系を持っていると考えることができる。つまり、この世界の多くの人々が繋がりやすい言葉という連想を持つことになる。そして、繋がりやすい言葉があれば当然繋がりにくい言葉もあるのである。

 

 

○繋がると意外性があるもの同士

 

連想しにくい言葉。言葉の非日常的な繋がり。それは人々にとって時に心地よい刺激となる。連想し易い言葉の羅列に飽きた人たちは、繋がりにくい言葉同士の連結に興奮する。繋がりにくい言葉同士が繋がる時には、時としてその言葉の繋がりが人々の中に大きな快楽を呼び起こす。それは何かわからない状態に置かれている人間が、何かわからない状態に言葉を付けて、繋がりにくい言葉同士を繋げる作業であり、その作業の結果は人々の間に快楽を生むのである。

人は先天的な言語体系を持っており、その体系の中で遠い言葉つまり繋がりにくい言葉同士を繋げる。それが答えを提示するということである。難解な問題に頭を悩ませている人がいて、その人に対して、答えを提示すること、それが繋がらない言葉同士が繋がるということである。それは快楽を生む。それはつまり、人が快楽を避けない限り、繋がらない言葉が繋がることを求めている人がいるということである。

東浩紀は「朝カルArchive 東浩紀 批評の書き方実践編(ラジオデイズ公演)」の第三巻の中でこのようなことを言っている。ここでは概要を示す。東浩紀が言っているのは大体次のようなことである。

「今思想というのは、ディグというアメリカのソーシャルニュースサイトでは、思想(アート・アンド・カルチャー)というのはライフスタイル(自動車、教育、飲食、健康、旅行)のカテゴリーに入っていてエンターテイメントのカテゴリーからは離れている。…思想や文学や芸術はライフスタイル(真面目)に区別されているけど実はライフスタイルに区別されたら負けでエンターテイメント(不真面目)に区別されなきゃいけないんじゃないかということを言いたい…真面目なもの(思想)と不真面目なもの(エンターテイメント)が混然一体となってしまった空間というのを名指していたのがデリタというのから動かないので、そうではなくて真面目と不真面目を攪乱するのがデリタだったというように発想を切り替える。実はこれで繋がるようになっている。デリタの話から思想がエンターテイメントになるという結論は出て来ない。デリタはそんなことを言っていないのだから。つまり俺の中で繋げるしかない…僕のやっていることというのはパッチワーク批評(二次創作批評)で本来だったら繋がらないことをどう繋げて、ある種のストーリーを作っていくのかという批評をやっている」

東浩紀は日本の批評界では名の知られた人気のある批評家である。東浩紀は言う。批評というのは繋がらないものを繋げることなのだと。そこに批評が批評たることの意味がある。そして東はこの中では直接は言っていないが、繋がらないものが繋がる批評こそが面白い批評なのだと言いたいのではないか。

東浩紀は当たり前のことが当たり前に繋がるというのには何の商品価値もないと言う。繋がらない事が繋がって初めてそこに商品価値が生まれると言っている。東は商品価値という言葉を嫌っているようだが、自身の評論が商品として価値を持つのは繋がらないもの同士が繋がることだと述べている。ここで繋がらないものと表現されているのは繋がらない言葉同士と私が前述しているものと言っていいだろう。

90年代から批評家として活躍する人物に宮台真司がいる。宮台もキーワード同士を繋げることに強い関心を持つ批評家(社会学者)である。

宮台真司が書く文章には強い快楽がある。宮台真司の文章を読む者はその快楽に浸ることができる。

例えば宮台真司は著書「どうすれば愛しあえるの」(KKベストセラーズ 2017年)で社会の中にあると思われている恋愛を、社会の外に位置付けるという作業を行う。つまり一般では恋愛=社会内という繋がりを、恋愛=社会の外という繋がりに切り替えるのである。

宮台真司はこう唱える。90年代以降はそれ以前では可能だったロマンチックな恋愛が不可能になった。それ以前では「人はまだロマンチックな「愛」国や恋「愛」が可能でした」と宮台真司は述べる。「非合理・不条理・理不尽を意思できるのが人格的な主体だとすれば、人々はまだ人格的な主体でした。そうであるぶん人々は、損得勘定の自発性を超え、道徳感情の内発性から行動できたといえます。」(p.45~p.46)。ここで言われる非合理・不条理・理不尽が「愛」である。

愛とは一見合理的なもので、愛はそれに等しい対価が支払われると現在では考えられがちである。しかし宮台真司はこの考え方に対してこう提示する。愛は贈与である。対称性など無い。それは与えた分返って来るとは限らない。それが愛であり、その愛が近いもの同士の繋がりを生み、その近い繋がりが自分の大切な人を守るためにもっと遠い関係にある人を助けるという繋がり(例えば国)を生み出していたと。

国が最も望ましいものかの是非は置いておくとして、宮台真司の言葉は人の中に新鮮な喜びを生み出す。それは繋がらないと思われていた考え方(言葉)が繋がる瞬間がここにはあるからである。

繋がりにくいものが繋がることには大きな快楽がある。その快楽は人を新しい言葉の繋がりを示す媒体に引き寄せる。その立役者として例えば批評家が存在するのである。