七夕の夜、鎌倉の海の砂浜で、花火をする歌2

○鎌倉とは

 

レミオロメンのアルバム風のクロマの15曲目の曲「花火」は鎌倉の海でデートをする話である。

デートの舞台である鎌倉の夜の海とはどんな所なのだろうか?しかも七夕である。

鎌倉は東京都に隣接する神奈川県にある市の名前である。東京都の中心から鎌倉までは南に大体70kmである。

鎌倉は海水浴場が多くある市で、レミオロメンの「花火」に登場する場所もこの海水浴場の内のどれかである。ちなみに鎌倉市にある茅ヶ崎(ちがさき)や江の島はサザンオールスターズの曲の歌詞に登場する場所である。レミオロメン藤巻亮太もサザンを意識しているのかもしれない。

レミオロメンの「花火」は2008年、アルバムの風のクロマ出た以前の七夕の神奈川県鎌倉市のどこかの海水浴場の砂浜での出来事であると推測できる。歌詞を書く時にはその場所に居たとか、その場所の思い出を想起することになる。もしくは行ったことのない土地でも、聞いたり見たりした言葉と映像でイメージを膨らませて歌詞を創作することができる。

この砂浜とはサザンオールスターズゆかりのサザンビーチ(茅ヶ崎海水浴場)なのではないかとも想像することができてしまう。

 

 

○男と女、二つの立場の対立

 

鎌倉の海でデートをする歌がレミオロメンの「花火」という曲である。この二人は付き合う前であり、お互いの気持ちをまだ探り合っている状況である。

女性の方は花火のような一瞬の恋ならしたくはないと考えていて、男性の方は最高な今が続けばいいと考えている。

女性と男性の間には認識のズレが存在する、一瞬の恋ならしたくはないという女性と、今という一瞬が永遠に続くよとのたまう男。

この曲の中ではこの二つの立場、一瞬は一瞬であるという立場と、一瞬は永遠に連続しているという立場のせめぎあいが繰り広げられる。

また男性は恋愛と花火を繋げたり、恋愛と人生を繋げたりする。しかしそんな時女性はそれに否定的な態度をとる。男性は恋と崇高なものを繋げようとする。そして女性は、そんな男性の態度にうんざりしているととられるのか、それともいつも気まぐれな態度しか男性に見せていない、ととられるのである。

崇高なものとは何か?それは一個人より大きな集まりであり、時間的にながく続くものであり、何か通常とは違う雰囲気を漂わせるものである。崇高なものが正しいとは限らない。

この歌詞を書いているのはレミオロメンのギター・ヴォーカルである藤巻亮太である。藤巻の男性観と女性観そして恋愛観がこの曲の歌詞には表れている。この曲の歌詞で描かれる男性は女性に対してパターナリスティックである。つまり女性に対して常に優位な態度をとろうとする。この曲の中で花火を鎌倉でしようと女性を誘うのは男性であり、過去や未来よりも今をみつめてごらんと諭すのも男性である。また女性は気まぐれであるという見方もこの歌詞の主体である男性の視点から女性をとらえたものに過ぎない。

つまり藤巻亮太が描く男性観と女性観とはこう言える。

男性は崇高なものに惹かれる理想主義者で、女性は経験的な考え方をする現実主義者であると。

社会学宮台真司宮崎哲弥との共著M2我らの時代(2004朝日文庫)にでこのようなことを述べている。

「市民革命を経験した連中は、国家とは、個人の自由を支える、血であがなった公共財で、その下で自由な試行錯誤による個人的尊厳があるという考え方が自明です。これが連合国的尊厳観ね。でも日本やドイツなど、後発近代国は違います。「追いつき追い越せ」の急速な近代化で、今まで田舎的生活を送ってきたところに突如、都市生活が始まる。共同体や自然が急速に失われて疎外感を抱く人が量産され、その寂しさを着地させる場所として国家=共同体が見いだされた。それが戦間期ファシズム研究の結果です。だからこそ枢軸国的尊厳観は「大いなるものとの一体化」なのです。要は脆弱さや寂しさの埋め合わせですよ。」(p.33)

ここで私が言いたいのはこういうことだ。

片方に連合国的尊厳観というものがあり、もう他方に枢軸国的尊厳観というものがある。連合国的尊厳観とは自由な試行錯誤によって支えられるものであるのに対し、枢軸国的尊厳観とは寂しさを抱えるものが大いなるものと一体化することにより生じる尊厳観なのである。

先程、曲中の男性は人生とか花火とか永遠とかいったような崇高なものに恋愛を結び付けようとすると書いた。つまり男性にとって枢軸国的な尊厳観が重要なものであることを物語っている。男性にとって崇高なものは良いものである。しかしそれは本当か?崇高なものが良いものなのか?枢軸国的尊厳観はファシズムを招いた。その尊厳観が良いもの?

他方女性は男性の崇高なものに対する思い入れをスルーする。線香花火を人生になぞらえても興味はないのである。なぜあなたは崇高なものを求めるの?そんな疑問が聞こえてきそうである。女性は今を未来と過去との繋がりでとらえる。そこには栄枯衰勢がある。特に過去を見つめる女性の視点は鋭い。女性は自由な試行錯誤により培われた尊厳観を信用している。だから男性の崇高な話に興味をもたないのである。

このような男性と女性を藤巻亮太が構想して詞を書いたのかはわからない。ただ詞にある文字から、このようなことを筆者は想像したのである。

 

 

○織姫と彦星の話は悲恋の話である

 

そもそもこの花火は七夕に鎌倉でデートをする話であり、恋愛の成就を願う話であるのだが、この曲の題材となっている七夕の話は恋愛の成就どころか、恋愛下手な女性が男性的な権威に翻弄される話なのである。

ここに七夕の物語の出来上がったころの文章を載せたい。

「また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。」(ウィキペティア「七夕」2018.7.8閲覧)

この文章にある織女(しょくじょ)とは織姫のことであり、牽牛郎(けんぎゅうろう)とは彦星のことである。

この文章を要約すると、織姫は仕事に忙しすぎて恋人を作る暇もなかった。そこで織姫の主人である天帝は彦星を恋愛の相手にあてがった。そうしたら織姫は仕事そっちのけで恋愛一辺倒になってしまった。そこで怒った天帝は織姫と彦星が会えるのは年に一度七夕の時にした。というものである。

つまり七夕は傲慢な支配者により引き離されてしまった恋人同士の話なのである。これからデートをして付き合い始める二人には到底似つかわしくないのが七夕の物語なのである。

一年に一度傲慢な支配者により引き離されてしまった恋人同士が出会うことのできる話。それが七夕の話の通説になっているようである。否通説では傲慢な支配者の話は隠されているようである。レミオロメンの「花火」が単純な恋愛成就の話に頽落してしまっているように。

レミオロメンの歌の歌詞に恋愛を結び付け引き裂くような支配者は存在しない。二人はどこであったのかはわからないが少なくとも支配者に傲慢に引き合わされ、そして引き離されたのではないだろう。

現代社会で恋愛をコントロールするような支配者とは誰か?政府の高官か?投資銀行家か?大企業の重役か?恋愛が人間にとっての常道としてまかり通るのは人に備わった性欲のなせる業なのか?それとも集団で生活すると内発的に沸き上がってくるようなものなのか?現代社会で天帝に代わる支配者は存在するのか?バレンタインやクリスマスの商戦に利用される恋愛という図式もあるのかもしれない。人の恋愛への欲求は、人間が性的欲求を持つ限り続くのだろう。