芸術と理想の家族を生きる

映画「さようなら、コダクローム(原題:Kodachrome)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、写真家とその息子の音楽プロデューサーと写真家の専属の看護師を中心として描かれる、ロード・ムービーである。

ロード・ムービーとは、人生の挫折をした人間が再起をかけて旅に出るという映画である。挫折と再起。そのためのアメリカ大陸の長い道路。

この映画の主人公は、音楽プロデューサーの写真家の息子であるマットである。マットはアルバム主体の作品創りをしている古いタイプの音楽プロデューサーであり、今や会社をクビ寸前である。

写真家の看護師のゾーイは結婚に失敗している。そしてマットの父である有名な写真家のベンは、肝臓癌で死が近づいているのだが、自分のことを気にかけてくれる人がいないという状況である。

ベンは基本的に家族という機能を信じていない。ベンは家族の理想像を破壊する人物である。節制も利他愛もベンにとっては芸術の次に来るものである。ベンは理想の家族像よりも、芸術という理想を生きる人物である。

しかし、ベンも自分の死と向き合った時に、家族というあり方の良さのようなものにひかれていくのである。ベンにとって芸術がすべてであるはずだったが、芸術だけでは満たされない部分があったのである。

その満たされない部分を満たしてくれるのが何かベンは気付いていた。ベンが弱り果てた時も、金銭的な関係からではなく、近くに居てくれる人、近くに居て欲しい人とは誰であろうか?ベンはそう考えたに違いない。

ベンは家族という理想を他の多くの人々と共有するのを拒否して生きているかに見える。

しかし、ベンは家族という理想像を拒否しながら、内面では(見えない心の中では)肯定しているのである。

ベンはマットに、ベンとマットとゾーイの3人でのアメリカの旅を申し出る。ベンはいくつかの口実を作ってマットを旅に誘い出す。コダックのフィルムの現像ができなくなる前に一緒に現像しにカンザスパーソンズに行こうだとか、マットの仕事の手伝いをするとか。

しかし、それはただの口実に過ぎない。ベンにとってマットの存在が重要なのだから。

ベンは芸術家としての孤高さを最期まで生き抜くと同時に、ベン自身が捨てた家族という理想像を生きようとした。ベンの行為は矛盾している。

それは存在しているかのようで存在していなく、存在していないかのようにして存在しているものである。そう、すべては曖昧なのである。その曖昧なものに、明確なレッテルを貼ろうとする時に、齟齬が生じてしまうのではないか?すべては緩やかに存在しているのだから。