消失点

映画「バニシング・ポイント(原題:Vanishing Point)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画であり、ロード・ムービーであり、カー・アクション映画でもある。この映画のタイトル「バニシング・ポイント(Vanishing Point)」とは①平行線が一つに集まる地平線上の点の外観➁その点を超えるとものが消える、あるいは存在しなくなるものを指している。

①の意味での「バニシング・ポイント」とは絵画にみられる遠近法という画法で出現する消失点のことを示している。手前にあるものを大きく描き、遠くにあるものを小さく描く。それを描いた時、例えば壁を描いたとしよう。

その壁がずっと向こう側まである時、それを絵画で描くと前の方から壁がある一点に消えてしまうように見える。それが消失点である。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」という絵の背景でおなじみの画法も消失点を持つ技法である。

➁の意味での「バニシング・ポイント」とは存在そのものが消えてしまう点であると示される。存在しなくなる限界点とは何か?それは“死”である。

この映画の主人公コワルスキーは元バイクレーサー兼自動車レーサー兼警察である。コワルスキーは警官という体制の側から麻薬の売人からスピードというドラッグを買って車を猛スピードで陸送する、どちらかというと反体制的な立場に立っている。

コワルスキーはとにかくスピードの盲者である。コワルスキーにとってスピードとは自由である。コワルスキーは地平線上に見える道路の果て(=消失点)まで、アクセルを全開にして進んで行く。

コワルスキーを止めるものは“死”以外何もない。コワルスキーを止めることができるのは死なのである。ここで②の意味の存在の消失としてのバニシング・ポイントが思い浮かべられる。

コワルスキーの目の前に見えるのはこの①、②の意味の消失点両方なのである。コワルスキーは道路の先にある消失点を目指して進んで行くが、その消失点は存在の限界である死の点でもあるのである。

人間は生きているから自由たりえる。自由に物を買い消費するという所有の面において、人間は自由なのである(但しお金が続く限り)。しかしコワルスキーにとってスピードこそが自由なのである。

スピードを所有すること、それがコワルスキーにとっての自由なのである。スピードという自由には危険な中毒性がある。それはスピードの無い場所では生きられないことである。スピード狂いにとっては止まることイコール死なのである。