開拓とサマー・オブ・ラヴと背徳

映画「砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード(原題:The Ballad of Cable Hogue)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、舞台はアメリカ合衆国の砂漠で、時代は西部開拓時代である1860年~1890年代頃だと思われる。

この映画の主人公はケーブル・ホーグという中年の男で、砂漠に2人の仲間に水を奪われ、取り残される所からこの映画は始まる。

ホーグは砂漠に水なしで残されるが、偶然砂漠の中で水を見つけて、その場所に1軒の家を建てる。その場所は街から街への中継地となり、旅人のための食事と何よりも水を提供する場所となる。もちろん有料でだ。ホーグの砂漠の中継点はケーブル・スプリングスと名付けられる。

ケーブル・スプリングスの近くの街の売春宿でホーグはヒルディーという売春婦に一目惚れする。ケーブル・スプリングスで一時期ホーグはヒルディーと過ごすが、ヒルディーはホーグが自分を本当に愛していないと知り、サンフランシスコに旅立ってしまう。

この映画の中に登場するのは恋愛、復讐劇、宗教などである。その中でも中心となるのが恋愛の要素であろう。ヒルディーとホーグとの関係、特にヒルディーのセクシーな裸体が物語を引っ張っていく印象を映画は与える。

ホーグが2人に置き去りにされる所からホーグの復讐劇は始まり、ホーグが水を探し当てた所にやってくる牧師ジョシュア・ダンカン・スローンの登場から映画に宗教色が加わり、ホーグが近くの街によってヒルディーを見初める所から恋愛劇が始まる。

先程も書いたように、ヒルディーとホーグが結ばれて恋愛劇として映画が終わると思いきや、復讐相手を救ってホーグが自らの死を招くことにより映画は終わる。

映画を締めくくるのはインチキ牧師ジョシュアの言葉である。「砂漠の暑さを耐え抜いたホーグには、地獄の炎もなんともないだろう」。通常故人の最期は美辞麗句で締めくくるものである。「故人○○は偉大であった」とか。

しかし、インチキ牧師ジョシュアは「ホーグは人殺しだから地獄に落ちるだろうね」と故人に、故人の友人たちに語り掛けるのである。

この映画が作られたのはサマー・オブ・ラヴの最中(1960年代後半)のアメリカである。アメリカ各地にはラヴを信条とするコミュニティがいくつも出現していた(?)頃である。そう世の中の若者たちはコミュニケーションを重要視していた時勢で、砂漠に住む人殺しであるホーグとは何と反時代的な存在であろうか。

西部開拓時代の風景は、カウンター・カルチャーと結び付くだろうが、ホーグ自身はその文化から逸脱しているのである。