社会の壁か、自分の中の壁か

映画「わたしはロランス(原題:Laurence Anyways)」を観た。

この映画は2012年のカナダ、フランスの合作映画であり、ラブ・ストーリーである。この映画の中心となるのはロランス・アリアという生物学的男性と、身も心も女性であるフレッドである。

ロランスとフレッドは異性愛者同士のカップルとして登場するが、その2人の関係も映画開始直後に崩れる。それは何故か?それはロランスが女になりたい生物学的男性だと、フレッドに告白するからである。

映画中ロランスの家族(特に母)とのやり取りで、ロランスが昔から女性的であったという述懐がなされる。ロランスはすでに子供のころから自分は生物学的には男の形をしているが、実は女性になりたい人間なんだと薄々勘付いていたというように描かれる。

フレッドに女性になることを告白するロランスだが、ロランスは性転換手術をすぐに受けるようなことはしない。ロランスは映画で10年の時を経て、その外見に現れているように、徐々に女性になっていくのである。

この映画の面白いところは、ロランスは女性になったから男性に愛されたいのだと言い出すのではなく、女性になりたいが好きな相手は女性というところではないだろうか?ロランスが女性に憧れるのと、ロランスが誰を愛するのか?というのは別の問題なのである。

ロランスは女性性に憧憬を持っているが、性愛的には自由な状態なのである。このロランスとは対照的に女性性に価値を見出し、男性に愛される女性でありたいと願うのは、ロランスの恋人フレッドである。

フレッドは女性に変わっていくロランスをうまく受け入れることができない。フレッドは男性しか愛することができないのである。映画の最後にロランスはフレッドに言う。「私たちがうまくいかなくなったのは、私が女性になったからじゃないわよ」と。

ロランスは愛があって、その愛の形はどんなものでもあり得ると言っているようである。愛があれば同性であろうと異性であろうと関係ないのだと。

この映画は映画の冒頭の言葉にもあるように、私たちの“普通”を疑うような心境に映画を観る者をさせる。人は、彼は普通、彼はアブノーマルというように境界線を引きたがる。自分と同じ種類、自分とは違う種類、自分の眼中に入らない人たち(この場合人々は眼中に入らない人たちを意識していない場合が多いだろう)と。

この映画はこの線引きの残酷さを私たちに教えてくれる。“残酷さ”はロランスを受け入れられないフレッドの葛藤の原因として映画中に現れる。フレッドが困惑の色合いを強めるたびに、我々は性の現実を目の前に突き付けられている気になる。フレッドの苦痛は世界が閉じてしまっている現れなのである。