比喩としての父殺しならぬ母殺し

映画「マイ・マザー(仏題: J'ai tué ma mère,英題:I Killed My Mother)」を観た。

この映画は2009年のカナダ映画で、監督はアデル(歌手)の「Hello」のビデオ・クリップを製作した、クサヴィエ・ドランである。

仏題、英題は両方とも日本語に訳すと“私は母を殺しました”である。日本語タイトルは「マイ・マザー」であるが、仏、英題からも予感されるように、この映画は息子と母の愛憎劇を描いた映画であり、映画の中では息子ユベールと母シャンタル・レミングの口ゲンカのシーンが何度も挿入される。

映画の登場人物はユベールの母と父、そして恋人のアントナン(男性)、アントナンの母、寄宿学校に転校する前の担任の女教師と、寄宿学校の生徒数名といったところであり、映画を観ていると主人公ユベールのプライベートな世界がわかる。

前述したようにユベールとユベールの母シャンタルの言い争いはひどい。しかし、そこに愛情が感じられないわけではない。ユベールもシャンタルも言い争いの後にはお互いを許す。2人の言い争いを見ていて、不思議と不快な感じは起こらない。そこにあるのは子と母の間の愛情なのである。

映画中ユベールは16歳から17歳になる。母と2人暮らしのユベールは18歳になったら自立を認めるという約束を母としているようである。つまりユベールが18歳になって自立するまでは嫌でも母と子の縁は切れないのである。18歳になるまでの親の監視下での生活が、もう大人になりかけているユベールにはこの上なく苦痛なのである。

この映画の仏、英題のようにこの映画で実際に母殺しが行われるわけではない。今までの映画にありがちなのは息子による父殺しだった。父を殺して、母の愛を自分だけのものにするという図式だ。あくまでこれは寓話で実際に父を殺すのではないが。

ユベールの場合同性愛者であり、ユベールは男なので、ここで息子の愛の邪魔をするのは母親となる。この場合息子は父の愛を独占しようと母を模擬的に殺そうとするのである。異性愛者の場合は異性の親との繋がりを持とうとするが、同性愛者の場合は同性の親の愛情を独占しようとするのである。

監督のクサヴィエ・ドランは同性愛者であることを公表しているが、この映画の主人公ユベールも同性愛者である。この映画でも題材の1つとして同性愛が取り上げられる。それが印象的なのは、母シャンタルがユベールが同性愛者であることを知るシーンである。母シャンタルはこの世で同性愛者がどのような立場にあると感じたのだろうか?そして、同性愛者に関する問題はシャンタルの母に代表されるような人々の“思い込み”にあるのではないか?