女性の性欲は、誰にとって不都合か?

映画「草原の輝き(原題:Splendor in Grass)」を観た。

この映画は1961年公開のアメリカ映画で、映画の舞台は1920年代後半のアメリカで、主にカンザス州が映画の舞台となっている。

この映画の主人公は、ディーニー・ルニミスという女性と、バッド・スタンパーという男性である。「女性」「男性」と表記したが、この映画の始まりでディーニーとバッドは高校生であり、まだ男性性や女性性がしっかりと確立してない時期である。体は大人の状態に成長していくが、それと同時に心の葛藤が生じる年頃である。

この映画の中でジェンダー(社会的・文化的に形成された性別)やセクシャリティ(性行動の対象の選択や、性に関連する行動・傾向)の問題からピックアップして取り上げられるのは“性欲”に関する取扱い方である。

性欲の扱い方により社会の中でどのようなジェンダーセクシャリティが求められていたのか浮き上がってくるのである。

高校生の女の子であるディーニーは母親からこう教えられる。「結婚するまでセックスはしちゃだめよ!!」「性欲なんてものは無いものなの」「大人はセックスするけどそこに欲情はないの。ただの義務でセックスするだけなの」と。

高校生当時のディーニーはバッドというスポーツができて頭のいい少年と付き合っていた。そしてバッドと何度もキスするうちに、バッドのことを理解していくうちに、ディーニーの気持ちの中には抑えられない欲動が動くようになってくる。抑えきれない欲動とはつまり性欲のことである。

人間は幼い頃から性的欲求というものを持っていると考えられるが、思春期の若者に性的欲求というものは、少々厄介なものとして登場するという様子が、映画の中で描かれている。

性的欲望とはセックスをしたいという気持ちであるが、思春期とは大人のようで大人でない時期である。体は大人になっているのだが、社会的役割の中ではまだ子供である。

子供というものはどういうものであって欲しいと社会は思っているのか?それは、子供とは純粋無垢なものであって欲しいというのが、人々(大人も子供も)の願い、つまり強制である。少なくとも1920年代後半のアメリカ社会での強制的な規範であった。

女の子は優しくて、ひかえめで、セックスなんかしない。それはまさに家父長制にふさわしく作られた女性に対するレッテルである。女性に求められるのは、父の財産を受け継ぐであろう、男の子の子供だけを生むような役割である。婚外子なんてもってのほかである。そして成長期に、禁欲主義に主人公たちは悩み、苦しむのである。

 

※社会に未成年の親が子供をもうけた場合に、本人の人生をふいにせずに、大人として成長して生きていくための技術を本人につけさせるための、社会的サポートがあれば、十代のセックスも公認されるのではないだろうか?もちろん自らの財産の分散を招く妻の妊娠を防ごうとする、男性側の家父長的な社会観から脱することも大切だろうが。