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男は一人前、女は半人前。

映画「セルロイド・クローゼット(原題:The Celluloid Closet)」を観た。この映画は同性愛についてハリウッド映画がどのように扱ってきたのかを描いた映画である。映画は人を教化する役割を持っていると考えられる。つまり映画は人々の知識の収集のための宝庫ともいうことができる。

人々は映画に登場する人物を、その人物以外の登場人物がどう扱うかによって判断する。例えばAという男がいたとする。その他の登場人物の女の子たちがその男Aを褒めそやせば、人々はその男Aを好印象で受け入れるだろう。

もっと言うと、男Aを他の男たちも褒めちぎれば、男Aはより好感度が上がるだろう。そして人々は男Aのような人物を現実の世界で発見して、映画の中でその人物の元となっている男Aが取り扱われているのと同じように、現実の世界で“男Aに似た人物”を褒めそやすであろう。

つまり映画が現実の世界でのある個人の評価を決定してしまう力を持っているということである。

このように社会にあるものをどう見るべきかを教える映画は、特にその中でもハリウッド映画は、ゲイつまり同性愛者たちをどう描いてきたのだろうか?

この映画の中では1920年代のサイレント映画の時代から、この映画の公開された1995年頃までの同性愛者を描いた映像が取り上げられる。映画の中の同性愛者はまず笑い者の対象とされてきた。そしてその次に同性愛者は非道徳的なもの、悪いものとして描かれる。そして暗喩的に示されてきた性表現も次第にリアルなセックスを描くようになってゆく。

ゲイには常にマイナスのイメージが結びついている。ゲイは笑い者になったり、冷血な悪となったり、不幸や、自滅や、絶望という表現が結びつけられたり、悪漢や殺人鬼として描かれたりしてきた。

映画の中ではこう言われる。「女同士のセックスより、男同士のセックスの方が嫌がられる。それは女が半人前としか見られていないからだ」と。女性は一人前ではない。だから女性が“従来の規範”を犯してセックスしても人々の抵抗は呼ばないと映画は告げる。一人前の男のセックスが、人々に嫌悪を呼び起こすのである。

ところで映画の中で男同士がセックスをしていて、それに対してその当事者以外の誰かが「それってとてもクールだよね」と言ったらどうなるのだろうか?観客は自分の中の嫌悪感に横やりが入って水をさされた気持ちになるのだろうか?もしかしたら人々は「それってクールだよね!!」と思うかもしれない。映画が同性愛者をどう描くかで、同性愛者が市民権を得ることは充分あり得るのだ。