医者という力

 映画「カリガリ博士(原題:Das Cabinet Des Dr.Caligari)」を観た。

 この映画は1919年のドイツ制作のサイレント映画である。(ちなみにサイレント映画とは、映像が流れるバックに音楽が流れていて、セリフなどは画面に文字として表示される。映像に合わせて“話す”音声が入っていない映画だと言うと分かり易い。)

 映画で描かれるのは、精神病者の世界である。といっても出てくる人物すべてが狂っているわけではなくて、狂人の語りによってつづられる映画という意味で、精神病者の世界の話といえる。

 しかしこの映画全体をただ精神異常者が自分の妄想を語っているだけと捉えるのでは、この映画の面白さは半減するといえる。

 この映画の中で、物語について語っている狂人、フランシスの話が実は本当の話ではないのではないかと思わせるところに、この映画の面白い部分がある。

 フランシスの語りはこうだ。精神病院の医院長が居る。この医院長は11世紀のカリガリ博士に影響されて、夢遊病者(The Somnambulist)を使って自分のしたいことをすべて可能にしている。

 精神病院の医院長は夢遊病者を使って自分の望みを叶えるために殺人を行うのである。医院長の言い分はこうだ。「フランシスは私をカリガリ博士だと思い込んでいる。これこそ偏執狂(へんしつきょう、paranoia)の在り方だ。フランシスの思い込みが明らかになった今となっては、治療もしやすくて入院(そして殺人)をさせることはいいことだ。」

 この映画の中には精神病者が登場するが、それは医院長に利用される夢遊病者チェザーレであり、この映画の語り役であるフランシスである。2人とも医院長の意のままに操られているようである。

 この精神病院の医院長は一種の偉大なる支配者である。医院長の元で病院は動いており、保護するはずの患者でさえも、医院長の道具となっているのである。

 例え夢遊病者を操る医院長の話がフランシスの妄想であったとしても、フランシスの発狂を見て「これはまさに偏執狂の症状であるから治療も簡単だ」という時の、医院長の態度は患者をサンプルのように扱っていて、まったく心がこもっていない。患者を医院長の中にある病種の体系の一部としてしかみていないのである。医院長の前に現れる患者は、病気のサンプル例であって、医院長の患者を扱う態度は一種の不道徳さを持っているのである。

 医者は病人と人を名付けることによって、その病人の苦痛を和らげることができるのかもしれない。しかし、その患者に対する視線は冷たいものなのである。