欲求、妄想、夢そして現実

 映画「昼顔(原題:Belle de jour)」を観た。

 この映画は1967年のフランス・イタリア合作映画である。タイトルの「昼顔」とは、主人公のセヴリーヌの娼婦としての名前である。

 セヴリーヌは医者である夫のピエールと金銭的に何不自由ない生活をしている。ある日、知り合いのマッソンという男から、金持ちの妻たちが娼婦として働く娼館が、オペラ座の裏のジャン・ド・ソミュル街の11番地にあると聞く。

 その娼館の名前は「アナイスの館」である。セヴリーヌはそこで昼顔という名前で働くことになる。

 セヴリーヌは娼館では、そこに来客たちとセックスをするが、旦那のピエールとはセックスしようとしない。ピエールがセックスに誘ってもセヴリーヌは「疲れているから」などと言ってピエールとセックスしようとしない。

 その反面でセヴリーヌはピエールの前で、ピエール以外の男とセックスするような妄想に取り憑かれている。旦那とはセックスしたくないが、その他の男とは(夫が見ている前でなら)セックスしたい女性がセヴリーヌ(昼顔)なのである。

 夫とはセックスレスで他の男とはセックスが楽しくできる。この状況というのはどうとらえたらいいのだろうか?これは現在の世界中に見られる男性を中心とした家父長制への挑戦なのだろうか?

 男性の浮気は仕方ないが、妻の浮気は許すことはできない。これが昔から続く価値観である。ではなぜ男性の浮気が良くて、妻の浮気は良くないか?それは男性のもつ財産が妻とその浮気相手の子供に分割されてしまうのを避けるためで、財産を夫中心に支配するという目的があったためであろう。

 つまり財産を握れるのは男だけで、女には主導権を渡さないという男尊女卑の下らない思考体系なのである。

 映画のラストでセヴリーヌの知り合いの男マッソンが、セヴリーヌの客に撃たれて全身麻痺になってしまったピエールに対して、なぜピエールが撃たれたのか?つまり、セヴリーヌが娼婦として客と関係を持ち、その客にピエールが恨まれて撃たれたことを伝えるというシーンがある。

 ピエールがその事実を聞いた後、セヴリーヌがピエールの部屋に行くと、ピエールが笑って彼女の性的な欲望に答えようとすることを暗示させている。ピエールが他の男性との情事を認めてくれるというシーンである。

 セヴリーヌには妄想を見るという癖があるが、このシーンの前で「私は夢をみなくなったの」と言う。しかしどう見てもこのラストシーンは彼女の夢のようなのである。

 

※「私は夢をみなくなったの」これは彼女が妄想という形で見ていた自分の欲求が、現実で満たされたため、「夢」は必要なくなったといいたいのだろう。(妄想=夢=欲求)ならばラストシーンは彼女の夢が現実になっているということで夢=現実であり、それまで彼女が見ていた妄想が現実に訪れるため、我々の目にはラストシーンの現実が夢のようにみえてしまうのであろう。