映画「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)(原題:Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance)を劇場で観た。
この映画は、かつてバードマンというヒーロー映画の主人公だった男が、レイモンド・カーヴァーというアメリカの作家(短い作品を得意とする小説家)の「愛について語るときに我々の語ること」という短編小説をブロード・ウェイで公演する際のドタバタ劇を描いたコメディ・タッチの映画である。
主人公のリーガン・トムソンはかつてヒーロー映画で大成功をした人物であるが、今ではその名声もどこかにいっていしまい、残ったのは自らの中にあるバードマンという虚栄心の幻覚、幻聴だけである。
リーガンには離婚した妻とどの妻との子供がいるが、そのどちらともうまくいっていない。娘はリーガンのアシスタントとして働いているが、リーガンは薬物中毒だった娘の気持ちにも、そして時折訪ねてくる元妻の気持ちにも寄り添うことはできない。
リーガンは自分の名声のことばかりにこだわっていて自分の家族のことを考える余裕がないのだ。映画の最初から最後までリーガンはバードマンという自分がかつて演じたヒーロー・キャラクターに付きまとわれる。
バードマンという幻覚はリーガンに常に言う。「お前はくだらない奴だ。昔のお前は凄かった」リーガンはバードマンの幻覚に苦しめられて楽屋を破壊する。しかし又バードマンはリーガンに囁く。「お前はダメな男だ」
この映画の主人公リーガンは明らかに精神を病んでいる男である。バードマンの幻覚とは彼の心の病そのものである。名声が欲しい。名声があれば俺は今と違ってすべてうまくいくんだ。
俳優という職業は一体どういうものなのだろうと、この映画を観ながら思った。俳優になるには外見が必要である。特別な外見が。これは本人の努力では手に入れることができない。誰もが自分の容姿に対する決定権を自ら持つことはまずできない。
多くの人々に認められる外見を持つということは、偶然の産物である。俳優になれるか?なって成功できるかなんて、とても不確実なものである。俳優として成功したとしても、大衆は彼らの成功なんて一瞬で忘れてしまう。
つまり、俳優という職業は、足元がグラグラの状態なのである。しかし、このような職業は俳優だけではない。多くの職業は自分ではどうにもならないリスクを抱えている。俳優は成功すれば多くの金銭が手に入る。
成功して多額の金が手に入った時には俳優という職業にも利があるのではないか?つまり、俳優だから不幸だとは言えない。大金を手にした俳優に対しては誰も苦労しているねとは声をかけない。しかし、お金があっても不幸な人はいる。
人生はままならない。それは、誰もが同じことである。かつて成功した人も、人生の苦難に出会うことがある。誰もが同じように不幸という偶発性と向き合って生きているのである。