言葉を超えた表現

 映画「フォロー・ミー(原題:Public Eye)」を観た。

 この映画の原題はパブリック・アイ(公の目)である。公の目とは、文字どおりに公的な視点のことである。

 これに対して(パブリック・アイというセリフと同様に映画の中にも登場するが)プライベート・アイ(私の目)がある。プライベート・アイとは個人的な視線のことで「人の気持ち」とかいったことを指す。

 映画の終盤に浮気調査をしている探偵の男が「私はあなた(妻、調査対象)」を公の目で見ていた。そしてその目は、あなたがまだ旦那さんを愛しているのを見た」というようなことを言う。
公の目とは、客観的な視線とか、神の視点とかいうことだろう。それはすべての物事を公正な視点から捉えるといった意味だろう。

 この映画の内容は、税理士で貴族階級である夫が、アメリカ出身の無教養な妻が、自分が働いている間に浮気をしているのではないか探偵に調査させるというものである。
オチとしては妻は浮気などしていなかった、ただ夫が相手をしてくれなくて孤独だったということだ。

 この映画の特徴的な点は、知識とか言葉というもので繋がりを感じていた2人が、言葉での繋がりでは駄目になり、仲介者の探偵によって言葉ではない、体全体を使ったコミュニケーションで繋がりを取り戻すというものである。

 言葉では保つことのできなかった繋がりを言葉以外のもので保つ。言葉による表現で繋がることができなくなった2人が表出(意思を伝えること)によって繋がりを取り戻す。

 イギリスとアメリカの異なる共通前提(意思を伝えるために必要なもの)を持った者同士が、言葉(表現(意思を伝えることに必要なものを作り出す言葉))を使わずに体の動きだけで繋がることができるのか?

 できるのならきっとそこでは、言葉よりも普遍的な感情が支配的になるのではないのか?そんな共通前提(共通感覚)を基に私たちは表出しあえる。それは、言葉を超えた理解へと私たちを導いてくれるのではないのか?