小説、それはただのトリックに過ぎない(普遍性それは人工物)

 映画「グレート・ビューティー 追憶のローマ(原題:La Grande Bellezza)」を観た。

 タイトルにある通りにこの映画の展開する場所は、イタリアのローマである。主人公は60歳ぐらいの男性でジェップという名前である。この男は若い時に歴史的な名作小説を書いていて、その後はこの小説一冊以外には書かず、雑誌(新聞?)のライターをして生活をしている。

 ジェップの住んでいるマンションはとても豪華なマンションで、マンションからは古代ローマ時代の遺跡、コロセッセウムが見える。また、ジェップのマンションの周辺には修道院があり、ジェップが街を歩いていると修道女とすれ違うこともある。ローマ教皇もこの土地に住んでいる。

 この映画の終盤に登場する、アフリカの“聖女”シスター・マリアがジェップにこう尋ねる。「あなたは何故小説を書かないのですか?」ジェップはこう答える。「美が見つけられないからです」そうなのだ、ジェップが小説を一冊しか書いていないのは小説に書くべき美(良いとする価値)が見つけられないからなのだ。

 ジェップが若い時に小説を書く事ができたのは、ジェップがこの世界に美を見つけることができたからである。そのことを示すように彼が昔恋した女性が登場する。出会った時の二人は女性の方が20歳でジェップが18歳であった。海辺の岩場に水着姿で横たわる彼女は、何とも言い難く美しく、彼女の裸は世界の始まりを思わせるのである。

 ジェップは彼女の存在によってジェップ自身の中にある価値観が崩れ去って、そこから新しい価値観(美)が沸き立つのを感じる。それが彼の書いた歴史的な名作の中に登場する美なのである。ちなみにこの女性の名前はエクーザという。

 ジェップは物語の終盤でこう語る。「僕は彼岸を信じない。僕は世俗にまみれて生きる」と。つまり彼は美を探求するのだが、それをキリスト教的な神(彼岸)に見つけ出すのは避けると言っているのである。

 あくまでジェップは人間として生きる。聖人ではなくて。世俗にまみれて泣き笑いして生きて、生そのものを肯定しようとするのである。だから彼は天井(人工物)に海を見て、夜には毎晩踊りあかして、その場の一体感に浸るのである(音楽による価値観の解体と“音楽を聞いて踊る”という統一感)。生を肯定する人間それがジェップなのである。

 映画の最後にジェップは小説の始まりを宣言する。「僕は彼岸を生きず、ありのままの理不尽な生を生きる」と言った後に。そしてジェップはこう言う「小説それはトリックだ」と。彼にとって小説は人を騙すことに過ぎない。所詮はトリックなのだと。あるものを描くこと自体がトリックなのだと。目の前にはない美がさもそこにあるかのように描くのが小説なのである。小説によって提示される普遍性。それはトリックに過ぎない陳腐なものなのである。

 

※小説は、小説として書かれたものが普及し、そしてその小説が高い評価を得ることにより多くの人々の間に共有されるもの、つまり普遍的なものになる。しかし、ジェップは小説をトリックであると言う。つまり普遍的なもの(歴史的名作!!)は人工的に作られた捏造品に過ぎないのである。

 

※ジェップは若い時には世界に美を見つけることができそれを小説にすることができた。つまり世界に美があることを感じたし、小説が美を表現することを信じてもいた。しかし、老いて様々なことを知るうちに美など信じられなくなった。ジェップは美が排除する醜いものに対して敏感になったのではないのか?つまり醜いものを排除する美という存在に気付いたのではないのか?