規範が崩壊してしまった社会

 映画「ガンモ(原題:Gummo)」を観た。

 2人の少年を中心とした作品で、その他の登場人物も少年、少女が多い。大人が出てきたとしても近代人として成熟した大人というよりは、人生に挫折したようなロクでもない大人たちが登場する。

 この映画は物語のようで物語ではなく、映像のつぎはぎというよりは、話の筋がある気がする不思議な映画だ。

 この映画に登場する人物に“誠実で清潔な人”はいない。登場する人物誰もが問題を抱えている。従来のキリスト教的な道徳はこの映画の中では通用しない。この映画の中の登場人物は、誰一人として規範的ではなく、同時にすべて壊れてしまっているわけでもない。この映画の登場人物はどうにか“近代人としてあるべき姿”と留めている。

 この映画の中には何とも言えない鬱積したかたまりのようなものがある。主人公の2人の少年は猫を殺しては、その肉を黒人のスーパー(?)の社員に売りつけている。どうやらその黒人男性は猫の肉を、中華料理店に売っているようだ。

 主人公の少年のうちの片方の父親たちは仲間と子連れで酒を飲み、酔いとその場の“ノリ”に合わせて、最終的には家具の椅子を壊すという破壊的行動に出る。主人公の2人に自分の妹(?)らしき人物を買わせるというシーンが出てくる。この少女は知的障害者らしい。テニスをしている少年に女の子たちが尋ねる。「あなたテニスうまいの?」。少年は答える。「僕はADDだったんだけど薬を飲んだら治ったんだ(ADD:注意欠陥障害)」。主人公の2人のうちの片方の少年の母親は銃を息子に突き付けて言う。「なんで笑わないの?笑いなさい」。皆どこか壊れているのである。

 では何故彼らはここまで壊れているのだろうか?マトモとは一体どんなことを指すのだろうか?キリスト教的な規範は人の生き方を人に伝えるために使用される。これを守りなさい。これをしてはいけない。これをしなさい。

 人はそう簡単に約束を守れる生き物ではないのではないのだろうか?これがこの映画を観た時に思った率直な感想である。規範を守れということは大切なのかもしれない。でももっと大切なのは“この規範”が必要かどうか考えることではないだろうか?

 映画の最初と最後に竜巻の映像が流れる。竜巻はそこにいるすべての人をのみ込む。誰にも情け容赦ない。そこにいるすべての人たちにたいして起こり、人、物はそれを受け入れざるえない。

 竜巻はすべてを壊してしまう。必要なものも、不要なものも。キリスト教的な規範、それは今日本当に必要とされているのだろうか?何が必要で、何が必要でないのか、ゆっくり考えてみたい。

 

※映画「ガンモ」で描かれる世界は“竜巻”が現れて何もかもを壊してしまった世界である。“竜巻”が壊したのは物だけではなく、“竜巻”は規範を壊したものの比喩として使われているようである。映画「ガンモ」の世界とは規範が壊れてしまった世界なのである。しかしかろうじて規範の残骸は残っている。

 

※“竜巻”はすべての人に対して降りかかる災難の象徴なのだろうか。“竜巻”にのみ込まれるひととそうでない人がいる。のみ込まれる人と、のみ込まれない人の違いは何か(運命)?神によって救済される人とされない人(エバンジェリスト:選ばれた人たちだけ神によって救済される)?それともただ被害に遭う人と遭わない人が偶然存在するだけか?災害に筋書きなどない。すべては偶然起こる。それが自然だ。この映画での“竜巻”は秩序の破壊を象徴しているのだろう。しかし、神の怒りに触れたという意味もあるのだろうか?