私を高めて!!

 映画「シーズ・ソー・ラブリー(原題:She’s So Lovely)」を観た。

 この映画で特に印象に残る言葉がある。それは映画の冒頭と最後の部分での言葉である。映画の冒頭ではこう綴られる。「愛は寛容ではない/類(たぐい)まれな優しさ/B・R・ディグニン1892年(原文:Love is that kindness, so rarely kind, and never at all proper B.R.Dignin)」《「トリスタンとイゾルテ」に関係する?》。

 そしてまた映画の最後で物語の主要人物の1人であるヒロインを愛する男がこう言う。「よせ 争ってもムダだよ 彼女はお前のことも俺のことも愛していない 彼女は夢の女なのだから」。

エディ(ショーン・ペン)とモーリーン(ロビン・ライト)の愛し合う恋人たちがいた。男の方は、飲酒が元で生活がボロボロになり、女が浮気した相手を殺そうとして、精神病院に入れられてしまう。

そして10年後エディが退院すると、モーリーンは既に別の男ジョーイ(ジョン・トラボルタ)と結婚し、2人の間には子供がいた。その子供の中にはエディとモーリーンの子供もいた。

エディ(最初の男)とジョーイ(結婚した男)との間には共通点がある。それは2人とも、ヒロイン(モーリーン)が別の男と浮気した(モーリーンの付き合っている相手がエディの時は近所のサディスティックな男と、ジョーイの時はエディ(モーリーンはまだエディが好きである)が浮気の相手である)ことによって発狂して怒り狂っていることである。

2人ともモーリーンの気が、自分とは違った方向に向いてしまったことに対して激怒し、モーリーンの気が一時的に向かっている男に対して銃を向ける。モーリーンはこのことについて悲しんでいるのだろうか?そんな素振りはするが…。

彼女は彼らの嫉妬を見て喜んでいるのではないのだろうか?彼女は自分のことをよく思って欲しい。その確証のために「彼が自分について誤った見解(自分を上に見て欲しい)を持つように誘導している」のであり、その見解(モーリーンにとって良い見解)を相手が持っているのを確認するために、相手の中に「嫌な気持ちを起こさせる」いるのを見て喜んでいるのである(「」内、ニーチェ「力への意思」より)。

つまりこうだ。彼女は(彼らに)自分を彼らよりも一段上に上げてもらっているということを、彼らの嫉妬(激怒)により知って喜んでいるのだ。そこに彼女の愛はあるのだろうか?多分そこに彼女の愛はない。

あるのは他人を翻弄(ほんろう)して喜々としている、あまり思わしくない姿である。最後のシーンで結婚した男(ジョーイ)は、彼女を連れ去って行く男(エディ)を撃とうとするが、それはエディらによって取り押さえられる。

エディは自分の経験から学んでいるのだ。彼女の愛は夢であって現実ではないということを。つまり、エディが死んでもジョーイは救われないのだ。第二のエディが現れるだけだから。

 

※愛とは一時的な夢のようなものなのかもしれない。