根源性と向き合う

 映画「フランク(原題:Frank)」を観た。

 この映画は、音楽家(ミュージシャン)たちを中心にして描かれた映画である。この映画の主人公は音楽が好きで、音楽を自分で作曲をして、いつかはアーティストと呼ばれる存在になりたいと思っている青年(ジョン)である。

 ジョンは映画の冒頭で「海」と対面をする。すると彼の表情が変わる。町の風景を見ている時とは違う表情である。

 ある時主人公(ジョン)はいつものように海沿いの道を歩いていると、海の方で人が騒いでいるのに気がつく。フランク(この映画の中に登場するバンドのリーダー)のバンドのキーボーディストが海に入り自殺をしようとしているのである。

 「海」というのは根源性(ニーチェの言う)のことではないのだろうか?人は根源性の前に立つと、自身の中にある表面的な規範が崩されて、その時、自身の中に恐怖、戦慄、高揚感といったものが生じる。その恐怖、戦慄、高揚感といったものが美である。その美こそが望まれる姿である。

 主人公が海を見た時に表情が変わる。フランクのバンドの2代目キーボーディストは海に向かって進んでいく。両者は根源性に対する異なった態度である。主人公は根源性に出会って表情を変える。

 主人公の表情が変わっている印象的なシーンがある。それは主人公がフランクの音楽を聴いた後の表情である。満ち足りた表情をしている。

 後に主人公はフランクの音楽が人に受け入れられ易いものではないと感じ、主人公が受け入れられ易いと感じているものにフランクの音楽を変えていこうとするが、この時の主人公はフランクの音楽を聴いた時のような表情は見せない。主人公はただフランクの音楽の根源性に対することにより自らの中に美を生じさせているのである。

 フランクは、映画の終わり近くまで、頭部全体を覆うマスクを被り続けている。映画の終わりでフランクはマスクを取り去る。そして傷ついたフランクの姿が主人公の前に晒される。主人公のフランクは頭部の手術(ロボトミー手術?)の痕を隠すためにマスクを幼少期から被り続けていたのだ。

 マスクを与えたのは彼の父。父は言う。家庭は良かった。ただフランクのこころが病んでいたのだと。本当だろうか?原因は彼の病気だけのせいだろうか?「良い家庭」という規範が「良い家庭」という過剰さが彼の心を追い詰めていったのではないのか?

 映画のラスト・シーンで彼は彼がいったん逃げ出した彼のバンドのメンバーの輪に戻って歌う。「みんなを愛している」と。この歌の歌詞に映画を見る側は「良い家庭」という過剰さ(私たちは家族だから愛し合わなければならない!!もっと強く!!もっと強く!!)しか感じ取ることができないのだろうか?

 この歌を聴く主人公の顔には笑顔が見られる。フランクの歌は主人公にとって根源性であるからであろう(彼以前のキーボーディストたちと違って彼はフランクの歌に根源性を見て自らの中の規範が壊れて自殺に追い込まれるようなことはなかった。それは何故?きっと主人公は神格化されたフランクではなくて傷ついたフランクという人間に根源性を見たからではないか?傷ついたフランクを見て根源性の"強さ"が緩和されたのではないか?)。

 主人公は映画の冒頭と同様、フランクの歌に「美」を感じているのである。

 

※この文章は、ダニエル・ジョンストンのアルバム「1990」を聴きながら書いた。