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欲動と死と境界線

 映画「ハピネス(原題:Happiness)」を観た。

 どこにも救いがない映画、徹底的に解決というものを拒否している映画だ。主要な登場人物が複数いる。3人の姉妹とその両親、長女の家族、次女の隣人、三女と連れ添う男たち。次女の隣人の隣人、長女の子供たちも重要。

 ①長女の夫(2人の男子の父親)は隠れゲイで過去に複数の少年を犯していて、自分の息子のことを性的な対象として見ている。

 ②次女の隣人は、彼女がいなくて性的な衝動に駆られては、性的ないたずら電話を繰り返している。

 ③三女はストレート(男性のことが好き)なのだが、男性と安定した関係を築けないでいる。

 とにかくこの映画の登場人物たちは皆問題を抱えていて、その“問題点”を映画は徹底的に描こうとしている。

 長女は弱者の気持ちを想像することをしないし、次女は作家として作家として成功しているが、犯されたい願望を持っている。次女の隣人の隣人である女性は自分を犯した男の首を捩って殺している。三女の元恋人は自殺し、不倫をした相手は泥棒男だ。

 物語の中心となって目を引くのは、まず③三女、そして②次女の隣人の男、そして①長女の旦那である。3人とも自分の性的欲動をうまく処理できずに苦しんでいる。

 欲動の解決に苦しんでいるのなら、欲動を解消すれば解決するのではないかと思うが、3人のうちの2人(③、①)は、それぞれのやり方で欲動の解決をしようとして直接的行為(つまりセックス(行きずりのセックス、少年のレイプ))に出るが、直接的行為に出ても結局問題は解決されない。同じことを繰り返しているだけだ。

 自分の中にある欲動に向き合うことなく直接的に性的にみたされようとしても、何の解決にもなりはしないのだ。セックスがしたいとする。じゃあセックスをすればその欲動はなくなるのか?無くなりはしない。

 残る一人の男(②次女の隣人)は直接的行為に出ようとするが(セックスしようとするが)、相手に拒否されると(その女はレイプされたいと思っている次女)無理に相手に自分の欲動の解消を求めようとはしない。自分の性的欲動の衝動に身をまかせるのをやめる。

 性的欲動が満たされるのと、性的倒錯が治る(?)のは別である(そもそも性的倒錯とは誰かに危害を与えないならば問題なるのか?)。性的欲動が解消されても、人はまた同じことを繰り返す。

 ここであえて取り上げる。人が同じことを繰り返しても欲動が解消されないのなら、②次女の隣人のように、性的欲動の直接的な処理(この場合レイプ)を放棄するしかないのではないか?それには一定の経過を必要とするが。

 次女の隣人の男が、次女を犯すことなく、性的欲動を抑え込めたのは何ゆえか?何故男は暴力に訴えなかったのか?それは彼が自分の隣人の女(次女の隣人の隣人)からある話を聞いたからである。

 彼女(次女の隣人の隣人)は、自分を犯した男を殺したと聞いたからである。結局男の欲望が消えたのは自分の死の予感を感じだからである。それでその男は“癒されて(恐怖に感じて)”行動に移さなかったのである。

 ①長女の夫は自分の性的欲動に身をまかせて、少年を犯した。そこには強い抑圧感がある。何故なら社会は少年と交わる成人男性を認めない(たとえば彼の妻(長女))から。

 ③三女は愛を求めて男と交わるが彼女の心の穴は埋まらない。なぜなら、彼女は自分から欲動を認めようとはせずに相手に身をまかせてばかりだから。

 繰り返すが、②次女の隣人の男は、結局意中の人(次女)を犯さない。何故なら女性を犯して死んだ男を知っているから。となればただ人間の目前にある死のみが社会的規範(たとえば、法や道徳)を越える行為を止めて、性的欲動を抑え人間を社会内に押し留めているのか?

 映画は社会的規範のボーダーライン辺りを進行することにより、映画を観る者自身の規範に挑みかかってくる。少年と成人男性の恋はありえるのか?生徒と教師の愛はありえるのか?変態男に性的満足は与えられるのか?夫婦とは何か?恋人って何か?父とは何か?

 あらゆるものがこの映画の中で秤に、篩(ふるい)にかけられている。境界者たち(ボーダーラインの辺りにいる人達のこと)は何処に行けばいいのだろうか?ただ抑圧されるのみか?それとも社会側からの歩み寄りはあるのか?“微妙な問題”である。

 情動は本能である。本能は繰り返しを求めるのである。