喜びを開放しろ!!但し、し過ぎには注意!

映画「天才マックスの世界(原題:Rushmore)」を観た。

「大きな喜びを経験した者は、それを皆と共有すべきだ J・Y・クストー」

 ※J・Y・クストー→ジャック=イヴ・クストー Jacques-Yves Cousteau(1910~1997)フランスの海洋学者。

 ラッシュモア高というエリート校に通うマックス・フィッシャーは、ある日成績不振のために、成績が上がらないなら学校を退学にすると校長に告げられる。そんな中、図書館で海洋学のテキストを読んでいた時にある落書きに気づく。

 そこにはこう書いてある。「大きな喜びを経験した者は、それを皆と共有すべきだ J・Y・クストー」その言葉に何かを感じたマックスは、本の貸し出し記録を調べて、ある一人の女性教師にめぐり会うことになる。

 本に書いてあった言葉と、その書き主である女性に惹かれた彼は、彼女に恋をする。そして彼の彼女への思いを中心として彼は徐々に成長をしていく。又、彼に愛された彼女は夫と死に別れて鬱々とした日々を過ごしている。

 又、マックスの学校で講演をしていた会社経営者とマックスは親しくなるが、会社経営者(ハーマン)と彼は彼女(女性教師:クロス)を巡って戦うことになる。マックスは成長をする。母の保護から離れて父を受け入れる。それはこんなエピソードからわかる。

 マックスは母の推薦で名門校(ラッシュモア高)に入っているが、そこを(結局)退学になり、父親の家業である床屋を手伝い物語の最後では、他人に父親を紹介する際に父親の職業を医者であると偽ることなく「自分の父親の職は床屋です」と周囲の人に対して紹介することができるようになる。

 女性教師(クロス)はどうか?彼女は死に別れた夫を忘れられないでいる。最初はマックスを死んだ夫と重ねて思い出に浸っているが、最後にはマックスの額に付いた血を見て、あなたは傷ついているわ、とマックスの存在を認めて、マックスと重なっていた夫の姿はどこかに消えている(マックスは散々クロスに心を引っ搔き回されて自爆的に、傷心していた)。

 マックスの友達の会社経営者(ハーマン)はどうか?彼は妻との偽りの愛の日々に、マックスを通じて女性教師との愛を経験することで決別することができる。

 ところでマックスの惹かれたJ・Y・クストーの言葉をどう理解すればいいのだろうか?この言葉の内容はマックスの態度によく現れている。自分が感動したことに対して彼は正直で、学校でクラブを作ったり、水族館を作ろうとしたり、舞台の脚本を書いたりする(マックスは脚本の才能を認められて名門ラッシュモアに入学したことになっている)。

 つまり喜びを多くの人と共有しようとしているのだ。会社経営者(ハーマン)に女性教師(クロス)を紹介をしたのも喜びを共有するためか?これは違うようである。彼女については、彼は彼女を独占しようとしているようである(マックスは紹介した当初は喜びを分かちあいたかったんだろうが)。

 彼女に対してはマックスは開放的ではないのだ。3人(マックス、クロス、ハーマン)に共通しているのはこの点のようだ。3人は物語の多くの部分で相手の愛を独占しようとする。しかし、最後のシーンでは違う。

 マックスの彼女は会社経営者(ハーマン)とダンスするし、マックスは自分の書いた劇の公演にハーマンや女性教師があるとき連れていた男の医者も呼んでいる。女性教師(クロス)も、自分が持っている愛をマックスに注ぐことが可能になっている。

 彼らはマックスが自分の喜びを共有することにより救われているのだ(マックスは映画の最後で自分が作った劇(喜びを分かち合うもの!!)にハーマンとクロス達を呼んでいる)。マックス自身も。彼らも。

 クロスもハーマンも初めは愛という喜びを抑圧した人物として登場する。クロスはマックスとの歳の差を、身分上の際どさ(?)(教師と生徒)、ハーマンは妻を持ちながらにして別の女性を好きになってしまったことをうまく受け入れられない(決して不倫がいいというわけではない)。

 自分の気持ちに気づいて、その気持ちを是認もしくは否認するという作業が大切なのだ。愛という喜びを抑圧せずに解放したらどうなのだろうか!?この映画はそう訴えかけてくる。

 大きな喜びを感じたらどうするか?そう、皆でわけあうのである。人に言えないようなことはない!?(自分の気持ちを認めるのと、他人に告白するのはまた別の問題。告白しないことがいいこともある)

 マックスは大人達に欲動への抑圧を解放することを教え、大人達はマックスに欲動のコントロールを教えた。それにより両者は安定したのである。抑圧過剰、解放しすぎから脱したのである。