経済が人間を支配する

映画「家族を想うとき(原題:Sorry We Missed You )」を劇場で観た。

この映画は2019年のイギリス・フランス・ベルギー合作映画で、イギリスの労働者階級の困窮する生活を描いたドラマ映画だ。

この映画には、イングランドニューカッスルに住む一つの家族が登場する。この家族がこの映画の主な登場人物たちで、この映画はこの家族を軸にして進んで行く。このターナー家は、父のリッキー、母のアビー、長男のセブ(セバスチャン)、妹のライザ・ジェーンから成る4人家族だ。

この家族が困窮しているのだが、その原因は2008年の世界金融危機、日本でいうところのリーマン・ショックだ。ターナー家は家を購入していたのだが、その家は今は手放し負債だけが残っている状態のようだ。つまりターナー家は借金を背負っている。

この状態はターナー家だけではないらしい。この映画ではターナー家が中心として登場し他の家族については詳しくは触れられないのだが、アビーが勤務先で話している会話の内容には他にも世界金融危機が原因でターナー家のような状態に陥った家族は沢山いるらしい。

アビーの勤務先と書いたが、アビーは看護師、介護人として「ゼロ・アワーの奴隷の土地(※1)」で働く人間だ。同じく夫のリッキーも「サービス経済の奴隷制(※1)」の中で働くことになる。

リッキーは大手の配送会社にフランチャイズとして働くことになる。雇用者と労働者の健全な関係ではなく、リッキーは以前は労働者だったが、リッキーも一雇用主として働くことになる。ここがこのシステムの奴隷制と呼ばれる理由がある。

配送する荷物の量が多く、トイレに行く暇もない。しかも配送に使う車は自分で購入するか会社からリースするかでどちらにしても大きなコストがかかる。傷病手当も出ない。家族の扶養をしたいのならとにかく多く荷物を運べが会社の態度で、家族の子育てには会社は何の理解も示さない。一雇用主は労働者より過酷な状況におかれることになる。

父と母が共働きで子供と触れ合う時間はほとんどない。長男のセブはストリート・アートであるグラフィティにはまり、自分の手帳にもたくさんのアートを描いている。当然グラフィティは世間的に見たら落書きで犯罪なので、周りの大人たちから邪険に扱われる。

父と母と会う時間が少なくなって学校でも問題を起こすようになり、ついには警察の厄介になることになる。警察はセブに言う。「お前はonboardしろ」と。onboardとはどうやら経営学的な言葉のようで“組織の中で新しい従業員を、効果的に統合する手順を経ること。もしくは、ある人の製品またはサービスを、新しい顧客または新しいクライアントに熟知させること(※2)”だ。つまり警察はセブにこう言うことになる。「お前は人間としてより従業員や顧客として社会に順応しろ」と。

この映画の中で搾取されるのは働いているリッキーとアビーだけではない。セブやライザも搾取されている。前述したようにセブは顧客として優秀になれと警察から諭される。そこに包摂的な社会の温もりはない。ライザは両親の多忙と父と兄の関係の劣悪化が原因で夜眠れなくなっている。

社会を牛耳っている者がいるとしよう。それはきっと一部のリッチな人たちだ。世界の富の半分を持っている、全人口に中の1%の人たちのことだ。1%は言う。君たちもリッチになれば幸せになれる。だから働きなさい。チャンスはそうたくさんあるものではない。チャンスを逃すな。リッチになって物をいっぱい買って、子供たちをいい学校に行かせ、楽しい老後を暮らしなさいと。

このメッセージは一見素晴らしいメッセージのように思われる。しかし、人生に物が必要なのはそう多くの機会でない。物は人を幸福にしない。したとしてもその幸福の一瞬の時が得られるだけで、後は一瞬の幸福のために負債を抱えることになる。

この映画に登場するターナー家も負債を抱えている。最低限の暮らしを手に入れるために。ここでまだ我々が遊牧民であったころに思いを巡らせてみよう。ある人はこの問いかけに「またか。消費社会の外などない」と言うだろう。しかし、遊牧民の価値観はシンプルだ。食べて、寝て、起きて、子を作り、死んでいく。物質は自然から直接的に得るものだけで十分だ。

今から遊牧民の生活に戻ることはできないかもしれない。しかし、人間の価値観とは作られるものだ。何万年前の遊牧民に通販会社のアマゾンは必要なかった。それは彼らに技術がなかったというよりも、そのような価値観を所有していなかったからだ。“アマゾンでお得にお買い物”というような。

価値観の脱却を図ることは難しいかもしれないが、その価値観を緩やかにすることはできるはずだ。良い学校でも、良い会社でも、良い家柄でもなく、良い生活を目指すような価値観を。その良い生活とは物質のことではなくてもっと精神的なものなのかもしれない。

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/家族を想うとき 2019.12.30閲覧
https://www.theguardian.com/film/2019/may/16/sorry-we-missed-you-review-ken-loach 2019.12.29閲覧 ※1
https://www.imdb.com/title/tt8359816/ 2019.12.29閲覧
oxford Dictionary of English Oxford University Press 2010,2017,2019 MSDict Viewer version11.2.546 ※2

イメージの固着

映画「モリーズ・ゲーム(原題:Molly’s Game)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、モリー・ブルームという女性の半生を描いた映画だ。この映画の主人公であるモリー・ブルームという女性は、スキーのフリー・スタイルの選手で、全米の中でも有力な選手で、国を代表するような選手だった。

しかし2002年に競技中にジャンプの着地に失敗してその時の怪我が元でスキー選手を引退している。そしてその後のモリーは、トランプ・ゲームの賭博の世界に足を踏み入れる。

モリーが賭博の世界で行って行っていたのは、最初は賭博場で貰うことのできる高額のチップのためだった。

アメリカにはラスベガスがある様に賭博に寛容な州もある。アメリカでカジノが厳しく制限されている州は、アーカンソー州ハワイ州ユタ州だ。この映画中モリーが賭博をするのはカリフォルニア州ニューヨーク州だ。ちなみにこの2つの州でも、どの程度の賭博行為までが許容範囲であるかが線引きされているようだ。

このボーダーラインというのが賭博で手数料をとることにあり、もしこの行為をすると連邦法1955条に違反する。映画中にモリーが賭博の手数料をとる場面があるが、これは賭けに負けた人が払いきれないような金額が賭けられた時の対処法だ。

負けが大きくなり過ぎで払えないとなると、ゲームが成立しなくなり、暴力的な解決策に走ってしまう恐れもあるので、その危険のリスクを少なくするために、モリーは手数料をとる。

モリーのした違反行為は、裁判所の判断によると世間が騒ぐほどのものではなく、軽犯罪として見てもいいものであるということだ。つまり、このモリーズ・ゲームの主題となっているような賭博のチップでもうけて悪いことをしているというような見方は、それ自体が無効なものであると言っていいのではないか。

つまりマスコミはモリーの犯した軽犯罪を大きなものに見せかけて世間を騒がせること成功したし、FBIもそのような風潮に便乗していたのだ。

スポーツ選手には不思議なことに世界的に似たようなイメージがある。スポーツは神聖なものでセックスやお金とは一切関係がないというようなイメージだ。

世間のこのような見方は、モリーに対しても注がれた。我々は普段の生活の中でイメージに捉われて、実は無効な思い込みをしていることがある。このモリーズ・ゲームという映画は、その思い込みの存在に気付かせてくれる。

準自立

映画「レディ・バード(原題:Lady Bird)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、青春映画だ。この映画の主人公はクリスティン・“レディ・バード”・マクファーソンという高校生の女の子だ。

レディ・バードキリスト教の学校に通っている。映画の中ではキリスト教のシスターが登場して「キルゲゴールの恋愛は良いわ」と言ったりする。その他にもシスターはトマス・アクゥイナスやアウグスティヌスの名を出すこともある。

ちなみにキルゲゴールの恋愛とは実らなかった愛で、悲愛と呼べる(キルゲゴールは一方的に婚約を破棄している)。

恋に焦がれる十代の少年少女たちにキルゲゴールの恋愛を勧めるのはなんともおかしな感じがするが、そこがこの映画の少しくすっと笑える点だ。

レディ・バードは母であるマリオン、父であるラリー、兄であるミゲル、そして兄の恋人のシェリーと一緒に暮らしている。

レディ・バード東海岸の大学(例えばニューヨークの)に通いたいと考えている。それに対して母マリオンは地元の学校つまり西海岸にある大学に通って欲しいと思っている。

レディ・バードはこの映画の中で2人の男子と恋愛関係になる。1人はダニー、もう1人はカイルだ。2人との恋愛は悲愛となる。ダニーもカイルもレディ・バードとの相性が良くはなかったのだ。

レディ・バードにはジュリアンという女友達がいる。レディ・バードはジュリアン・“ジュリー”とは良好に関係を持つことがなんとかできる。なんとかというのは、レディ・バードは、カイルと付き合いたいがために、ジュリーと離れてジュナという女友達と付き合うことになり、レディ・バードとジュリーの関係は冷え込むからだ。

この映画の主軸となっているのは親子関係、恋愛関係そして友情だ。特に親子の関係がこの映画の目を引く部分だ。十代からすれば少し説教臭いかもしれないが、この映画が良質である点は親子の愛情をユーモラスに描いている点だ。

この映画では軽く妊娠中絶の話が登場する。そしてその話が映画の終盤に繋がる。それほど目立ってピックアップされるわけではないが。

レディ・バードサクラメントというカリフォルニアにある田舎町から大都会のニュー・ヨークを夢見る女のだ。都会の華々しさと喧騒。そのような部分や都会の持つ文化にレディ・バードは憧れている。

しかし東海岸には頼れる親はいない。しかし、大都会の中で生活することにより、親から与えられた名を使うようになる。レディ・バードという高校時代の自称の名ではなく。それが頼れる親を思い起こさせるような印であるように。

 

家族とは何か?

映画「ブリグズビー・ベア(原題:Brigsby Bear)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディ・ドラマだ。アメリカの砂漠に、ジェームスという成人男性が隔離監禁されている施設(シェルター)があった。というのがこの映画の設定だ。

テッドとエイプリルという男女が、エイプリルがさらってきた男の子を育てたというのがこの映画の冒頭で、この映画の中心となる要素だ。

ジェームスは元はポープ―一家の子供で、テッドとエイプリルの子供ではなかった。エイプリルがジェームスをさらってきて、砂漠の中にあるシェルターで家族として暮らしていたのだ。

ジェームスは自分の父と母がテッドとエイプリルだと信じ込んでいる。しかし、当然のように狭い空間の中での生活はジェームスにとっては苦痛となっていた。そのジェームスを支えていたのが、ブリグズビー・ベアが主人公となったビデオ・テープだ。

ビデオ・テープの中のブリグズビー・ベアは、ジェームスに様々なことを教えてくれた。しかしある時、テッドとエイプリルそしてジェームスの共同生活は終わる。FBIがジェームスが監禁されている場所を突き止めたからだ。

ジェームスは実の両親の元に帰るが、実在の社会になじむことができない。ジェームスの頭の中はブリグズビー・ベアのことで一杯だ。しかし状況は変わる。

それはジェームスがブリグズビー・ベアは作り物で、実際の作者はテッドであることがわかったこと、そしてテッドの監督という役割を知ったということによる。そして誰でも監督になることがわかったこともその内に含まれる。

ジェームスは言う。「僕はブリグズビー・ベアを使って映画を作る」と。ジェームスの部屋の壁は映画の絵コンテで一杯になる。ジェームスと現実の社会が折り合いをつけるもの、それがブリグズビー・ベアの映画なのだ。

砂漠のシェルターで監禁されて育ったジェームスは当然社会に最初は適応できない。しかし、映画がジェームスと社会との仲介者となる。

ジェームスは映画中精神病院に入院することになる。それはジェームスの頭の中にはブリグズビー・ベアの映画のことしかなくなるからだ。目の前にある危機(=現実社会)に対して、ジェームスはブリグズビー・ベアの映画を通じて向き合うことになる。

ジェームスは元の家族と今の家族との接続をなんとかすることに成功する。ジェームスは家族そして家族のようなものにより生きていくのだ。

個人的な物語が共通の物語になる

映画「グッバイ・クリストファー・ロビン(原題:Goodbye Christopher Robin)」を観た。

この映画は2017年のイギリス映画で伝記映画だ。この映画の主要な登場人物は、父であるA・A・ミルン、その妻であるダフネ、2人の間の子供であるクリストファー・ロビン・ミルン、そしてクリストファー・ロビンの世話をするオリーヴだ。

この映画のタイトルにもあるクリストファー・ロビンとは有名な本である「くまのプーさん」に登場する人物であると同時に、実在の人物でもある。

くまのプーさんに登場するクリストファー・ロビンとは、くまのプーさんの作者のA・A・ミルンの実在した子供だ。クリストファー・ロビンとは本の中のだけの人物ではなく、実際にその本のモデルとなったクリストファー・ロビンが存在した。

クリストファー・ロビンくまのプーさんの本が世界中で大人気となったために、誰からも注目される存在となった。しかしクリストファー・ロビン本人はそのことをあまり好んではいない。

例えばクリストファー・ロビンは、寄宿学校に入学することになるが、そこでいじめにあう。いじめの原因はクリストファー・ロビンくまのプーさんに登場するクリストファー・ロビンのモデルであったことによる。

寄宿学校に入る前の生活もクリストファー・ロビンには好ましいものではなかった。動物園で動物を見ていると、熊と一緒に写真を撮ってくれと頼まれたり、アイスを食べていると「あなたもしかしてクリストファー・ロビン」と話しかけられる。

クリストファー・ロビンの世話をするオリーヴは映画の中でこう言う。「子供は家の中にいるのが好きなんです」と。

クリストファー・ロビンはただ父と母とオリーヴたちと家の周辺で仲良く暮らしたかっただけなのだ。それを理解していたのはオリーヴだけだった。

A・A・ミルン第一次世界大戦に兵士として出征する。そしてC・R・ミルンは第二次世界大戦に兵士として出征する。親子そろって戦争に行くことになる。それを恐れていたのは母のダフネだった。

戦争に行く前にクリストファー・ロビンは父にこう言う。「僕はプーのおかげで散々だった。プーは嫌いだ」と。しかし戦争から帰ってきたクリストファー・ロビンはこう言う。「父さんの作った話はすごい。世界中の人にぬくもりと幼さを与えている」と。

それに対して父A・A・ミルンはこう答える。「あのくまは私たちだけのものだ」と。世界中の人々にとってくまのプーの物語は私たちだけの物語であるのだろう。そしてこの映画の中で、父が言う私たちだけの物語は、世界中の人々の心の中に特別な物語として浸透しているのだろう。

女性の地位向上と同性愛

映画「バトル・オブ・ザ・セクシーズ(原題:Battle of the Sexes)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、スポーツ・コメディ・ドラマ映画だ。この映画の主人公はビリー・ジーン・キングという女性プロ・テニス・プレーヤーだ。

ビリー・ジーンはテニス業界の仕組みに疑問を持っていた。その疑問とは、男性プロ・テニス・プレーヤーと女性プロ・テニス・プレーヤーとの賃金格差だ。なぜプロのテニス・プレーヤーで男性と女性の間に8倍の格差があるのか?なぜ男は女よりも8倍も多くのお金を受け取ることができるのか?つまり男女の賃金格差への疑問がビリー・ジーンの間にはあったのだ。

この映画の中でビリー・ジーンは、全米テニス協会に対抗して、WTA(女性テニス協会)を立ち上げる。この団体は当然女性の権利確立のための団体だ。女性の地位の向上。それがビリー・ジーンの表立った目標だ。

ビリー・ジーンの動きに反応して、その女性の地位向上の流れに逆らう者が出て来る。その人の名はボビー・リッグスという。ボビーは賭け事が大好きなギャンブル依存症の元名テニス・プレーヤーだ。

そのギャンブル依存のために妻から離縁を申し込まれている身だ。ボビーは正直、男性と女性の地位の格差には興味がなさそうだ。ボビーの頭の中にあるのは、どうしたら妻が自分の元から去って行くのを止められるか?ということだ。

ボビーの妻はどうやらボビーよりも金持ちで、過去にボビーのためにお金を世話してやっているらしい。だからボビーはそんな妻に頭が上がらないのだ。だからボビーは余計にあがいて、妻に頭の上がらない状態から脱却するために女性を卑下しようとするのだ。実生活では真逆なのだが。

つまりボビーは女性の下で生きているために上に行きたくてしょうがないのだ。よの中で妻や女性が、夫に威圧されて暴力を振るわれているのとは、ボビーの立場はちょっと違う。女性が強すぎるために、男尊女卑をボビーは押し出す。

ビリー・ジーンの表面上の動きは、女性の地位向上だ。しかし水面下でのビリー・ジーンは同性愛者としての葛藤を抱えている。そしてこのことは、1970年代当時タブーとされていたのだ。

女性の権利獲得は表面的に表立って戦うことができるが、自分が同性愛者であることは水面下に隠しておく。ラスト・シーンのビリー・ジーンの涙は、この事実を表しているかのようだ。

視点が変われば視界も変わる

映画「ダウンサイズ(原題:Downsizing)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、SFコメディ映画だ。この映画の主人公は、ポール・ノリス・サクラネックという中年男性だ。この映画のタイトルのダウンサイズとは、人間のサイズをダウンする、つまり人間を小さくしてしまうということだ。

例えば身長180㎝の人が12.9㎝になってしまうというような。人間が物理的に小さくなる技術が誕生したのがこの映画の世界だ。

ダウンサイズするとどんないいことがあるのか?例えば生活費が安くて済む。身長12.9㎝の人間の必要とする土地も食糧も。例えば衣類なども身長180㎝の人間が生活に必要とする分よりも少なくても済む。

つまりダウンサイズは生活費の節約になる。そして他にもダウンサイズの目的はある。それは人類の抱える問題の克服だ。人類の問題とは何か?それは人口過剰であり、異常気象であり、食と水の汚染、不足の問題だ。

ダウンサイズすれば、人間の消費する資源の量は減り、地球の環境に良いばかりでなく、人類自体の存続のためにも良いのだ。

この映画は前半の1時間と後半の1時間とにわけることができる。前半の1時間はポールがダウンサイズするまでのアメリカでの日常の物語だ。後半の1時間はダウンサイズして女性活動家ノク・ラン・トランと出会う物語だ。

ポールは映画の前半ではオードリー・ラスティグ・サフラネックと共に平凡なアメリカの国民として生活している。夫婦共にダウンサイズする約束であったが、ポールの妻オードリーはダウンサイズする最中に気が変わり、ポールの元から去る。

そしてポールは1人でダウンサイズした後の優雅なはずの生活を過ごすことになる。

しかし、ノク・ラン・トランとの出会いでポールの人生は一変する。ダウンサイズした後に生活することになる小規模な居住区の中にも貧富の差が存在したのだ。

ノク・ラン・トランは貧しい人々の生活のために、金持ちの人々の家で食べ残した食べ物や、スーパーの破棄処分される食べ物を配っている。つまり金持ちの生活の余剰分をノク・ラン・トランは配分しているのだ。

ノク・ラン・トランはベトナムの家をダム建設のために失っている。ダムの建設の反対運動をしたために、ノク・ラン・トランはダウンサイズされることになる。ノクは片足の膝より下がない。抗議活動が原因で何らかの事故に巻き込まれて失ったのだ。

ノクは言う。「人は死を意識した時に生きられるようになる」。アメリカの平凡な中年が新転地で見つけた生き方。それは私たちに何とも言えない爽快感を与える。