クライアントがロビー団体を通じて政治家をコントロールする

映画「女神の見えざる手(原題:Miss Sloane)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ・フランス合作映画で、映画のジャンルはスリラーになる。この映画の主人公は原題にあるようにスローンという女性だ。正式な名をマデリン・エリザベス・スローンという。

スローンはロビー団体で働く女性だ。ロビー団体とは何かというと、企業団体などが雇った団体であり、雇い主の企業等のために働く団体だ。ロビー団体は雇い主の意向を叶えるために、政治家を支援する。

つまり例えば企業はロビー団体を通して自らの意向を政治家に伝える。企業はロビー団体を使って政治をコントロールしようとする。コントロールの道具として用いられるのはお金だ。

アメリカで政治活動をして生きていくためには議席を確保する他ない。つまり議員になることによって政治家は生活してゆくことができる。選挙で当選することが政治家にとっては一番重要なことだ。

選挙で勝つためには何が必要か?それはお金だ。選挙活動として有料メディアに出ることが、政治家が議席を得るためには欠かすことのできないものになっている。メディアに出るにはメディアにお金を払わなければならない。政治家の手元にそんな金はない。

ではどうやって政治家はお金を手に入れるか?それは援助によってだ。つまり企業などの団体により作られたロビー団体からのお金の援助によって、政治家は有料メディアに出ることができる。

つまり選挙に勝つためには、ロビー団体からの資金が政治家にとって欠かすことのできないものなのだ。

そしてロビー団体は自らのクライアントの意向に合わない政治家に資金を融通することはない。よって政治家はロビー団体の言いなり、つまりある特定の資金源となる団体に逆らうことはできない。

ロビー団体の一員として働くロビイストの意向はクライアントが決める。

この映画には銃を持つことに賛成する団体と、銃を持つことを規制すべきだという団体とが対立している。当然のようにそれぞれの団体は、自らのロビー団体を持つ。つまり銃賛成派のロビー団体と、銃反対派(規制派)のロビー団体が戦うことになる。

ロビー団体にとっての勝利とは何か?それは自分たちの意向をくんでくれる議員が議会の多数派になることだ。自分たちの意向に沿った制度、法が成立するように。つまりお金のある団体は政治家にどんどん金を流し、自らの意向を達成する。

つまり金のある者が、自身に都合の良いように政治をコントロールするという事態になる。ここに国民の合意ではなく、お金が国をコントロールするという事態が発生する。あるのは国民の合意ではない、あるのはお金による国のコントロールだ。

人の限界

映画「彼女がその名を知らない鳥たち」を観た。

この映画は2017年の日本のミステリー映画だ。この映画は、主人公の北原十和子の恋愛を描いた映画といえる。この映画で描かれる十和子の姿は恋に疲れているという印象を映画を観る者に与える。

この映画で十和子と関係を持つ男性は時間順に上げると以下の通りになる。①黒崎俊一②佐野陣治③国枝④水島だ。十和子は佐野陣治と出会った後は、陣治の家に同居しながら他の男と関係を持っている。

前述した4人の男性の内、十和子を性的欲求のはけ口のみとして利用しないのは陣治だけだ。陣治と十和子は性的関係にあるのだろうが、陣治以外の男は十和子を自分の利益のために利用することしかしない。陣治のみが十和子を1人の人間として受け入れる。

北原十和子は見た目が良くて、職業が立派(ホワイトカラー)の男が好きな女の子だ。ただ問題は、見た目が良くてホワイトカラーの男が好きな女の子が多いというところだ。つまり見た目が良くてホワイトカラーの男は女性を選びたい放題なので、自分の都合に合わせて女性を切ったり、選んだりする。

つまり、見た目が良くホワイトカラーの男は女性の気持ちを考えない。見た目がいい男たちは、ご都合主義である。相手の気持ち(この場合十和子の気持ち)は考えない。

愛が裏切られて裏切られて窮地に陥った人間はどうなるか?愛はいつしか憎しみに変わる。その憎しみで自傷に向かうのか、それとも外に向かってエネルギーを発散するかは人それぞれだと思われるが、高いストレスを抱えた人間は正気でいることなどできなくなる。

この映画に登場する男たちは陣治を除いて、強欲だ。この映画の男が望むのは地位と金と名声と女だ。そのためにはどんな酷いことでもする。

この映画の中で特に酷いのは黒崎と国枝だ。黒崎は自分の出世のために、国枝という権力者に、十和子を国枝の性欲の犠牲者とする。もしかしたら、この映画を観る人には、黒崎、国枝、水島のやっていることはたいしたことには映らないかもしれない。

しかし、十和子が追い詰められた先で暴力を発する時に、多くの人々はふと我に返るだろう。自分たちのしていることは何ということだったのかと。否、もしかしたら十和子の暴力の理由が分からずに、ただ恐怖するだけなのかもしれない。

人間は人間により時に癒され、時に傷つく。それを知らない人は罪深い。

共有と所有

映画「マザー!(原題:mother!)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサイコ・スリラーというものだ。この映画の内容を簡単に言ってしまうと、こうである。それはこの映画は破壊と創造についての比喩的な映画だということだ。

映画は詩人である夫とその妻の2人を中心として描かれる。そしてこの夫婦2人のパーソナリティーの対立を通して、破壊と創造についての比喩的な映画が成り立っている。夫婦の夫は共有を、妻の方は所有を表していると考えることができる。

そして共有と所有はこの映画の中では対立するものとして描かれている。この共有と所有との対立から破壊が生じて、すべてが破壊しつくされて、最後に再生するというのが、この映画の大雑把な筋ということができる。

共有と所有とは何か?例えばあなたはリンゴを手に入れたとする。それを他の人と分け合う。これが共有だ。他方、手に入れたリンゴを自分1人のものとする。これが所有だ。共有も所有もものを持っている状態には違いはないが、所有には独占するという意味合いが強く現れている。

共有は「皆と分け合いましょう」であるが、所有は「これは私のものです」と独占的主張をする。

この映画の主人公はヒロインである妻だ。通常映画では主人公は善人に、対立する人物は悪として分かり易く描かれる。つまりこの映画の中では、善=妻、悪=夫となっている。そして夫は共有を表し、妻は所有を表している。

つまり、善=妻=所有、悪=夫=共有という図式がこの映画の中では用いられている。善人である妻は弱々しく規範的に描かれるが、夫とものを共有する人々は強く、強欲で、規範から逸脱しているように見受けられる。

この映画に用いられているイメージは共有を悪とするような視線を観る者に与える。実際人間はこのような対立で現れるわけではない。むしろレベッカ・ソルニット [レベッカ・ソルニット 訳/高月園子, 2014]によると共有しようとする人々の方が善的な行為をする人たちだ。サンフランシスコ地震の後に人々が自発的(内発的)な善意のコミュニティを形成したように。

そして軍隊が規範の押し付けのために罪のない人々をどさくさに紛れて殺したという事実をレベッカ・ソルニットは示している。市民は無知で暴力的だから、軍が市民から街を救う。

さてこの場合街とは何のことだろうか?街とはこの場合ただの箱モノでしかないのではないだろうか?そこに人々の姿はないのだ。

 

 

参照文献

レベッカ・ソルニット 訳/高月園子. (2014). 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか. 千代田区神田神保町1-32: 亜紀書房.

 

 

疑心暗鬼と憧れの肉体

映画「ゲット・アウト(原題:Get Out)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画だ。この映画は、人々の内にある他者への憧れを描いた映画だ。この映画の中にある対立は白人と黒人との対立であり、この対立を逆手にとって映画は作られているといえる。

黒人の青年クリス・ワシントンと白人の女性ローズ・アーミテージは付き合っている。クリスはローズに家族に紹介したいと言われて、渋々ながらローズの家に行く。なぜクリスはローズの家に渋々行くのか?

それはクリスが白人と黒人との状況について悲観的なイメージを持っているからだ。その悲観的なイメージとは、白人たちが黒人を差別しているというイメージだ。否、このイメージは空想ではなくクリスにとっては現実かもしれない。

なぜなら周囲の環境の中で人間が自らの中に作り上げる想像物は、それをあたかも現実であるかのように思わせるからだ。クリスにとっての想像物とは白人による黒人の差別のことだ。

映画を観る人は主人公のクリスの立場で、映画を観ることになる。クリスの立場とは、黒人を差別する白人たちに怯える黒人というものだ。クリスの想像物とは黒人差別のことだ。またこうも言えるかもしれない。

クリスは白人たちが黒人を差別する人種であるという差別の視点を白人たちに向けていると。

この映画を観終わった後に連想されるのは「マルコヴィッチの穴」という映画だ。「マルコヴィッチの穴」では、永遠に生き続けることを望む人間たちが、若い人間の体の中に入り込んで生き続けるという映画だ。

人が自らの命のために他人の体を従属させ、他人の体を利用して生き続けると言うのが「マルコヴィッチの穴」という映画だった。この映画「ゲット・アウト」とは「マルコヴィッチの穴」の発想を受け継いだ映画だということができる。

ゲット・アウト」の中に登場する白人の老人たちは若い黒人の体に憧れを持っている。クリスは白人たちが黒人を差別していると思っているが、実はある一面として白人たちは黒人たちを羨望している。

しかしその白人の持つ憧れは捩れた憧れだ。なぜなら年老いた白人たちは、黒人の体を自らの欲望のための道具としてしか見ていないからだ。この映画の中には黒人に憧れるがゆえに黒人を傷つけてしまうというアンヴィヴァレントな白人の態度が現れている。

そしてそれは映画の中だけの話なのだろうか?

後世に多大な影響を与えた音楽

映画「ギミー・デンジャー(原題:Gimme Danger)」を観た。

この映画は2016年のアメリカの音楽ドキュメンタリー映画で、アメリカのバンド、ザ・ストゥージズについての映画だ。

現在のミュージシャンたちに多大な影響を与えたパンク・ミュージックというものが存在する。そのパンク・ミュージックのミュージシャンたちに影響を与えたとされる3つの60年代のバンドがある。

そのバンドとは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、MC5、そしてザ・ストゥージズだ。ザ・ストゥージズと一緒に活動していた期間があるMC5。ザ・ストゥージズのファースト・アルバムのプロデューサーであるヴェルヴェット・アンダーグラウンドジョン・ケイル

ヴェルヴェッツ、MC5、ザ・ストゥージズは60年代に交流があったアーティストたちからなるバンドだ。ヴェルベッツ、MC5、ザ・ストゥージズビートルズローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンというようなバンドのように商業的な大成功はしなかったが、ヴェルヴェッツ、MC5、ザ・ストゥージズの影響を公言するかのようなバンドは数多くいる。

この映画「ギミー・デンジャー」の監督であるジム・ジャームッシュも、ザ・ストゥージズに影響を受けたアーティストの1人だ。

ザ・ストゥージズといえばイギー・ポップというフロントマンの名前が連想される。イギー・ポップは世界中で大ヒットした映画「トレインスポッティング」の主題歌「Lust For Life」を歌っていることで有名である。

そして映画「トレスポ」から2年後の1998年に「べルヴェット・ゴールドマイン」という映画が登場する。この映画の主人公は、イギー・ポップとデイヴィッド・ボウイを足したような人物である。

そしてこの映画「べルヴェット」を起点として、ザ・ストゥージズの再結成が実現する。この再結成は、この「ギミー・デンジャー」という映画自体の存在に大きな影響を与えているのだろう。

この再結成の成功が、ザ・ストゥージズというバンドは商業的価値だけでなく、歴史的価値があるということをあらためて証明したからだ。

ザ・ストゥージズのメンバーはイギー・ポップ(ヴォ―カル)、ロン・アシュトン(ギター、ベース)、スコット・アシュトン(ドラムス)、デイヴ・アレクサンダー(ベース)、スティーヴ・マッケイ(サックス)、ジェイムス・ウィリアムスン(ギター)という人物たちから構成されていた。

これらのメンバーすべてが同時につまり共時的にメンバーだったわけではないが、これらのメンバーは通時的にザ・ストゥージズだったのだ。

ロック史上には数々の商業的にあまり成功しなかったが、後に影響を与えたバンドがある。ロックはもしかしたら名を知られていることのバンドたちが積み重ねてきた革新により成立しているのかもしれない。名の知られていない60年代アーティストを今の音楽として聴くという奇妙なことも起こるかもしれない。

パニックに陥るのは誰か?

映画「キングコング対ゴジラ」を観た。

この映画は1962年の日本の怪獣映画である。この映画の目玉はタイトル通りのキングコングゴジラの対決だ。この映画はゴジラ映画の第3作目で、映画の世界の中では既に世界にゴジラの存在は知られている。そしてキングコングが新しい怪獣として登場するのがこの「キングコング対ゴジラ」だ。

この映画はこの両者の対決がメインとなっているので、人間社会の細かな描写といったことにはあまりシーンが割かれていない。この映画の見せ場はキングコングゴジラの対決シーンだ。

もし日本でキングコングゴジラの対決が行われるのならばどのように企業、政府、一般人、科学者などが絡んでくるのか?その疑問にもこの映画は答えてくれる。但しこの映画に繊細な心理描写はないが。

企業は自身の利益の増大のためにキングコングを利用しようとし、日本政府は2大怪獣による混乱を静止すべく自身の利権拡大を計る。大衆はパニックに陥る。そう大衆は当然のようにパニックに陥る。

しかし、この大衆はパニックに陥り、エリートがパニックの沈静に当たるという図式は、人間社会の実際の在り方をそのまま描いたものなのだろうか?レベッカ・ソルニットならばこう答えるだろう。「大衆はパニックにならない。パニックになるのはエリートである」と。

レベッカ・ソルニットは著書「災害ユートピア」の中で、人が災害に遭遇した時には上からではなく人々の間に災害ユートピアと呼ばれる連帯が生じると語る。そしてその本の中で、レベッカ・ソルニットは災害の際にエリートが大衆の無秩序を恐れて人々を軍事力で統制しようとする愚行について述べる。

そう階層上部の人々は災害によりパニックに陥る。そして人々(人々がパニックに陥ると考えるエリート以外の人々のこと)は連帯を取り戻し、従来よりも良い秩序がもたらされる。つまり災害は無秩序状態をもたらさない。

レベッカ・ソルニットにとっては無政府主義と無秩序とは別のものである。一般的には両者は同じものの違う側面と捉えられている。両者を指してアナーキーという言葉があてられる。しかし、無政府状態は無秩序ではないのだ。無政府状態とは秩序がある状態なのだ。

話が脱線した。ゴジラの話に戻す。この映画ではエリートが事態を受け止めて電撃作戦やら、落とし穴やらを作る。そしてエリートの扇動により大衆はパニックに陥る。見ていてこれが現実であると我々は納得してはならない。パニックはエリートが作り出すものだから。我々は煽られてはならない。

自由を求めて

映画「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観た。

この映画は、2015年の日本映画でダーク・ファンタジー映画だ。この映画は2部作の前編である。本作の後編となるのが「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」だ。今回は前編について述べる。

この映画の中の世界は人喰い巨人が人間を喰い殺す世界だ。人間たちは巨人たちの捕食から逃れるために三重の壁を作って暮らしていた。三重の壁の中心には国の中枢があり、その外は商工地域、そしてその外には農業地区があった。

ある時壁よりも巨大な巨人が現れて農業地区を守る壁の一部が壊された。それにより壁よりも小さく以前は壁の中に入れなかったような巨人たちが、農業地区の住人たちを喰い殺してしまう。巨人たちが農業地区に侵入するところからこの映画は始まる。

この映画の主人公はエレンという少年だ。エレンは巨人が壁を壊して侵入してくるまでは、壁の外に出たいと思っている少年だった。壁の中の世界など面白くない。外の世界で生きてみたい。それがエレンの希望だった。

しかし、ある時壁の外は壁の中よりも生きづらい場所だと知る。それは巨人の侵入によってだ。エレンにとってつまらない世界は、血みどろの世界となる。エレンは自分にとってつまらないはずだった世界の消滅に心底落胆する。

エレンにとってつまらないはずだった世界は、エレンに安心を与えてくれるかけがえのない世界だったということになる。

人は周囲の人の存在なしには生きてゆけない。しかも命が常に危険にさらされている状態だ。重要な他者の喪失の危機と、自分の生命の存続の危機が、同時にエレンにそしてエレン以外の壁の中の住人にもやってきた。

巨人に立ち向かう人間の軍隊のシキシマ隊長が言う。「恐いのは巨人ではない。恐いのは安心である」と。安心は人々を飼いならし、人々を家畜にしてしまうと。シキシマはエレンに壁の中にいる人間は家畜同然だとさとす。

そしてシキシマはエレンに言う。「お前は家畜か!!」と。それを聞いたエレンは言う。「違う、俺は家畜ではない」と。

エレンは巨人の来る前から家畜のような生活に倦んでいた。しかしエレンの元に外の世界が開けた時にはエレンの大切なものは失われた。エレンは家畜のような生活は嫌いだが、家畜のような生活が保障している生命の安全というものがあったのだ。

家畜のように生命の安全のために生きる。しかしそれは必然的な生き方なのか?答えは映画の後編のラストで明らかになる。ただこうは言える。人は生きるために家畜になる必要などないと。ただ体制がそうさせているのだから。