都会の人、田舎の人

映画「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~(読み:ウッジョブ かむさりなあなあにちじょう)」を観た。

この映画は都市部の生活に慣れ親しんだ若者が、チラシで見た女性の写真に惹かれて、田舎の林業での生活に挑むという内容だ。つまり、この映画の前提として都市部と地方の対立というものがある。

都市部の若者は田舎を馬鹿にして、田舎の人間は都市が地方より優位になる図式を仕方なく受け入れているという図式がそれだ。なぜ田舎の人々は自分たちが劣等者として置かれる都市住居者の図式を仕方なく受け入れているのか?

それは都市部の持つ知識力というものを地方の人なりに尊重しているからだろう。地方在住の人間でも都市部の文化が好きだということは当然あり得る。都市部の文化、つまり家電がもたらした便利さには田舎の人たちも恩恵を与えられていると、田舎の人たちが信じているのだ。

つまり田舎の人々は都会からやってきた便利さの利益を認めているのである。田舎の人は都会の文化を技術を確かなものだと認めているから、むやみに都会の人々を雑に扱わないのだ。

一方都会の人々は田舎を平気で馬鹿にする。大学に入るような知的なエリートでさえも。この映画では確かにそう描かれている。

このような都会田舎図式を土台として主人公の青年平野は、田舎での林業の仕事に挑んでいく。最初は林業の厳しさに気付きいてもいない平野だが、日に日に林業の厳しさを目の当たりにして、何度も研修からの逃亡を計る。

しかし、チラシに載っていた女性を林業を営む集落で見つけて、その女性からの承認を得るために、平野は林業の仕事を身に着けていくのだった。

この映画には超越的なものが存在する。それは山の神だ。山の神は山に住む子供を神隠しにする。その子供を平野は探し出すのだが、それは女性と思われる腕の導きによるものだった。

日本では山の神は女性と考えられている。平野は林業に携わる人たちが、山の神を拝む様子を見て、山の神のほこらに自分の昼食であるおむすびを半分与える。するとその恩返しとして山の神は平野の住む里に、神隠しにあった子供を返すのだ。

柳田國男民俗学が有名だが、日本には古くからの言い伝えというものがあって神隠しの話も柳田國男の書物の中に登場する。そういえば映画「ファーゴ」に出て来るマイク・ヤナギダという人物は柳田國男をモチーフにしていると映画評論家の町山智浩さんが言っていたのを思い出した。

神と共に生きた人

映画「不屈の男 アンブロークン(原題:Unbroken)」を観た。

この映画は2014年のアメリカ映画で、第2次世界大戦時の日本における米兵捕虜の物語だ。その米兵捕虜の名前は、ルイ・ザンペリーニ。

ルイは1936年のベルリン・オリンピックに出場した選手だ。ルイはベルリン・オリンピックでの500M走でラスト一周を56秒という当時の最速タイムで走ったことで有名だ。

第2次世界大戦中に、日本軍はアメリカを含む連合国軍と戦っていた。ルイはアメリカの爆撃機に乗って、日本の領土を空襲していた。ルイはある出撃の際に日本軍の攻撃を受け被弾し、海の真ん中に墜落する。そして47日間ルイは海を漂う。

この時フィルとマークというアメリカの兵隊と苦難を共にしている。48日目にルイはフィルと共に(マックは33日目に死んだ)日本軍に捕えられる。そしてその後東京の捕虜収容所に送られる。

そこでルイはこの映画の最大の敵である渡辺と出会う。渡辺は日本軍の伍長であった。つまり捕虜の処遇を決定する役割を持っていた。この渡辺が捕虜に対して執拗な虐待を行う人物であり、米兵たちからはバードと呼ばれていた。

映画中、渡辺をなぜ捕虜たちがバードと呼ぶかという理由について触れられる。なぜ渡辺がバードと呼ばれるか?それは渡辺があだ名を知った際に渡辺が怒らないようにするためだ。なぜなら渡辺は明らかに異常で捕虜に対して何をするかわからないから。

ルイは渡辺に目をつけられる。渡辺はルイを何度も何度も殴る。竹刀で、皮ベルトで、拳で、足で。ルイは映画中それに耐え続ける。

1945年の終戦と同時に捕虜収容所の捕虜たちは解放される。そして、日本軍の要職にいた人物たちは軍事裁判にかけられることになる。当然渡辺は罪を負うことになる。しかし渡辺は逃亡し罪を逃れた。そして渡辺は2003年に亡くなった。

ルイは神を信じていた。海を漂っている最中にルイは誓う。「この嵐が過ぎ去ったら、私はあなたにすべてを捧げます」と。そして、その後のルイは神と共に生きた。

ルイは自分を執拗に虐待した渡辺を許した。ルイは神に従ったからだ。それに対して渡辺はルイに会うのを避けた。渡辺は自分の罪に向き合うことができなかった。渡辺の罪の意識に許しを、渡辺の神は与えなかった。

渡辺の中に神はいたのだろうか?渡辺の中に神がいたとしてもそれは許す神ではなかったのだろう。渡辺は自分の罪の重みから逃げ続けたのだ。

ザ・ストーン・ローゼス ―「ザ・ストーン・ローゼス」発売から30年を経て

「ザ・ストーン・ローゼス」という決定打

ザ・ストーン・ローゼスの最初のアルバム「ザ・ストーン・ローゼス」が発表されてから、今年(2019年)でちょうど30年になる。ザ・ストーン・ローゼスの最近の話題と言えば、再結成(2011年)、2曲のシングルの発表(2016年)、大規模なツアー(2012年-2017年)、そして新しいアルバムのためのセッションの情報等だ[i]。前作のアルバム「セカンド・カミング」が発表されたのは1994年である。それから25年の月日を経てようやく3枚目のアルバムが作られようとしているのだ。ザ・ストーン・ローゼスの新旧のファンにとってはうれしいご褒美といったところだろうか。

ザ・ストーン・ローゼスの最初のアルバム「ザ・ストーン・ローゼス」は世間にこれがザ・ストーン・ローゼスの音楽だと強力に印象付けるアルバムだった。このアルバムの中の一曲である「ジス・イズ・ザ・ワン」の歌詞にはこうある。「これだ、これだ/これだ、これだ/彼女の待ち望んでいたのは/これだ、これだ/これだ、これだ/僕が待ち望んでいたのは」[ii]。この歌詞にあるような肯定的な感情を、ザ・ストーン・ローゼスの音楽に対して彼らの音楽を聴く人は持ったに違いない。そもそも彼らの持つこの肯定感といったものは何に対して生じてきたものなのだろうか?それは彼らが聴いてきた音楽に対してか、それとも自らが奏でる音楽に対してか、それとも彼らの音楽を聴くだろう聴衆に対してか、それとも彼ら自身に対してか?

その答えは本人たちに直接聞いてみたいものだが、人の記憶は変化し続けるし、記憶のねつ造なんてことも行われることもあるだろう。しかもザ・ストーン・ローゼスは4人のメンバーから成るバンドである。いったい誰の発言がザ・ストーン・ローゼスを最もうまく表現するのであろうか?ボーカルのイアン・ブラウンの言葉か?それともギターのジョン・スクワイアの言葉か?それともベースのマニの言葉か?はたまたそれともドラムのレニの言葉か?きっと誰の言葉もザ・ストーン・ローゼスを言い表しているようで、きっとうまく彼らを捉えることができないに違いない。言葉は何かを言い表しているかのようで何も言っていないということが常ではないのか?

ローゼスのメンバーの言葉がローゼスをうまく表現しているとは言えないし、彼らの取り巻きであるレコード会社、ディレクター、プロデューサー、エンジニア、マネージャー、プロモーター、音楽出版社そしてなによりローゼスのファンの言葉もきっとローゼスを言い表しきれてはいないのだろう。そこにあるのはただの言葉の群れでありそれはいたるところで、くっついたり離れたり、縮んだり、捩じれたり、断絶したり、連続したりしながら存在する言葉の群れであるのだろう。そしてその群れは分子状にもなりうるのだが。

しかし、文章を書く以上そこにザ・ストーン・ローゼスの残骸を登場させなければならない。その残骸からぼくたちは、ローゼスを生きた静物として捉えなければならない。それが常に形を変えるものであることを十分承知しながらだ。

仮にローゼスを捉えるとしたらどんな方面から捉えることが可能だろうか?いやどのようなローゼスを捉えることが不可能なのか?ここではローゼスの音楽をサウンドと歌詞とローゼスの持つ社会的影響力とローゼスのいた社会的状況そしてローゼスの発言等にわけて考えたい。社会的影響力とは芸術である音楽の持つ制度化の力のことである。ローゼスの音楽はいかなるものとしてぼくたちを規定しているのか?ローゼスの音楽はいかにぼくたちを作り上げようとするのか?社会的影響とは音楽が聴取者に与える影響のことである。それは一体どこまで広がり、どこに向かって収斂していくのか?それをこれから語りたい。ローゼスの一ファンの言葉として。

ローゼスに対する捉え方や、ローゼスの音楽の影響力は、ローゼスが何に対して何を言っているのか?そしてその表現をするローゼスとは何者なのか?という問いと切り離すことはできない。よって以下では、ローゼスとは何者かについて語ることになるだろう。それを語ることにより、ローゼスの捉え方や影響力も明らかになると思われるからだ。そしてそこでローゼスの肯定感の正体も見えてくるだろう。

比較的確かな言葉としての「ザ・ストーン・ローゼス」の歌詞

ローゼスの影響は今や世界各地に至るのかもしれない。否、至るだろう。なぜならメディアやインターネットの拡大により、世界のどの場所にいても世界各地の情報を手に入れることができるからだ。しかもローゼスが含まれるような日本で洋楽と呼ばれるジャンルのルーツはイギリスやアメリカにある。ということはどういうことか?それは世界各地に洋楽の影響力が及んでいるということである。

イギリスはかつて世界を支配した国だ。19世紀から20世紀にかけてイギリスは世界の覇権国だった。世界中にイギリスが到達した場所があった。もちろんアメリカもイギリスの植民地の内の一つだ。世界各地に影響力を持ったイギリス。そのイギリスの音楽が世界に広まるための障害はなかったようだ。それほどまでにイギリスの勢力は絶大で、それと同時にイギリスやアメリカの音楽は世界各地の人にとって魅力的でもあった。きっと今になっても世界各地に金ぴかのイギリスやアメリカ像が共有されているのだろう。

植民地となった国を破壊したイギリス。きっと世界中の支配下にあった国々の人たちにはイギリスやアメリカがもたらした文化のきらびやかさが目に入ってきたのだろう。かつて支配のために世界を破壊したイギリス。イギリスのその破壊力。人々はその破壊力に恐怖をおぼえる。そしてイギリスの持っている権力。権力はいつもきらびやかだ。例えばイギリスと同じく宗主国であるフランスのヴェルサイユ宮殿の優雅さはその悪趣味さをも差し引きしてもまだ残りあるものだ。権力は美しい。それは人々を説得するためである。きらびやかさに世界の各地の人々も一旦は剣を諫めた。

イギリスの影響力が残る中でのローゼスのイギリス本国での80年代末期からの人気。それが世界に飛び火しないわけがない。ローゼスはイギリスで人気を得ると同時に世界各地での人気を保証されたものも同然だ。イギリスのロックは世界に広まった。その販路をローゼスが活用しない手はない。

ところでローゼスのメンバーはそんなイギリスに満足していたのだろうか?答えは否である。その答えはローゼスの曲の歌詞の中にある。例えばアルバム「ザ・コンプリート・ストーン・ローゼス」の中の「ホエア・エンジェルズ・プレイ」や「ホワット・ザ・ワールド・イズ・ウェイティング・フォー」の歌詞にはこうある。「見たこともない場所へ僕と行こう/誰も行ったことのない何千マイルの彼方」[iii]。「世界を止めて/世界を止めて/僕は降りるぜ/僕は降りるぜ/こんなじゃがまんできない」[iv]。ここには明らかにこの曲の作曲者がイギリスという国に満足していないという意思を読み取ることができる。そうローゼスの曲の歌詞には明らかにイギリスへの否定が読み取れる。では一体イギリス社会とはどのような社会なのだろうか?

ザ・ストーン・ローゼスの時代背景

ローゼスがデビュー・アルバム「ザ・ストーン・ローゼス」を出したのは1980年代の終わりである1989年である。イギリスにはサッチャーという女性の有名な首相がいた。その首相が首相の職を辞したのが1990年の年末ごろのことであった。サッチャー首相は鉄の女というニックネームを持つ女性だった。サッチャーは首相として1979年5月以来インフレの解消に努めてきていた。サッチャーが首相の座に就いたのは1975年である。首相就任の5年ほどしてサッチャーは緊縮政策をとるようになった。緊縮とは一体どういったことか?

サッチャーは国が出す出費を少なくしようとした。そのために国の事業を民営化した。要するに国にかかる負担を民間に押し付けて国の出費を減らしたのである。サッチャー医療保険の改革、水道事業の民営化、労働運動の抑え込み、地方税人頭税にして住民に一律課税することなどを行った。民営化と、民営化に反対する労働運動潰しをサッチャーは行った。国の負担をなくす、つまり国営事業を減らす。すると当然民間の競争原理の中に事業が取り込まれる。民間市場というのは弱者切り捨ての世界だ。利益の上がらない事業はどんどん削られる。そうなると当然のように失業者が増加する。

ローゼスが最初のアルバム「ザ・ストーン・ローゼス」を出した1989年の失業者の数は166万人ほどである。1989年当時のイギリスの人口は5708万人(世界銀行、ONSイギリス)。イギリス国民の約3パーセント(イギリス国民の100人に3人)が失業していたことになる。これは明らかに高い失業率だ。ちなみに今(2018年)のイギリスで貧困の状態にあるのが1400万人だ。2018年のイギリスの人口が6647万人なので、失業者の数はイギリスの人口の5分の1の約21パーセントにあたる。ここでわかるのは、現在のイギリスも1989年のイギリスも貧困の状態にある人々が大勢いたという事実だ。しかも2018年の失業率は1989年と比べても高い。ちなみに日本の2018年の平均完全失業率は2・4パーセントである。日本の人口(2018年9月1日現在の確定値)が1億2425万9千人とすると、失業者の数は約298万人だ。

たとえばイギリスから登場した有名なロック・バンドにオアシスがいる。オアシスの伝記映画「スーパーソニック」でオアシスのボーカルのリアム・ギャラガーは自分の生い立ちを語る際に自分が失業手当を貰っていたこと、それにより食費をまかなっていたと語っている。イギリスの労働者階級ではこれは珍しいことではないのだろう。なぜなら上流階級や中産階級の人間を貧困状態にあるとは言わない。貧困状態という言葉が指すのは上流階級や中産階級ではなく労働者階級の人のことだ。つまりリアムの生きた実生活はそのまま労働者階級の生活だと言っていいことになる。繰り返すがなぜなら失業手当は上流階級や中産階級が貰うものではないからだ。失業手当を貰った時点でその人は上流階級や中産階級から脱落している。貧しい人々の代名詞が労働階級なのだ。そしてローゼスはそんなイギリス社会を確実に目撃している。イアン・ブラウンの発言にこうある。「奴(脱退をしたレニのこと)とはもともとデビュー前5年間もの失業生活を共にした仲だし…」[v]

ザ・ストーン・ローゼスのメンバーの発言から

ジョン・スクワイアの発言。「最近は特にナショナリズムに近いほど自らの“英国性”を強調する連中が殖えてきているしね。ここで名前はださないけどそういう連中を見る毎につくづく下らない世相になったもんだなと思う時はあるよ、実際。でもだからと言って別に反動を感じるほど彼らの存在が気になってる訳じゃないんだけどさ。僕らは初期の頃からまだ国内ギグは1回しか演ってないのに、そのまま欧州ツアーに出たりしてたくらいだし。最初から地域性や派閥意識なんてのは眼中に入ってなかったんだ」[vi]

マニの発言。「……でも僕らは最初から自分たちのフォロアーを大量生産するのが目的だった訳じゃないし。またここで新たなシーンやムーヴメントを作っても結局は“マッドチェスター”やその他の多くのムーヴメントがそうだったように、本当の意味での革新には繋がらないんじゃないか?って気がするよ。長い目で見ればどれもこれもすごく一時的、地域的な改革運動に過ぎなかった訳で……。グランジだって最終的には商業主義の中に取り込まれていったくらいだしね」[vii]

インタビュアーの「さらにかつての貴方達には「自分たちの音楽によって業界やリスナーにある種の意識革命を起こしてやる!」という意思があらゆる面で満載されてたんですが。そういう点は今でも変わってません?」という質問に対して。イアン・ブラウンの発言。「もう全然。個人的にはむしろ以前よりそういう意思は強固になってきてるような気がするよ。といっても勿論未だに5~6年前の方法論がそのまま通用するとは思ってないけど。特に90年代になって以来、オーディエンス側の自主性ってのはすごく重要なファクターになってきてるし、創り手側が一方的に働きかけるって方法はもう何の効果もないしさ。一昔前みたくバンドがその相互関係の頂点に立ってオーディエンスを先導していく、なんて方法じゃもうどんな一体感も連帯感も生み出せないと思うんだ。だからあらゆる意味で現世代のバンドは困難な窮地に突入し始めてるよね」[viii]

最初のジョン・スクワイアの発言とその次のマニの発言はアルバム「セカンド・カミング」発表後のもの。そしてイアン・ブラウンの発言は「セカンド・カミング」発売後で、レニが脱退して新しくロビーがドラマーとして加わった後のものだ。

まずジョン・スクワイアの発言からは、ナショナリズム的傾向への懐疑、そしてナショナリズムと反ナショナリズムといった派閥を超えた所に位置するという自分の立ち位置の表明が受け取れる。マニの発言からは音楽ムーヴメントが社会的革新をもたらすにはあまりに短いムーヴメントであること。そして音楽による社会的革命を忘れた商業主義への批判がみられる。イアン・ブラウンの発言からは、音楽は社会を革新するという強い意志と、音楽による連帯性はオーディエンスが生み出していくものだという、脱アーティスト中心主義的な見解がみられる。強引に3人の発言をまとめてしまえば、社会を革新していくのはオーディエンスであり、彼ら彼女らはナショナリズム的なものから解放されていき、それは同時に資本主義ともいえる商業主義からからの解放でもあるということだ。資本主義や国家主義を超えてオーディエンスの連帯は社会の革命をもたらすとローゼスのメンバーは主張する。

ローゼスの立場は反アーティスト中心主義的で、反資本主義的、反国家主義的だ。ローゼスはより広い範囲での、国家を超えた繋がりを志向していた。ローゼスの活動した初期の時代は90年代のサマー・オブ・ラブと呼ばれる時代だ。そのセカンド・サマー・オブ・ラブの時代のビック・イベントがその当時、英新時代ロックの輝かしい幕開けを象徴する世紀的イベントと呼ばれたスパイク・アイランドであった。60年代のサマー・オブ・ラブは狭い地域性を超えて愛と自由と平和で連帯を促したムーヴメントだ。セカンド・サマー・オブ・ラブの時代に生きていたローゼスが60年代のサマー・オブ・ラブの思想を受け継いでいるのは当然でもある。60年代のサマー・オブ・ラブは世界的な政治運動であった。60年代のその運動は社会の革新を促した。90年代のセカンド・サマー・オブ・ラブは少なくともローゼスの精神的な面においては革命的であったと言える。

「ザ・ストーン・ローゼス」には「エリザベス・マイ・ディア」というサイモンとガーファンクルの「スカボロ・フェアー」の曲に歌詞をイアン・ブラウンジョン・スクワイアが付けた(それともイアンのみが?確かなことは不明だが歌詞を付けたのはイアンかジョンであることは確か)曲がある。その曲の歌詞は痛烈なイギリス王朝批判となっており「あんたはもう 幕切れなんだよ」[ix]エリザベス女王を名指しで批判する。また政府にはサッチャーという存在がいた。ローゼスが当時の社会への批判を持っていたとすれば、それは当時の政府への反抗的な態度として弱者を切り捨てるサッチャーが主導する国、まさにそのナショナリズムへの批判という面をちらつかせるのも当然なのだ。そしてこうも思ってしまう。当時の政府と今の政府に共通点はないのだろうかと。

もともとサマー・オブ・ラブとは60年代に起こったムーヴメントである。アメリカ政府によるベトナム戦争に対する反対、ラブ・アンド・ピース、資本主義からの脱却などがこのムーヴメントの特徴である。その60年代のサマー・オブ・ラブが90年代に再現されたといていいのがセカンド・サマー・オブ・ラブである。そこには60年代の反体制的な姿勢がはっきりと再現されている。上記の発言からするならばローゼスはその象徴的な存在だったといっていいのかもしれない。

ザ・ストーン・ローゼスの音楽的背景

ザ・ストーン・ローゼスは、何も1980年代末のイギリスにいきなり登場したわけではない。ザ・ストーン・ローゼスが登場する前には当然のように音楽シーンが存在した。その音楽シーンはだいたい60年代から始まるロック・シーンに遡るのが通説とされている。1950年代アメリカのロックン・ロールが人気となりイギリスにもその人気が飛び火する。その時人気となったロックン・ローラーにはエルヴィス・プレスリーバディ・ホリーチャック・ベリージェリー・リー・ルイスなどがいる。60年代にビートルズローリング・ストーンズザ・フーキンクスなどが登場してブリティッシュ・インヴェイションが起こる。50年代のアメリカのロックン・ロールに影響を受けたイギリスのバンドたちだ。ローリング・ストーンズにみられるようにアメリカのブルースの影響を色濃く反映するアーティストも存在した。60年代の末からはサイケデリック・ロックハード・ロックプログレッシブ・ロックなどが登場する。60年代の初期の音楽を受け継ぎつつも、曲がより長大に(プログレッシブ・ロック)、過剰に激しく(ハード・ロック)、神秘的に(サイケデリック・ロック)なるなどしたのがこれらのロックだ。プログレッシブ・ロックハード・ロックはその前身としてサイケデリック・ロックを持っている。サイケデリック・ロックとはそれ以前のロックへのドラッグの影響が反映された音楽である。サイケデリック・ロックの代表的なバンドはザ・ドアーズであり、プログレッシブ・ロックの代表的なバンドはピンク・フロイドキング・クリムゾンハード・ロックの代表的なバンドはレッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバスなどである。最近映画「ボヘミアン・ラブソディ」が日本でヒットしたクィーンは初期はハード・ロック・バンドとして登場しその後ロック・オペラ的な展開をし、その後も貪欲にジャンルを超えた音楽を追求し続けた。

その後70年代に登場するのがパンク・ロックである。パンクには70年代に登場したグラム・ロックの影響もみられる。パンク・ロックの代表的なバンドとしてあげられるのがセックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムドなどである。パンク・ロックのバンドは曲がそれまでの音楽より性急で、気が立っていて、荒々しい。そして彼らは60年代のバンドと同じくかそれ以上に反体制的な音楽的主張を持っていた。セックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」や「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」はその代表的な例であろう。

パンク・ミュージックの影響を受けて次にイギリスで立ち上がって来るムーヴメントがマッドチェスターと呼ばれるムーヴメントである。マッドチェスターの代表的なバンドはイギリスのマンチェスターを拠点とするバンドだった。ニュー・オーダーハッピー・マンデーズストーン・ローゼスシャーラタンズ(UK)がその代表的なバンドである。そしてその後イギリスでは90年代ブリッド・ポップが盛隆を極め、00年代にはアメリカではストロークスホワイト・ストライプスが登場し、イギリスではリバティーンズが登場する。いわゆる00年代のガレージ・ロックのシーンの登場だ。その後10年代ではアークティク・モンキーズ、ストライプス、The1975等のバンドがシーンを先導している。

というようにザックリ60年代からの音楽シーンをイギリスのバンドを中心として振り返ってみたが、その他にも多くのバンドが存在するし、またこの見方とは違った音楽シーンの見方もある。ここでは触れられていないがメタルやグランジメロコアやエモなどといった音楽も現在までに存在した。しかしここで強調したいのはローゼスを含むマッドチェスターのムーヴメントが、60年代のピッピーの精神を受け継いだパンク・ロックアナーキーな態度も継承しているということだ。ローゼスのアナキスティックともいえる考え方は前述したインタヴューの内容からも明らかであある。

ザ・ストーン・ローゼスアナキズム

ローゼスはパンクのアナキスティックな精神を受け継いでいるバンドだと書いた。ここで疑問が生じるアナキズムとはなんなのかという疑問である。セックス・ピストルズアナキズムを歌った[x]アナキズムっていったい何なのかということである。

アナキズムのルーツは17世紀イギリスのディガーズの運動に遡ることができる。ディガーズとは掘り耕す人々という意味である。貧民の一団であるディガーズは1649年4月1日にイギリスのサリー州コバム近郊の聖ジョージの丘で、荒れた土地を開墾して共同生活を始めた。この運動は1年で弾圧されてしまうが、この運動は現在では反封建主義闘争の最後であり、この後に来る反資本主義的運動の先駆けと言われている[xi]。この記述を読んで何かピンとくるものはないだろうか?そうそれは60年代のフラワー・ムーヴメントである。

60年代に印象的な出来事と言えば1968年の5月の革命である。この革命は5月危機とも呼ばれるが、フランスで起きた体制に対する反抗であった。セックス革命、文化革命、社会革命とも言われるフランスの5月革命であるが、学生、労働者、大衆が起こした政府の政策転換の契機なった事件であった[xii]。この運動の思想的バックボーンとなったのはフランスのシチュアシオニストであるギー・ドゥボールという人物である。

このギー・ドゥボールは「スペクタクルの社会」という著書を残しているが、その詩的な文章で語られるのは、社会が見世物(スペクタクル)化してしまっているという現実である。どこにも人間の生き方を大切にするような社会はない。あるのは一部の富裕層の利益になるように作られた社会である。そこでは被支配者層の生き方などかえりみられない。社会への反抗も見世物として存在しているこのような社会では、反抗も見世物として骨抜きにされてしまう。しかしこのような社会に反抗するために社会の外部に出ることは不可能なので、その社会の内部からスペクタクルを用いて社会を変えていくしかないというのがギー・ドゥボールの主張である。

そしてこのギー・ドゥボールの主催していたシチュアシオニスト・インターナショナルに所属していたのがセックス・ピストルズのマネージャーであるマルコム・マクラーレンである。つまり、マッドチェスターに影響を与えているセックス・ピストルズの思想面のバックボーンであるマルコムはもろに反体制的な団体に所属していたのである。そしてその団体は当然のように60年代の反体制的な流れをルーツに持つものだったのだ。

60年代のフラワー・ムーヴメントは世界中に飛び火していた。1968年のフランスもその例外ではない。フランス五月革命の特徴であるセックス革命、文化革命、社会革命からは容易にフラワー・ムーヴメントを連想できる。そして90年代は第2のサマー・オブ・ラブと呼ばれた。マッドチェスターのムーヴメントにいたローゼスのメンバーが反体制的な意見をインタヴューで述べるのは全く不思議ではない。それは60年代からもっと言えば、17世紀イギリスから続く被支配層に通底する考え方なのだ。

ザ・ストーン・ローゼスから何を学ぶか

ローゼスがぼくたちを制度化するとしたら、一体どういったことが行われるのだろうか?答えは簡単である。ローゼスはメロディ、ハーモニー、歌詞、その発言においてぼくたちを魅了する。それらがぼくたちをひきつける限りにおいて、ローゼスの音楽はぼくたちの内面をそして行動を制度化する。それは体制的なものではなく、反体制的な態度をだ。制度化自体は体制的なシステムにのっとって行われる。例えば、住居があり、そこにインターネットが繋がり、インターネットから音楽が聴ける。それは体制側が首尾よく準備したものである。そのシステムの中でぼくたちがそれをどのように利用していくか。そこにこそぼくたちの生き方がある。

ぼくたちに内面化される制度はそれ自体ぼくたちが社会に埋め込まれるためのものでしかない。内面化は自身の制度化をもたらし、それは反体制的内面化であっても既に制度側に織り込み済みのものでしかない。つまり反体制も体制の作り出した見世物でしかない。見世物はあくまでショーであって、そのショーがもたらす内面化はやはり計算の範囲内である。ショーをギグと置き換えてもいいかもしれない。またライヴといってもいいのかもしれない。

ギー・ドゥボールが言ったように、もはや社会にはスペクタクルしかないのだとしたら、ぼくたちはその中でうまくサバイヴしていくしかない。それはきっと社会の内部にいて社会の外部を想像するような、不可能なように思える可能性なのかもしれない。しかし、それローゼスがぼくたちに提供したチャンスだろうといえるし、ローゼスの音楽を聞いた瞬間にローゼスの投げかけたメッセージに無意識にも反応したぼくたちの潜在性だともいえるかもしれない。

ローゼスは音楽や発言を通して、ぼくたちが思い描く来るべきありかたをぼくたちに教えてくれたし、その肯定感をぼくたちにもたらしてくれた。それを受け取った今、この先の変化をぼくたちは作り出さずにはいられない。それが制度内に織り込み済みだとしてても、スペクタクルに対抗するのはスペクタクルでしかないのだから。

「ザ・ストーン・ローゼス」の20周年エディションに見られるズラシ

ローゼスの「ザ・ストーン・ローゼス」はローゼスの音楽をぼくたちの強烈に印象付ける音楽だった。その強烈さは30年経ったいまでもぼくたちのこころを捉えて離さない。聴くものに一つの完結した音楽像を「ザ・ストーン・ローゼス」は抱かせる。それは何一つ不備のない完成されたものであると映るかもしれない。それはその音楽像の固定化でもある。固定化された音楽は、完全に制度の中に取り込まれてしまう。いわゆる従来の秩序としてぼくたちの目の前に立ちはだかるようになる。これが素晴らしいロックの在り方だと。実際ローゼスの音楽を聴く者にはこれが素晴らしい非の打ち所のないロックだとローゼスの「ザ・ストーン・ローゼス」は映っているようだ。

しかし固定化された音楽像は規制の体制に既に埋め込まれてしまっている。固定化されたらその音楽は一旦は音楽としての価値が激減する。その音楽には反体制的な今あるものをよりクリエイティブにしていこうという動きがなくなるからだ。固定的なものは輝きを失う。それが誕生した、オーディエンスの耳に届いた瞬間からその輝きの喪失は起こっているものなのだ。その輝きの喪失に一石を投じる音源がある。それはアルバム「ザ・ストーン・ローゼス」の発売20周年を記念して発売された、レガシー・エディションと、コレクターズ・エディションだ。その中のデモ・バージョンはローゼスの新しい音像としてぼくたちの前に登場する。

従来の「ザ・ストーン・ローゼス」はフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの「千のプラトー」の言葉を借りて表現するなら、それは従来の体制に取り込まれた、つまりツリー的な構造に取り込まれた音楽だ。それは言い換えるなら固定された音楽と言える。固定されたツリー型の音楽。それは従来の既存の価値観による、貧者がますます貧者に富めるものがますます権力を拡大していく社会を肯定する音楽だ。そのツリー型に既になってしまった「ザ・ストーン・ローゼス」のサウンドをずらし、固定的になってしまった音像に運動をもたらしてくれるのがデモの音源なのだ。

この動的なもののことをドゥルーズの言葉を借りてリゾーム的なものと言いたい。リゾームとは何が何と連続するかは決定的でない、ツリー型では繋がることのなかったものがリゾームではツリー状の逆方向から繋がったりする。それは連続したり切断されたりするような動的なものであり、既存の体制といったものを時折含みはするがそれもまた変化していく。ローゼスのコレクターズ・エディションとレガシー・エディションのデモとはそのリゾーム的な運動をもたらしてくれるような動きであるズラシをぼくたちの中に生み出してくれる。そのズラシによる運動開始は、ぼくたちにリゾーム的なローゼス像をもたらし、それはローゼス像だけでなく、ローゼスを含む社会全体に動きを生じさせる、つまり社会をリゾーム化するような動きを作り出すのだ。

たとえばコレクターズ・エディションの中に収録されているデモ・バージョンの「アイ・ワナ・ビー・アドワド」を聴いてみるといい。このデモ・バージョンでは曲は従来のアルバム「ザ・ストーン・ローゼス」に収録されているものとは違い、いきなりベースのイントロで始まる。それもリフの始まりではなくリフの途中から曲が始まる。そして過剰に太いベースやバス・ドラムの音。それは録音のレンジを超えてしまっているかのように、サウンドが割れている。そしてこの曲の終わり。タイトルを歌って終わるはずがデモ・バージョンではこの部分の歌詞は途中で途切れそこで曲は終わる。この終わりに驚いていると次の曲が始まる。デモ・バージョンの曲はぼくたちを驚かす。驚き。それはぼくたちの中に変化をもたらす。この動的な変化は従来のものの在りかたと違った音像をぼくたちにもたらす。つまりそれは不完全な音像である。完全な「ザ・ストーン・ローゼス」が不完全という真逆のものと繋がる。ここにリゾーム的なローゼスの音楽の生成変化がある。生成変化はその一瞬をローゼスのデモ・バージョンの中に見せるのだ。

ザ・ストーン・ローゼスの持続と変化

ローゼスはどのように持続してきたバンドなのだろうか?またその間にどのような変化をしてきたのか?「持続とは、差異を生じるもの、性質を変えるものであり、質であり、異質性であり、自己との間に差異を生むものである。角砂糖の存在は、持続によって、持続することの特定の仕方によって、持続の特定の弛緩や緊張によって定義されるだろう」[xiii]いきなりだがここで哲学者のジル・ドゥルーズの言葉を引用させてもらった。この引用を自分なりに単純化するならば、この引用からわかるのは持続とは変化のことでもあり、あるものが変化してくことを持続と呼ぶことができるということだ。

あるものが緊張したり弛緩したりしながらその形を変えていくことそれが持続だ。というならばこの世の中にある生まれて朽ちていくものはすべて持続するものだと言うことができる。すべては生まれて死んでいく。ローゼスもその例外ではない。彼らの存在の証明が何かの形で残ったとしても、それは何らかの物質である限り形を変えないことはできない。そしてその形を変える時、つまり前の状態からの差異が生じる時ローゼスは前の姿が想像できないほどに姿を変えてしまうこともあるのだ。それは持続しているとは言えるものの、その持続である時間は百年前と同じ姿をとどめているとは限らない。

ローゼスの持続とはローゼスの経てきた時間だ。ローゼスは1983年にマンチェスターで結成されたバンドだ。ローゼスのメンバーと言えば、イアン、ジョン、マニ、レニであるがこの4人のラインナップが成立したのが1987年のことだ。そして1988年にシングル「エレファント・ストーン」が世に出る。その後1989年の5月に一枚目のアルバム「ザ・ストーン・ローゼス」を発表する。ローゼス結成から初めてのアルバムが出るまでに実に6年の月日が必要だったことになる。音楽面での変化や、メンバーの交代などその6年の間もローゼスは様々な変化を経ながら持続してきている。結成から一枚目のアルバムまでの6年はローゼスにとって決して短い時間ではなかったこだろう。その6年間ローゼスはある時は過去と決別し、ある時は過去を引き継ぎながら持続してきた。その期間の間のほとんどは彼らは失業した状態であった。例のイギリスの労働者階級の生活といったものだ。そして当然その間には緊張と弛緩がある。将来への不安や、サウンドが思ったように変化しないことへの焦りや、メンバー間の人間関係や、ただ過ぎていく時間への焦りといったものがあったには想像に難くない。ただこの持続があればこそぼくたちはローゼスの存在を知ることができる。ここでまたジル・ドゥルーズの言葉を引用したい。「しかし、直観が方法として自己を意識した時には、持続を事物において探究できるもの、事物を持続において呼び寄せうるもの、持続を要請できるものは、直観しかないことも確かなのだ。なぜなら、まさに直観は、それが在ることの一切を持続に負っているから」[xiv]

ぼくたちはどういうわけか自分がどういった存在かを知っている。それは経験によるものか、それとも事前に生まれた時から自分を既に知っていたのか、それともその時その時でインスピレーションのように知ることができるものなのか?このインスピレーションのことを直観と言ってもいいかもしれない[xv]ドゥルーズは言う。事物の持続の直観が自分が自分であることを意識することを可能にすると。これはこう言いかえることができるかもしれない。ぼくたちはローゼスという事物の持続によって逆に、自分たちが何であるか直観するつまり知ることができると。つまりローゼスはぼくたちがぼくたちであることを知るために持続する一部の事物だと。つまりここではローゼスはぼくたちがあるために必要なものなのである。つまりそれはぼくたちがローゼスを必要不可欠なものとしているということである。これはぼくたちのローゼスにたいする肯定と言える。ローゼスがなくてはぼくたちは今このようにないかもしれないからだ。これが哲学的なローゼスの肯定だ。

映画「ザ・ストーン・ローゼス メイド・オブ・ストーン」

ザ・ストーン・ローゼスが2011年に再結成して、ヒートンパークでの3日間で22万人を集めたライブの様子までを描いた映画に「ザ・ストーン・ローゼス メイド・オブ・ストーン」がある。この映画の監督シェーン・メドウス自身がローゼスのファンであったことを映画中語っているシーンがある。映画の製作の依頼を受けた時に、シェーンは感激のあまり涙し、それをタクシーの運転手に見られたのだと。ローゼスのファースト・アルバム「ザ・ストーン・ローゼス」は100万枚売れたと映画の中で語られるが、100万枚という数字と、ローゼスのドキュメンタリー映画の監督がローゼスの大ファンであるという事実が、ローゼスの影響力の大きさを物語っているようにも感じられる。

この映画「ザ・ストーン・ローゼス メイド・オブ・ストーン」を観ていて思い付いたのが、ローゼスのボーカルのイアン・ブラウンの出したソロ名義でのファースト・アルバム「アンフィニシュド・モンキー・ビジネス」である。モンキー・ビジネスとはごまかし、いんちき、いたずらを意味する。「アンフィニシュド・モンキー・ビジネス」を直訳すると「いんちきはまだ終わっていない」である。まだ終わっていないいんちきとは何か?それはイアン自身が展開してきたビジネスつまり音楽の仕事のことだろう。つまりイアンは自身の音楽活動全般についてを「アンフィニシュド・モンキー・ビジネス」つまりいんちきはまだ終わっていないぜと言っているのである。イアン・ブラウンは音楽ビジネスのいんちき性を臆面もなく人々の前に晒したのである。

映画「ザ・ストーン・ローゼス メイド・オブ・ストーン」のエンディングはローゼスの1989年に発売されたシングル、フールズ・ゴールドのヒートンパークでのライブ映像である。歌のパートが歌われた後に、インストルメンタルが延々と続く映像が流されるのだが、このフールズ・ゴールドの歌詞にはこうある。「こうして一人で立って僕は君らみんなを見てるんだ/君らが沈んでいくのを/一人立つ僕の横を君らは黄金を運んでいく/君らは沈んでいく/愚か者の手にした黄金」[xvi]黄金を持ってその重みで沈んでいく愚か者とは誰か?それはきっとローゼス自身である。金を手に入れてどこが愚か者なのか?この映画を観ている限り愚かとは信頼関係を失ってビジネスの関係に成り下がった愚かもであるローゼスのことだ。ビジネスのどこが愚かか?ローゼスには反体制的な夢があった。それは商業主義とも対立するようなつまり反資本主義的な夢だ。ローゼスがレコード契約をしながら反資本主義的な思想を展開するというのは一見馬鹿げた誤謬のように感じられるが資本主義社会ではすべてが結局スペクタクルになってしまう以上ローゼスのレコード契約も反資本主義的な思想を完全には否定しなかったことになる。スペクタクルにスペクタクルで対抗する。これがスペクタクル社会での抵抗的な生き方でもあるのだ。

ローゼスは60年代のサイケデリック音楽と初期パンクの音楽を足したような音楽であると映画の中で述べられる。60年代のメロディと、パンクのエネルギーの結合がローゼスの音楽であると。「スペクタクルの社会」をかいたギー・ドゥボールはまさにフランスでの68年5月の革命の思想的背景になった人であり、その思想は若者の間に膾炙していたと言えるし、ギー・ドゥボールの作ったスチュアシオニスト・インターナショナルという無政府主義の団体に所属していたのがセックス・ピストルズのマネージャーであるマルコム・マクラーレンである。ローゼスとはまさに反体制の時代の輝かしい部分だけを抽出して成り立っていたバンドだということもできるのだ。

ヒートンパークのライブで歌われるフールズ・ゴールドその愚か者とは誰を指すのか?それはやはりローゼス自身のことだろう。60年代や70年代の反体制的な思想の影響を強く受けたローゼスがただの金の亡者になってしまう。スペクタクルの社会に対抗するスペクタクルのはずが、いつの間にかスペクタクルの社会にくみするスペクタクルになってしまった。それがローゼスの映画が映し出すローゼスの姿である。金の亡者は沈んでいく。ダウナーなドラッグについて語っているとも思える歌詞だが、沈んでいくの解釈としてこの場合考えられるのは落ちぶれていくということである。22万人の収容のライブを行って落ちぶれてしまう?興行成績は大成功だろう。しかし、スペクタクルに対抗するスペクタクルでなくなったローゼスの姿がそこにある。ローゼスの思想はメンバー間の団結の理由でもあっただろう。その団結がビジネスに変わってしまった以上、そこにはスペクタクルに対抗するスペクタクルの思想は既に欠如してしまっているのかもしれない。以上がローゼスの再結成を追ったドキュメンタリー映画「ザ・ストーン・ローゼス メイド・オブ・ストーン」を観た印象である。

インターネット社会

「すべての社会は、フリーなリソースと、コントロールされたリソースを持っている。フリーなリソースは、だれが取ってもいい。コントロールされたリソースは、使う前に許可がいる。アインシュタイン相対性理論はフリーなリソースだ。だれに許可をもらわなくても、使ってかまわない。ニュージャージー州プリンストンにあるアインシュタイン最後の住まいは、コントロールされたリソースだ。マーサ―通り一一二番で寝るには、Institute for Advanced Studyの許可がいる。」[xvii]ここでいわれるリソースとは資源や資産のことである。例えば音楽におけるリソースはコンテンツつまり楽曲、アーティスト写真、アルバムのジャケット、音楽機材等のことである。音楽のリソースもアインシュタインの前述の例のようにフリーなリソースとコントロールされたリソースにわけることができる。CDには正規版と海賊版というものがある。正規版はコントロールされたリソースで、海賊版はコントロールされる約束をかいくぐって販売される半ばフリーなリソースである。最近ではCDの海賊版よりもダウンロードの海賊版がニュースで取り上げられることが多いようだ。CDやDVDというコンテンツがメインではなくなり、ダウンロードやストリーミングが主流となった時代ならではのことと考えていいと思う。

海賊版の存在は著作権をもつ会社の利益を損ねると言うのが一般的な新聞などにおける論調だ。海賊版は会社などの著作権所有者の利益を損ねる、だから海賊版は厳しく規制しろ。ローレンス・レッシグの「コモンズ」の中の論旨には、すべてのリソースをコントロールしてしまうと技術革新が損なわれるといったものがある。レッシグはすべてのコントロールが悪いというわけではない。特許や著作権は認められて然るものであるとレッシグは言う。しかしレッシグは、例えばアメリカの高速道路が誰かのコントロールによって完全にコントロールされているのではなくコモンズとして、言いかえれば企業からも国からもコントロールを受けていない共有地として使用されていることを例にあげている[xviii]ように、コントロールがなくてもそれで充分人々の役に立つものがあることを「コモンズ」という本の中で強調する。パソコンのプログラムのコードは共有されるべきものだとレッシグは言う。コードがクローズドにならずに誰にでも公開されていればそれは、次の新しいプログラムを生み出すことを可能にする。オープンなコードをコピーして、新しいコードを書くことが可能になるからだ。クローズドな世界は技術革新を殺す。

音楽のコンテンツは半ばクローズドで半ばオープンなリソースである。音楽をCDからもしくはダウンロードしたものからコピーすることは可能だ。つまり一度購入したCDやダウンロードはある程度は購入者の好きにできる。それが販売目的でなければ。音楽は半ばオープンなリソースであること。このことは音楽の普及の原因の1つだろう。つまり音楽をクローズドにして限定された場所で、限定された人たちにだけ、限定された時間内でのみ供給されるとしたらどうだろう。音楽を記憶して自分で楽器を作りそこで演奏されていた音楽を再現する人も現れるだろうが、クローズドな音楽は明らかに音楽の普及を遅らせる。普及の範囲を限定する。オープンな音楽はあっという間に広がるし、広がった分だけ企業にも利益が出る。人は音楽をクリアな状態で再現したいと望むからだ。混入されたノイズの混じった音源よりも人は、作られた時の音楽の音を好む。パンク・ミュージックでさえクリアな音質で提供される。

音楽をオープンで聴く。それを可能にするのは人のコミュニケーションだろうし、それはインターネット上のフリーのサービスだったりする。きっとCDやダウンロードやストリーミングで購入しようか考えあぐねている人にとってはYou Tubeなどの無料サービスはいいきっかけになる。実際に聞いていいものは売れるからだ。例えばニルヴァーナの「ネバー・マインド」は世界で1000万枚売れたが、その背景には半ばオープンといえる音楽の供給需要のスタイルがあったはずだ。誰かが買ったアルバムを聴いて、自分もそのアルバムを買う。なぜなら新品の製品にはコピーされた手書きのカセット・テープにはないアウラがあるからだ。アウラとはヴェルター・ベンヤミンが使った言葉[xix]で、芸術作品の持つ一回性を指す。絵画は写真よりも一回性においてアウラを持つ。複製したものはアウラをその複製した元の物より少なく持つ。ひとはアウラに惹かれている。正規の持つアウラ。それがCDにも存在したのだ。ローゼスのアルバムについても同じことが言える。なぜローゼスの100万枚のCDが売れたのか?それはローゼスのCDがアウラを持っていたからだ。

半ばオープンでフリーな音楽産業はそのアウラ性において人々からお金を回収することができた。たとえカセットやコピーCDが存在していても。しかし、今や時代はストリーミングの時代となった。そこでは便利や気軽さがアウラのもつ吸引力を超えてしまったようである。インターネットで音楽は無料で気軽に聴ける時代になった。そしてそのとたんにアウラ性は消えてしまったのか。レコードの売り上げがあるなんて話も聞くがそれはまだ商品のアウラ性に反応する人がいるからだろうか?確かなことは音楽を聴く条件のハードルは昔よりは下がったということだ。何しろストリーミングは安価な音楽だからだ。それによりアーティストの収入が減って音楽の供給量や質が変わってくることはあるかもしれない。しかし何が良い音楽かは聴く人が決めるのであって、音楽家はそれと共に生きるのだ。

ザ・ストーン・ローゼスとは?

これまでローゼスについて書いてきた。表現をするローゼスとは一体何者なのか?ローゼスを言葉で言い表すために、ローゼスの生まれたイギリスの帝国としての歴史、イギリスの失業率、反アーティスト中心主義的、反資本主義的、反国家的なメンバーの発言、ローゼスによる王室批判、ローゼスの音楽的背景、ローゼスに見られるアナキズムの影響、ローゼスのファースト・アルバム「ザ・ストーン・ローゼス」のリゾームとしての働き、ローゼスによる自分の発見、映画「メイド・オブ・ストーン」について、インターネット社会の在り方について書いた。ローゼスの持つ影響力、それはローゼスやローゼスを聴く人々にとって肯定的や否定的なものであった。たとえばローゼスの「ザ・ストーン・ローゼス」の20周年エディションはローゼスの音楽が再びリゾームという従来の社会の構造とは違ったものになるという肯定面を書いたし、映画「メイド・オブ・ストーン」ではローゼス自身が金によって沈んでいくという否定面を書くことになった。これはローゼスの音楽が、ローゼスの発言が、ローゼスについての映画がぼくたちの内面をどう変えていったのか?ぼくたちの内面をどのように作り上げたのか?という制度と内面という両面について書くことだったと言ってもいい。それはぼくたちの外にどういった制度が存在して、それがぼくたちの内面をどのように変えていったかということである。

ローゼスの音楽がぼくたちをいかに変えていったか?ローゼスの音楽はこれまでみてきたところによると一言でいえば初期は反体制的な音楽であったということができる。映画「メイド・オブ・ストーン」ではローゼスが資本主義に完全に取り込まれる姿が描かれている。それはローゼスが反体制から体制へ移ってしまった結果なのかもしれない。ローゼスがかつて掲げた、反アーティスト中心主義、反資本主義、反国家主義はその態度を一変させてしまったのかもしれない。しかし重要なのは資本主義に頽落してしまったローゼスの初期が放っていた新しい世界の到来への期待感である。未来は過去であると言われることがある。人は過去遭遇したものによってでしか未来を見ることができない。その意味で未来は過去である。ローゼスの姿は過去により参照可能になる。それはしかし過去にある、過去が大々的に取り組んできた仕方とは異なる過去という過去、つまりマイノリティな過去をぼくたちの前に示した。そのマイノリティな過去がぼくたちの現在、未来を、従来からあるいわばマジョリティ的な過去が見せる現在、未来といったものがぼくたちに思い起こさせるものとは違ったものをぼくたちの中に思い起こさせた。それはぼくたちにとってはただ新鮮な驚きに満ちているものだった。こんなマイノリティなものに光を当てるローゼスの音楽、発言への驚きがそこにはある。

冒頭にローゼスの姿をぼくたちの心の中に思い描くのは不可能かもしれないと書いた。それは実際事実であるのかもしれない。しかし、自分なりの方法でローゼスの姿を書き表していくことは自分の中にあるローゼス像の再発見に繋がったということも事実である。正確さを追求すれば、その追求により何者もローゼスを言い表し得ないということになるのだろう。しかし今ぼくたちはローゼスの姿を心の中に思い描くことができているはずだ。そしてそのローゼス像がマイノリティな過去に光を当てるものになっていればそれだけでもぼくたちにとっては大きな一歩なのだ。

 

 

 

脚注

 

[i] ロッキング・オン 2019年3月号p.145

[ii] ザ・ストーン・ローゼス「ザ・ストーン・ローゼス」ジス・イズ・ザ・ワン songs written by John Squire and Ian Brown 山下えりか訳

[iii] 「ホエア・エンジェルズ・プレイ」songs written by John Squire and Ian Brown

[iv] 「ホワット・ザ・ワールド・イズ・ウェイティング・フォー」songs written by John Squire and Ian Brown 山下えりか訳)

[v] ロッキング・オン 1995年7月号 p.28

[vi] ロッキング・オン 1995年3月号 p.19

[vii] ロッキング・オン 1995年3月号 p.23

[viii] ロッキング・オン 1995年7月号 p.31

[ix] ザ・ストーン・ローゼス「ザ・ストーン・ローゼス」エリザベス・マイ・ディア songs written by John Squire and Ian Brown 山下えりか訳

[x]アナーキー・イン・ザ・UK」

[xi] 日本大百科事典(ニッポニカ) ディガーズ ジャパンナレッジLib 書籍版1987

[xii] ウィキペティア 五月危機

[xiii]ドゥルーズ・コレクション Ⅰ 哲学」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一監修 河出文庫 2015p.176

[xiv]ドゥルーズ・コレクション Ⅰ 哲学」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一監修 河出文庫 2015 p.169

[xv] インスピレーションの意味は「霊感」。ちなみに「直観」を英語ではIntuitionやinstinctと書く。

[xvi] ザ・ストーン・ローゼス「ザ・ストーン・ローゼス」フールズ・ゴールド songs written by John Squire and Ian Brown 山下えりか訳

[xvii] 「コモンズ―ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」ローレンス・レッシグ著 山形浩生訳 翔泳社 2003.2.20 p.29

[xviii] 同上 p.40

[xix] ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読

 

 

 

参照文献

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正義のための犠牲

映画「ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺計画(原題:Anthropoid)」を観た。

この映画は2016年のチェコ、イギリス、フランス合作映画で、第2次世界大戦時のチェコを描いた映画である。第2次世界大戦時の悪の枢軸国とは、日本とドイツとイタリアであるが、この映画の中の悪とはヒトラー率いるナチス・ドイツである。

ヒトラーの部下であるナチス親衛隊の幹部ラインハルト・ハイドリヒは残虐な殺人で有名だった。ハイドリヒは、レジスタンス(抵抗組織)や、ユダヤ人や、一般市民を残酷な方法で殺していた。

ナチス・ドイツチェコを占領する。しかしチェコにもナチス・ドイツに反抗するレジスタンスが存在した。そしてレジスタンスは、ナチス・ドイツという共通の悪に対抗して、連合国軍(正義の側とされる)と組んで戦っていた。

この映画は、ナチス・ドイツのハイドリヒの暗殺と、その暗殺を実行した人々のその後を描いている。

チェコ政府はロンドンに亡命政府として存在していた。その亡命政府からの命令により、ドイツ占領下のチェコにパラシュート隊が送り込まれた。パラシュート隊とは、敵国にばれないように侵入する落下傘部隊のことである。

チェコには当時、何人ものパラシュート隊が送り込まれていたが、そのうちの2名がハイドリヒの暗殺という目的を持つエスラボイド作戦のためにチェコに侵入した。その2人の男性はヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークである。

亡命政府から派兵された2人はチェコ現地のレジスタンスと協力しながら、ハイドリヒ暗殺を実行しハイドリヒを暗殺する。しかし、ハイドリヒの暗殺後ヒトラーの部下であるカール・フランクが、レジスタンスとパラシュート隊を追い詰め、殺害する。

そしてパラシュート隊とレジスタンスが見つけ出される前に3000人のチェコの市民がナチス・ドイツによって殺されている。この様子は1943年の映画「死刑執行人もまた死す」でも描かれている。

連合国側の戦士たちは自らの正義のためにハイドリヒ暗殺を実行するが、自らの行いにより増々一般市民が傷つくことになる。正義だったはずが、いつの間にか何が正義だか不確かになる。

パラシュート隊の兵士は、ハイドリヒ暗殺の指令を受けた、ただの兵士である。この計画の指令層の姿はこの映画では一切出て来ない。手足は見えるが、脳が見えないのがこの映画である。

戦争が始まると憎しみが連鎖していく。殺しが殺しを生み出す。この連鎖に終わりは来るのか?その連鎖の終止符を打つものとしてこの映画が機能すればいいのだが。憎しみの連鎖を断ち切る一つのきっかけがこの映画になるのではないのか?

ロボットと人間

映画「ウエストワールド(原題:Westworld)」を観た。

この映画は1973年のアメリカ映画で、SFスリラー映画である。この映画はとてもリアルな現実を模した、歴史を模したアミューズメントパークについての物語である。そのアミューズメントパークの名はデロスという。

デロスというのは3つのエリアから成り立っている。古代ローマのエリア、中世のエリアそして、西部のエリアである。

このそれぞれのエリアには歴史上に存在した世界が再現されている。建物だけでなく人間も再現されたものである。この場合の再現された人間というのはロボットのことである。

つまり3つのエリアには歴史上の時代が再現され、そこでは生身の人間に代わってロボットが動いている。

ではこれはどういうアミューズメントパークなのか?それはこのデロスという場所では、現実の世界で背徳と考えられていることがすべてOKなのである。特にこの映画の中で強調される背徳的行為とは、人殺しと、セックスである。また名誉欲についても人間はこのデロスを使って満たそうとする。

デロスには殺される専門のロボットや、セックスの相手をするロボットが存在する。人間の欲望を叶えるロボットたちが存在するのである。

映画の前半部ではロボットがデロスに遊びに来た客によってバンバン殺される。しかし映画の後半部では、今度は人間が殺される役のロボットに追われることになる。それは何故か?

それは人間の管理下に置かれたロボットたちが、人間に反逆するからである。

人間は人型ロボットを物としか思っていないという前提がこの映画では存在する。つまり創造主である人間は被造物であるロボットに何をしても罪にならないのである。姿形は人間でも、中身はただの回路でそこには尊い生命は存在しないというのである。

この映画の作り手は、ロボットにも生命のようなものが存在するのではないか?という立場に立っているように思われる。なぜならこの映画は、映画を観る者の前にロボットにも生命が宿るかもしれないという想定を提示するからである。

この映画を最期まで観た人には、ロボットの生命という未知のものが去来するのである。

スティーヴン・スピルバーグの映画にもこれと似たような作品がある。「A.I.」というのがその映画のタイトルである。人間が死んだ息子の代わりとして、子供型ロボットを買う。そして子供型ロボットには、母への愛情が育まれる。

人間は一体ロボットをどのように見ているのだろうか?取り替えの効く都合よい物か?それとも、人間の都合だけでは何ともしがたい生命というものを持った生命体としてだろうか?

共同体の悲劇

映画「この世界の片隅に」を観た。

この映画は2016年の日本のアニメーション映画で、すずという女性を中心として、1945年の第二次世界大戦末期の広島を描いた映画である。1945年の広島県といえば、8月6日の広島市への原爆投下が連想されることだろう。

この映画は、日本人でなくとも誰もが目をそむけたくなるような現実である、原子爆弾による大量殺人を間接的に描いた作品である。原爆投下後の広島の様子を描いた作品として広く読まれているのは「はだしのゲン」だろう。

このマンガでの原爆投下後の広島の描写はすざましいものである。このマンガを読んだ人の脳裏には原爆の恐ろしさが刻み付けられる。

この世界の片隅に」という映画の中では、広島の原爆は、広島の南方にある呉(くれ)から見たキノコ雲や、広島から歩いてきた被爆者のいた痕跡、そして空から降ってきた家財道具などといった形で描かれる。

広島の原爆という恐ろしい現実が時折ぬっと顔を出して、映画を観る者の中に恐怖を植え付ける。

この映画の主人公すずは、広島市で生まれて、呉に嫁にきた女性である。すずは当時の多くの人が従っていた風潮に流されるままに生きてきた。この当時の女性の人生とは結婚して子供を産み、子供を育てることだった。それ以外の選択肢はない。

すずもこの決められたレールの上を歩むことになる。そうこの当時はまだ共同体の繋がりが強かった。いわゆる世間の目のせせこましさが、現在よりも強い時代だったのである。

すずは選択肢を生まれた時に勝手に家族によって狭められる。家族のこの決定も世間により狭められた結果であるのだが。共同体のルールに異を唱えることなく従う人々。それがこの映画に生きる人々の姿である。

この強い共同体の息苦しさがあったからこそ、彼らは生きていられたのか?この共同体が狭苦しいものであるのは事実なのである。

映画の最後にすずは夫と広島の原爆で身寄りのない女の子を育てることになる。共同体が1人の女の子を救うのである。しかし忘れてはならないのは、このような状況、つまり第二次世界大戦を引き起こしたのは共同体だったということである。

共同体は人間の思考を支配する。共同体は一個人より大きく、個人の在り方に大きく影響するものである。個人から共同体は成立するが、成立した共同体は個々人の意思の統一的な集合であるわけはなく、共同体独自の思考を持つ。

共同体独自の思考は個人をねじふせて服従させる。そうならば、そのような共同体をまともなものにする努力をしなければならない。たとえ個人が共同体より小さな存在であっても。

愛か金かどちらが先に必要?

映画「ベイビー・ドライバー(原題:Baby Driver)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画でアクション映画である。この映画の主人公は通称ベイビー、本名マイルズという若い男性である。

ベイビーの育ての父は耳が不自由で話すことができない車椅子に乗った黒人男性ジョセフである。ベイビーの両親はベイビーが幼い頃に交通事故で死んでいる。ベイビーはその事故の後遺症で両耳から耳鳴りがする。ベイビーは耳鳴りを消すために、アイポッドで音楽を聴いている。

ベイビーは少年時代から強盗の逃走車の運転手として稼いでいる。その犯罪の仕立て人はドクという中年男性である。

この映画のあらすじを簡単に言うとこうなる。ドクの元で強盗者のドライバーとして働いているベイビーが、ドクから自立し、自分の罪を償う。そしてベイビー自らが住む共同体に認められる。これがこの映画のあらすじの大まかな概要である。

この映画は犯罪の銃撃シーンやカー・アクション、スタント以外にも恋愛の要素を入っている。ベイビーが恋をするのがデボラというダイナーで働く女性である。2人が結ばれる所でこの映画は終わる。

ベイビーは幼くして両親を失う。そして聾唖の黒人の元で育てられる。ガキの頃から犯罪をしている。都市の中心部(アメリカでは貧困層が都市の中心部に住むと言われている)に住んでいる。つまりベイビーは社会的に底辺にいる白人青年なのである。

物心ついた時から犯罪を繰り返しているベイビー。ベイビーにとって犯罪は日常である。ベイビーは犯罪に対して罪悪感を抱いている。しかしそこから抜け出せない。それは何故か?

それはベイビーの犯罪者としての育ての親が、ベイビーにしつこくつきまとうからであり、ベイビーもそれに依存している部分があるからである。

この映画の中にはベイビー以外にもドクに雇われて犯罪をする人物が登場するが、その人物たちに共通するのが、お金への執着である。

彼らは過剰にお金を求める。お金があればすべて手に入るとでもいうかのように。

よく世の中はお金で回っていると表現されることがある。要するに経済というやつである。経済は万能でなんでも解決できる。それが拝金主義者の言い分である。しかしそれは本当にそうなのだろうか?

お金を渡しても手に入らないものがあるのではないか?例えば恋人からの愛。これはお金がなくても手に入るか?答えは否である。恋人に出会うまで服を着て、家に住み、食事も採らなければならないからである。

この社会の最低限の生活はお金で保障されているのである。何もしなくても、国がお金を回収していく。それが国家に住むということである。そもそも始まりにお金があるかどうかが重要なのである。