生きていること、死ぬということ

映画「あなた、その川を渡らないで(英題:My Love,Don’t Cross That River、原題: 님아, 그 강을 건너지마오)」を観た。

この映画は2014年の韓国映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーである。

この映画の主人公は2人いる。それは韓国の田舎に住む年老いた夫婦である。2人の年齢は100歳近い。夫の方が妻よりも5歳年上である。

この夫婦には12人子供が生まれ、その内6人は幼くして命を失っている。老夫婦の妻の方が「服も買ってあげられなかった」と言って、6人の死んだ子供のために、子供服を買うシーンがある。

「服を買うお金がなかった」と夫婦は語るが、きっと当時の2人は金銭的に貧しかったのだろう。6人の死んだ幼子たちの話を妻がするのを聞いて夫の方は黙り込んでしまう。この6人の子供の死は、2人の間の闇の部分なのだろう。

人は誰でも死ぬ。当然のように。私も、あなたも。そしてこの夫婦はいずれは彼岸の世界に向けて旅立つ。この夫婦の場合は夫の方が先に天国に行くことになる。

はてさて、天国と書いたが、そんなものは本当にあるのだろうか?死の絶望の前に人は見たこともないものをあるかのように作り出す。生の世界があれば、死後の世界もあるのだと。

様々な宗教が人間の想像を絶するような彼岸の世界を“教え”という形でこの世に生み出している。しかし、そんなものが本当にあるのかどうかは誰も知らない。科学的に考えればそんなものはないのだろう。

しかし、その存在は人々を癒す。否、癒される人もいるというのが正しい表現だろう。

この老夫婦の妻は、夫が死んでも寒くないようにと、夫の死が近づいているだろう時期から、夫の服を燃やしていく。妻が言うには、燃やした服はあの世に行くだろう夫のための前準備なのだという。

この妻は、夫が天国へ行くかどうかは知らないだろう。あるいは知っているのかもしれない。しかし、科学はその存在を否定する。

人は想像を絶するような孤独に打ちひしがれた時、その孤独をないものにしようとして天国を作り出し、そこに住むという言うのかもしれない。それとも人は孤独のせいではなく、ただ自己の存在が無いという不安に駆られて天国を作り出すのか?

この映画を観て思うのは、自分の子供たちが怒鳴り合いのケンカをする時、もうすぐ夫が死んでいくという時、そして枯葉でじゃれ合う2人を見る時に、彼らが何を感じていたかということである。他者への想像力が自らの糧になると信じて。

未成熟な攻撃性が招く暴力

映画「グリーン・ルーム(原題:Green Room)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、ジャンルはスリラーである。

この映画はパンク・バンドをしている4人組が、本当に攻撃的な人々の間に入ってしまい、悲劇が生じるというものである。つまりこの映画には、偽物の攻撃性であるパンク・バンドと、本物の攻撃性を持つポートランド近くの住人たちという図式がある。

パンク・バンドが攻撃的な精神を歌うのに対して、ポートランド近くの住人たちは攻撃性を地でいく、つまり本当に暴力的な人たちである。パンク・バンドは見せかけだけの暴力性で、ポートランド近くの人たちは人を刺すし殺すし、ヤクはやるいかにも暴力的といった人たちである。

このパンク・バンドとポートランド周辺の人たちとの対立はいつ生じたか?元々両者は両極に立つのだろうか?見た目がパンクで、ポートランドの人たちのような暴力的な人はきっといるだろう。

彼らがアイデンティティー的に対立しているとも言えるが、それだけでは殺し合いは生じない。殺し合いが生じるには決定的な不都合が生じなければならない。この映画の場合その不都合とは何か?

それはパンク・バンド(エイント・ライツ)のメンバーが、カウキャッチャーという精神的な暴力と肉体的な暴力が共存するバンドの殺人を目撃してしまうことだ。

エイント・ライツはアメリカ各地を旅する貧乏バンドだが、カウキャッチャーはポートランドを地元とするポートランドの恐い人たちの共同体に属するバンドであった。しかもカウキャッチャーというバンドのメンバー(?)が殺人を犯していたのである。そしてその殺人現場の地下には秘密の部屋があり、そこでは麻薬の密造が行われていたのだ。

エイント・ライツはいわゆる地元の共同体の罪を隠すために殺されてしまうという危機に陥ったのである。

パンクの一般的なイメージとして、モヒカン、恐い、攻撃的、不良、アウトローなどが上げられるが、地元共同体の外に所属するエイント・ライツのメンバーは、このイメージにとりつかれているようである。不良っぽいのがパンクなんだと。

一方、地元共同体の方はどうかといえば、彼らはパンクというイメージ通りに生活しているのである。簡単に言えば後者には「っぽさ」がない。直球に不良なのである。

パンク・バンドのメンバーたちは、これから本格的に不良か不良でないのか決まっていく人たちである。要するにエイント・ライツはまだ未成熟なのである。しかし映画は人の成長を描くものでもあるから、死闘の中生き残った人間たち(パンク・バンドのメンバーのような未成熟だった人たち)は、自ら生き抜くための攻撃性に目覚める。

そこには生きるための決定がある。殺されそうな時に彼らは武器を手にした。しかし、その決定は避けられないものだったのだろうか?非暴力の思想はこの局面では役に立たないものなのだろうか?

男性、女性、トランスジェンダー

映画「タンジェリン(原題:Tangerine)」を観た。

この映画は、2015年のアメリカ映画で、恋愛映画である。この映画の主な登場人物は売春に関わる人たちである。売る側(売春婦)、買う側(客)、売る側の仕切り役がこの映画の中心となる。つまりこの映画は恋愛を主題としながら、売春の世界を描いているのである。

この映画はロサンゼルスの売春街の日常を描いた映画とも言える。又この映画で売るのは、トランスジェンダーの人たちである。ペニスを持って生まれたことを好ましく思えない状況に取り囲まれ、そこから逃れられない人たちがこの映画の主人公である。

シンディとアレクサンドラ。2人は生物学的男性で性的には女性である。2人は親友というのがこの映画の設定である。

この2人を買う側の人物としてラズミックという男性が象徴的に登場する。ラズミックは娘を持つ一家族の夫であり、ラズミックが稼いで家を支えている。妻イエバはラズミックに対して強気に出れない女性である。

妻イエバはラズミックに堂々とした態度で接しているように一見思えるが、実は稼ぎ手の男がいないとどうにもならない弱い存在である。

エバは弱い存在である。しかし本当にそうなのだろうか?今現在の世界では家父長制が支配しているように見える。強い女性であってもガラスの天井を打ち破ることはなかなか困難であるように見える。

保守的な田舎へ行けば、女性がパートタイムで働くのが主となっているし、金が稼げるのは女性よりも男性である。

何がそうさせているのか?それは古くから続く習慣を成り立たせている制度に加担する、人々の保守的な考え方である。

1980年代女性の開放が日本でも叫ばれたが、女性が主導権を握ることに対して社会は寛容ではない。ラズミックの妻イエバに対しても社会はきつい風当たりで対応するのだろう。

女性とトランスジェンダーの立場はどうなのか?女性は男性より劣るのか?同性愛(生物学的)は異性愛に劣るのか?女性の立場は前述したので、トランスジェンダーについて考える。

近代が始まり、同性愛が隅に追いやられてここ最近やっと同性愛(生物学的な)への理解が高まってきたのかもしれない。新聞やテレビで、トランスジェンダーの話題を目にしたり耳にすることも多い。

ただそこで取り上げられる人は“特別な同性愛者”にはなっていないだろうか?私たちの日常の中に“特別でない同性愛者”は存在しているのか?“特別”という文字がなくなり、“同性愛”が特異ではなくなる日は近いのか?

全部自分色で染めてしまうのか

映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス(原題:Guardians of Galaxy Vol.2)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、マーヴェル・コミックスのマンガを原作としたものである。タイトルに“リミックス”とあるようにこの映画はシリーズ第2作目の映画である。

この映画の主人公はエゴとメレディス・クイルの間に生まれた子供であるピーター・クイルである。

映画の第1作目ではピーターの父は不明であったが、今作でピーターの父がエゴであるということが明らかになる。

このエゴという名の父が何者なのかであるが、これは言葉では表現しにくい。ただし映画の説明によるとエゴが何者であるかは簡単に理解できるようになっている。

映像ではなく言葉でエゴを説明するとこうなる。宇宙空間があった。そこに脳が浮かんでいる。脳は宇宙に対して指令を送る。宇宙の成分で脳からの命令により、星が誕生する。その星に人型の生命体を作る。その生命体が宇宙の各地に行く。そしてその星(宇宙に浮かんでいる脳からできた星)と、各地の母親と呼ばれるような生命体に子供を作らせる。

星とセックスして植物が生まれ、その星の母親と呼ばれるような生命体とセックスして子供が生まれるのである。

エゴとは宇宙空間に浮かんでいた脳であり、その脳により生まれた星であり、その星から生まれた人型の生命体である。

エゴはなぜ宇宙のあらゆる場所に子を作ったのか?それは自らが宇宙そのものになるためである。永遠に自らが宇宙の全体となり、すべては一体となっている状態をエゴは望み、そのためのエネルギー源として自分の子供を使うのである。

この映画にはピーターの生みの父親としてのエゴと、育ての父親としてのヨンドゥ・ウドンタが登場する。エゴが一体化、同一性の象徴であるとするなら、ヨンドゥは多様性を象徴するかのような存在である。

エゴはピーターと同じ白人男性の姿をしているが、ヨンドゥはピーターと違い青い色の宇宙人である。ヨンドゥはエゴに雇われて、宇宙中に散らばったエゴの子供を集める仕事をしていた。

ヨンドゥは、エゴが自らの子供をエネルギーとして使い、子供は殺されていくことを知り、ピーターをエゴに渡さずに、自らの宇宙船の船員として育てることにしたのである。

ヨンドゥが多様性を示すかのようなシーンがある。ピーターをエゴの手から助け、宇宙に葬られる時のヨンドゥを燃やす炎は七色に輝いている。そして燃えたヨンドゥの遺灰も虹色の輝きとして宇宙に散らばっていくのである。

宇宙は広く、多様な生命体が存在するというのがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの世界観である。それと対照的なのがエゴという存在である。多様な色を自分という色で塗りつくそうとする。エゴは多様性の1つとしては満たされなかったのである。

時の癒しを待つ

映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー(原題:Manchester by the Sea)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、ドラマ映画である。

マンチェスター・バイ・ザ・シーとはアメリカ合衆国マサチューセッツ州エセックス郡ケープアンに位置する街の名前である。短くしてマンチェスターとも呼ばれる。

この映画の主人公リー・チャンドラーはマンチェスターで生まれ青年期の初期までマンチェスターで過ごした青年であり、暗い過去を持つ男である。

リー・チャンドラーの暗い過去とは何か?それは映画の中盤で明らかになる。

リー・チャンドラーにはランディという妻がいて子供も3人いた。子供の名前はスージーとカレンとスタニーである。ある日の夜、地元の仲間とはめを外して集団で自宅に帰ってきたリーは家の暖炉に木を2、3本くべて近くの店へ出かけた。

その時リーは暖炉にスクリーンを立てておくのを忘れていた。しかもその時リーは仲間とはめを外していた。はめを外すとは、マリファナやコカインをやり酒を飲むということである。

リーが買い物から帰ると家は火に覆われていた。妻のランディは逃げ出して助かったが、子供たちは逃げ遅れて火の海に包まれた。リーは警察から取り調べを受けるが、警察はリーに対して「これは誰にでも起こりうることだ。君に罪はない」と言いリーを開放する。

リーは自分に対する戒めの機会を失うことになる。つまりリーは自分の罪の償いをどうとっていいのかわからなくなるのである。

この映画ではリーの兄のジョーが死に、その息子パトリックの養育権がリーに託される。そしてリーがパトリックの面倒をみることになる。

ジョーの死から映画はスタートして、パトリックの身の振り方が定まるところで映画は終わる。この時系列の流れの途中にリーの過去がフラッシュバックのように回想される。

映画の中盤で、リーの苦悩の理由がわかると、次にリーがどのように贖罪を求めていくのかに焦点があたるようになる。

この映画では、父を失ったパトリック、子供を火事で亡くしたリーという2人の感情の回復を描いているといえる。

リーは感情の抑えが効かなくなるとすぐに暴力を振るってしまうタイプの人間である。リーの心が深く傷ついていればいるほど、リーの体は肉体的にも傷ついていくのである。ガラス窓を素手で殴り出血したり、バーで人に殴りかかり返り討ちにされたり。

映画の最後の辺りでリーは言う。「俺は乗り越えられない」と。リーの犯した罪は乗り越えるというよりも時が癒すのを待つしかないタイプの問題なのかもしれない。

リーは自分を責めるあまり、自身に対する好意に対しても自虐的に無視を繰り返す。リーの罪悪感は消えないかもしれないが、リーのそんな姿を見ていると時が癒すと信じてしまいたくなる。

属する集団から疎外されても、なお愛する

映画「ハクソー・リッジ(原題:Hacksaw Ridge)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、第2次世界大戦の沖縄戦を描いた映画であるといえる。

物語の前半は、主人公デスモンド・ドスの戦争までのアメリカでの暮らしと、軍隊の訓練の様子を描き、映画の後半では沖縄戦を描いている。

この映画の背景にあるのは、第2次世界大戦であり、第2次世界大戦といえば世界が連合国側と枢軸国側にわかれて戦った戦争である。この映画でいえば、連合国側はアメリカ合衆国で、枢軸国側は日本である。

1939年からこの映画で描かれている1945年まで、日独伊三国同盟を中心とする枢軸国側と、イギリス、ソ連アメリカ、中華民国などからなる連合国側との間では、激しい戦闘が行われていた。

その戦争にデスモンド・ドスはCO(良心的兵役拒否者)として参加した。COとアメリカ軍は表現しているが、ドス本人の映画中での言い分では良心的協力者である。

ではアメリカ軍がいうところのCO(良心的兵役拒否者)、ドスがいうところの良心的協力者とは一体何のことなのか?

映画中ドスは軍隊の訓練の段階から銃の使用を拒否する。ドスはいう。「銃には触れることができません」。

この態度が原因でドスは軍隊でいじめにあう。そして軍法会議にかけられる。そう、良心的兵役拒否者は、人を殺すことを拒否して実際の戦闘を避ける人たちのことである。ドスの場合は戦争は人殺しのことだとわかっているが、周りの若者が兵隊として戦い命を落とすのは無視できない。だから命を救うことだけしようというのである。

「私は戦争は人殺しだから反対です。だから戦争には参加しません」ではなく、「戦争は人殺しだし最悪だけれども、そこで死んでいく人々を見殺しにはできません」というのがドスの態度である。

ドスはこの願いを胸に、戦場で75人もの人の命を救った。第2次世界大戦は、軍部と民衆の熱狂が一体となって進んでいったものだといわれている。

第2次世界大戦といわれてすぐに思い付くのは、ナチス・ドイツとその総統だったヒトラーのことだろう。ナチス・ドイツのような在り方を全体主義と呼ぶ。どのように全体主義がなりたっていったかには、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」のように複雑な要因が重なって生じてきたものであると述べてあるようなものもある。

現実は単純ではない。複雑にいりくんだ状況が全体主義を形作っていたのだろう。

全体主義を作り出す方法の中に、人々を孤立させるやり方というのがある。それはこのドスの立場とは真逆のものである。自分の属する集団から暴力を受けても、周囲の人々を求め続けたドスの姿には心打たれるものがある。

階級社会は運命を作り出す?

映画「T2 トレインスポッティング(原題:T2 Trainspotting)」を観た。

この映画は2017年のイギリス映画で、1996年製作の「トレインスポッティング(原題:Trainspotting)」の続編の映画である。

前作トレインスポッティングでは、今作と同じエディンバラで、若者たちが過ごすドラッグ・カルチャーやクラブや金をめぐる物語について描かれていたが、今作では、そんな騒動を繰り広げていた若者たちが中年になって一体どんな生活を送っているかが描かれている。

前作から今作への変化はあまりないというのがこの映画を観終わった後の感想である。20年たっても彼らは、青春時代の人間関係をひきずっており、ベグビーという恐い先輩におびえるマーク・レントンとサイモンとスパッドという図式は変わっていない。

この映画の中で登場人物たちはそれぞれ問題を抱えているが、この中で一番苦難に満ちた人生を過ごしているのはバグビーである。

バグビーの父親は酒浸りのホームレスで、バグビー自身学がなく、すぐ頭に血が上る暴力男である。バグビーはこの映画の中の悪役である。

前作で、マークとサイモンとスパッドとバグビーは麻薬を売って1万6000ポンド手に入れる。その金のほとんどをマークが持ち逃げする。

前作は、マークがバグビーやイギリスの階級社会から脱出するところで終わったが、今作はその続きである。

今作は刑務所の中でマークへの恨みを持ち続けるバグビーの復讐劇とみることができる。

イギリスの階級社会で下位の労働者階級として生まれた者は、戦争で兵士として利用される時でしかイギリスの中で尊敬を集めることができない。バグビーはその労働者階級の中でも最も不幸な立場にいるといえる。

別の見方をすればバグビーはただの迷惑な暴力男なのだが、バグビーはバグビーにはどうしようもない立場に置かれていることも事実なのである。

しかし、ここで考えなければならないのはマーク、サイモン、スパッドも生まれたのは労働者階級というところである。

人の性格は遺伝するものか?それはよくわからないが、誰にも選択のチャンスはあるということである。マークやサイモンやスパッドが選択の仕方次第ではバグビーになりうることもあるかもしれないということだ。

人は生まれついた運命に生きているのではなく、自ら選んだ道を進んでいるのだということはできないか?しかも自らの選択は偶然性に晒されているのである。幸せになるのか不幸になるのかは誰にもわからない。しかし、運命を作り出してしまうような階級社会があるとしたら、それは必要ないものである。