心の中の柵

映画「フェンス(原題:Fence)」を観た。

この映画は2016年のアメリカのドラマ映画であり、アメリカの黒人家庭の一期間を描いた映画である。

この映画はマキソン家に関わる人々、特にその家族、その家族の主人であるトロイ・マキソンについて描いている。

トロイには、弟、妻、2人の息子、娘がいる。トロイの弟はゲイブという人物で戦争で頭部に損傷を負い、精神障碍を持っている。戦争とは第2次世界大戦だと思われる。

そしてゲイブの戦争での負傷の代償として、トロイは国から3000ドルを貰い、そのお金で家を持つことができた。

トロイの妻はローズ・リー・マキソンという。トロイとは「18年間結婚していた」とのセリフがあり、映画の展開を見ていると、18年以上は結婚生活が続いていたようである。

2人の息子とは年長からライオンズとコーリーである。ライオンズは音楽で生活していくことを夢みている34歳の青年として登場する。

コーリーは高校でフットボールで才能を発揮している学生である。

娘はレイネルという。レイネルは、トロイとトロイの浮気相手であるアルバータとの子供である。映画の中では娘レイネルが生まれて、レイネルが10代ぐらいになる姿まで描かれる。

この映画のタイトルにあるフェンスとは柵のことである。トロイは妻ローズの頼みで家を囲う柵をコーリーと作っている。映画が進むにつれてフェンスは完成に近づいていく。

映画のラスト、トロイの葬式に向かう時には、フェンスは当然のように家を囲っている。トロイは、フェンスをローズとの約束通りに作り上げたのである。

フェンスは硬い木でできた木製のもので、何年も持つような頑丈なものである。このフェンスとはきっとトロイの中にある柵の比喩になっている。

人間は生まれたばかりの時には、心の中に偏見はないはずである。人生を過ごすことによって心の中に偏りが出てくる。「あの人とこの人は違って悪い」などという偏った見方である。

この偏り、違いをとらえる視線は人の心の中に柵を作り上げる。この柵は世界のものを常に区別する。時には必要のない区別を人の心の中に作り上げることもある。

トロイにとっての柵とは、人種差別である。白人と黒人は別で、黒人は白人より下だ。この固定観念は、トロイの中に染みついている。

一方柵をなくすものがある。それはトロイが口ずさむトラディショナルのオールド・ブルーという曲だ。子供たちはその歌を歌うことで異母兄弟という柵を超えて1つになるのだ。

理想的な家族像という束縛

映画「不意打ち(原題:Lady in a Cage)」を観た。

この映画は1964年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスである。

この映画はお金持ちの母子家庭とその財産に群がる人間たち、そしてそれを取り囲む無関心な都会の住人たちが描かれている映画である。

この映画の主人公は母子家庭の母の方のコーネリアスという女性である。コーネリアスには30歳にもうじきなるマルコムという息子がいる。

マルコムが母に置き手紙を残して家から去るところから映画は始まる。

コーネリアス夫人は息子を溺愛していた。息子マルコムは母に愛されすぎて身動きがとれない哀れな息子である。マルコムは自殺を思い立つほど母の愛を重圧に感じていた。

そうマルコムは母の愛という重圧から逃れる決意をしていた。その決意とはもし母がマルコム自身の自立を許してくれないのなら自殺をするというものだった。

映画中でマルコムの母は家の中のエレベーターに閉じ込められる。マルコムの母は自身の危険を知らせるために、非常ボタンを鳴らずが、誰も助けには来ない。

そうこうしているうちに、ホームレスとおぼしきジョージという男が家を物色する。そしてそれに連れられて、ランダルとイレインとエッシーという不良少年、少女も家の中に侵入し最後にはマルコムの母の家の贅沢な品を手に入れようとポールという故買人とその相棒が現れる。

映画中、何度か電話が鳴る。それはきっとマルコムが母の意思を確認するための電話だろう。その電話にマルコムの母は出ることができない。なぜならマルコムの母はエレベーターの中に閉じ込められ、そのエレベーターは宙づりになっているからである。

都会の無関心の中では誰もコーネリアス夫人の助けての声に気付かない。コーネリアス夫人の声に気付いたのは福祉国家が生んだゴロツキ、ホームレス、売春婦そして故買屋である。

福祉国家がゴロツキを生んだのかの議論は置いておいて、コーネリアス夫人の助けに反応したのは、人の不幸を食い物にする人間たちばかりである。そして、コーネリアス夫人自身も息子の不幸の上に成り立っていたのだが。

印象的なのはホームレスのジョージの手の甲に印されている文字である。その文字は“悔い改めよ”である。ホームレスの男が、お金持ちの女に叫ぶ「悔い改めよ!」と。

この世には富者と貧者が存在する。誰かが貧しき者に施しをしなければならない。しかし現実はどうか?コーネリアス夫人は自らのお金を奪う福祉国家を恨んでるようである。その彼女に「悔い改めよ」の声は本当に届くのだろうか?

 

 

 

※この映画では福祉国家がゴロツキたちを生み出したとある。それは国家の介入が不十分だったためではないのか?お金持ちたちは税金を払うのが嫌で、福祉国家にゴロツキたちの不道徳さを強調するのではないのか?この映画は福祉国家をダメなものに見せようとするプロバカンダなのかもしれない。

 

マルクスは母によってがんじがらめになり、母という牢獄の中で命尽きる。そしてコーネリアスの母は理想的な家庭的女性という牢獄を象徴するかのようなエレベーターの中に閉じ込められそこから出ることができない。二人とも理想的な家族像の犠牲者である。

このクソな世界

映画「ジャニス リトル・ガール・ブルー(原題:Janis Little Girl Blue)」を観た。

この映画は2015年のアメリカのドキュメンタリー映画であり、60年代に活躍した女性歌手ジャニス・ジョプリンの人生を描いた映画である。ジャニス・ジョプリンは1943年に生まれて1970年に亡くなった歌手である。

ロック・アーティストとして有名なジミ・ヘンドリックスやジム・モリソンと同じく27歳でこの世を去ったアーティストとしてジャニスも有名である。ちなみにジミ・ヘンドリックスは1942年に生まれ、ジム・モリソンは1943年生まれである。

ジャニス・ジョプリンの死因はヘロインの使用である。ジャニスがいつも使っていたヘロインより、ジャニスを死に至らしめたヘロインは高純度であったため、通常の量を使用していても致死に達してしまったのである。

この映画の最後にジョン・レノンがヨーコ・オノとテレビに出演している映像が流れる。テレビのインタビュアーがジョン・レノンに酒や鎮痛剤やヘロインに人が逃げてしまう理由を尋ねる。

するとジョン・レノンは「まずは原因究明が大切だ」と断った後にこう発言する。「人は世の中の窮屈さにへきえきしている。だから自己防衛手段として、それらのものに手を出すんだ」と。

つまりジャニスは、世の中のクソさ加減に打ちのめされていて、しかもその中でまともに生きていくために自己を守る手段として酒やドラッグをやったのである。

ジャニスは十代のころに公民権運動に刺激されたり、当時としては珍しくバイセクシャルであった。ジャニスはつまりこの世の中の住みにくさを体感している人間であった。つまりジャニスはこの世の中のクソさ加減にうんざりしていたのである。

ジャニスが問題児として育っていくのは、ジャニスが生きる世界がどうしようもなく不条理なものだったからであり、その不条理さの原因がこともあろうに人間によって生じていたからであろう。

人が人を抑圧していく。ジャニスはそれに耐えられなかったのである。ジャニスは自身の容姿が美人ではなかったこと、周囲に溶け込めなかったことを心の傷として生きる。

ジャニスが問題児であったのは、ジャニスがこのクソな世の中を見抜いていた証拠なのである。

人を見た目で判断する世界。色が黒いとか、美人であるとかないとか。今この世の中はジャニスが生きた世界と変わっているか?否、いない。相変わらず黒人は警官に撃たれるし、学校からプロムの伝統は消え去っていない。

いつになったら呼吸のしやすい世界になるのか?そう人々は変わるのだろうか?それ以前に自分自身が変わることが重要なのだが。

産業が大事?それとも環境が大事?

映画「ナイスガイズ!(原題:The Nice Guys)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、映画のジャンルはミステリー・クライム・スリラー・アクション・コメディである。

この映画の主要人物は3人いる。ホランド・マーチとホリー・マーチという父娘の2人とジャクソン・ヒーリーという殴り屋である。

ホランド・マーチは私立探偵として娘を養っている。ホランド・マーチの妻=ホリーの母は死んでおり、その上家は火事で焼失してしまっている。

ジャクソン・ヒーリーは護身術のプロであり、女性に頼まれては男をボコボコにするという仕事をしている。

ホランド・マーチは浮気調査や人探しを仕事としている私立探偵である。

映画の舞台は1977年のアメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスである。この時代のアメリカ自動車業界と政府の関係が映画の背景にある。

当時アメリカの自動車産業は好調で、3大自動車メーカーである、ゼネラル・モーターズフォード・モータークライスラーが市場を独占していた。しかし自動車は排気ガスを出すという欠点を持っていた(今でもそう)。

アメリカ合衆国では1963年に大気汚染防止のための法律であるマスキー法が成立していた。地球の環境を守るために大気汚染をなくすことを目的とした法律である。当然、自動車の排気ガスも規制の対象となる。

この映画の中では、自動車業界と政府(司法省)が組んで、この法律に反する行動をとっている。つまりマスキー法で排気ガス規制をされると、ガソリンを大量にくうアメリカ車は立場がなくなる。ガソリンをどんどん使って走って排気ガスを出すのがアメリカ車なのである。ガソリンの消費量を減らし地球に優しい車を作る技術は当時のアメリカにはなかったのだろう。

排気ガス規制は、アメリカ車販売の勢いをそぐものと3大自動車会社には映ったというのがこの映画の展開である。

ホランドとヒーリーはアメリアという若い女性を探すように依頼される。そしてこのアメリアがアメリカ政府の司法省の重役の娘で、アメリアが母親たちを潰そうとして排気ガス規制法についての映画を撮ることが、この映画の要点になっている。

排気ガスは環境に悪くても、産業はアメリカを支えているから大切だと言う母と、悪いことはダメという娘の対立を軸に、この映画は展開していくのである。

政府と産業の思惑のために多数の犠牲者が出る。ホランドはこう言う。「これくらいの犠牲はまだ少ないよ」と。世界にはもっと巨大な悪があるのだろう。

人知を超えたもの

映画「哭声/コクソン(英題:Wailing)」を観た。

この映画は2016年の韓国映画で、サスペンス・スリラーである。

この映画の主人公はジョングという男性である。ジョングは妻子と義理の母と共に住む警察官である。ジョングの住むそして勤務する村に殺人事件が起こる。それも連続してだ。

その殺人事件に共通するのは家族のうちの誰かが、他の家族を惨殺しているということだ。そして最後にその殺人者自身も死ぬことになる。

この映画は人間ではない超越的なものが登場する。それは日本人の男であり、殺人事件の目撃者である女性である。

この話を簡単に言ってしまうとこうである。

ある所に人間の想定を超えた悪魔のようなものがいる。その悪魔のようなものは、何が目的かわからないが人を発狂させて、身内を殺させていく。

悪魔のようなものにはその下僕である祈祷師が付いている。悪魔のようなものが殺人の原因を作り、祈祷師もその発狂を助けている。

一方天使のような超越的存在もいる。それは女性の姿をとっており悪魔のようなものが人を発狂させ人を殺すのから、人を救おうとしている。

その流れに巻き込まれるのが、ジョングの村の住人たちや、ジョングの家族そしてジョング本人である。

この映画の冒頭には新約聖書ルカによる福音書24章37-39節が引用される。それはキリストが復活して弟子たちの前に現れた時にキリストが弟子たちに語った言葉である。それは大体こういう意味である。

「あなたたちは私(キリスト)が復活したことを疑っているのか?よく見て触れてみなさい。私は身をもっている」。

この映画の最後で人間を不幸の中に落とし込んでいく悪魔のような存在がこう言う。「よく見なさい。私には身がある」と。

キリストの言葉を悪魔のようなものが発話するのである。であるとするとこの悪魔はキリストが復活した姿なのか?この悪魔のようなものがキリストかどうかよくわからないのだが、この映画には人知を超越した善的なものと悪的なものが存在する。

人間を超越したものの姿は、善でもあり得るし悪でもあり得るとこの映画は示す。善と悪は表裏一体である。善がある所には悪がある。例えばキリスト教カトリックの神父が、幼児虐待をしていたように。善と悪はいつも危うくバランスを保とうとしているのである。

 

 

 

※人知を超えた神のような存在は人間にとって善でも悪でもあり得る。キリストももちろん人知を超えた存在である。であるならばこの映画の中の悪魔のようなものは、磔になった際にキリストの手にできた傷と同一のものを持っていることになる。つまりこの映画の悪魔的なもの=キリストと言ってもいいのである。そうキリストも神の身内ならば人知を超えていたとしても不思議ではないのである。

 

※wailingはwailの現在分詞。wailingの意味は、泣き叫ぶ、声をあげて泣く。

繋がり易い言葉と、繋がりにくい言葉

○繋がらないものが繋がる

 

繋がらないものが繋がる。それが哲学というものであると東浩紀は言った。キーワードを繋げるためにメモをすると宮台真司は言った。整理してはダメだ。雑然としている状態で資料がごちゃごちゃになっている状態から面白いものは生まれると内田樹は言った。

東浩紀は朝カルアーカイブ批評の書き方実践編(朝カルArchive 東浩紀 批評の書き方実践編(ラジオデイズ公演)全三巻 2010年)でそう言っていたし、宮台真司の場合はインタビューズ(「宮台真司interviews 1994-2004」 世界書院 2005年 p.76、100、110、389)の中やウェブページの「宮台真司のこれも答えですよ」

これも答えですよ!

http://www.angelfire.com/me3/meso/korekota.html)でそう発言しているし、内田樹は住まい論(「僕の住まい論」 新潮文庫 2014年)の中でそう書いている。

つまり従来あるように物事が並んでいる状態からは何も新しいものは誕生しない。従来のものとは別の在り方が新しい何かを作り出してくという考え方がこの三者の考え方からは生まれてくる。

つまり従来あるとおりに物事があるというのは保守的な立場であると言えるし、従来とは違う何かに開かれている態度は革新的であるといえる。この世の中には変わって良くなることが沢山ある。そう三者は告げているように思われる。

しかし注意しなければならないのはなんでも文脈を無視して繋げていいわけではないということである。東浩紀は朝カルアーカイブの中でそうはっきりと言っている。文脈を無視していいのには節度というものが必要なんだと東浩紀は言うのである。ではこの節度とは何か?節度など重視していては何も革新的なことはできないのではないか?

ここで来るべき革新の姿について思考を巡らすべきだと思われる。来るべき革新の姿が、文脈を無視する際の節度を設定しているように思われるからだ。

宮台真司はメモを取る時の書く快楽がひらめきをもたらすと書いている。つまり革新的な目的など当初はないのである。ひらめきが革新を決定づける。そしてひらめきとは偶然に近いものである。革新は目的であるが目的としては当初は存在しないものである。

繋がらないものが繋がる。そこには革新的なひらめきがある。ひらめきは想定できない。そのひらめきを目的として、繋がりは存在する。革新的思考にはそれ自身が持つ不確実性があるとういうことができるのではないか?繋がらないものが繋がった時にそこには従来なかった新しいものが存在する。繋がりは革新を求めるが、革新はこれであると示すことはできない。

こう言っていると何か雲でもつかむような気持になるが、繋がらないものが繋がっている、そしてそれが多くの人にとって説得的に響くというのは厳然たる事実ある。繋がらないものが繋がる。それはどこか新しくてどこか懐かしいものなのである。

 

 

○繋がり易いもの同士

 

連想し易い言葉。言葉の日常的な繋がり。繋がりやすい言葉とはこういった言葉である。日常的に使われている言葉の日常的な関連性。それが繋がりやすい言葉同士であると言うことができる。

例えば、「新聞」という言葉と、「朝刊」、「夕刊」といった言葉は繋がり安い言葉である。新聞という言葉に対しての説明を後の二つの言葉はしている。これは日常的に使われている言葉、つまり多くの人が聞いて誰もが理解することができる言葉である。

新聞という言葉と朝刊、夕刊といった言葉の繋がりは容易に見つけることができる。その言葉の組み合わせは日常的に頻繁に使われているから、誰もが新聞という言葉と朝刊、夕刊といった言葉の繋がりを異様に感じることはない。これらの言葉が同じ会話で使われることは突拍子のないことではない。「今日の朝刊読んだ?」「朝刊?読んだよ」「夕刊は?」「読んでない」という繋がりは別に奇妙に感じることはない。

もう少し詳しく記述をしてみたいと思う。言葉には実際に使われる言葉と、実際に使っている言葉の背景にある体系を構成する言葉とがある。実際に使う言葉と、その背景にある言葉の体系。

実際に使う言葉には、話し言葉と書き言葉がある。これらは動的な言葉である。そしてその反対に静的な言葉というものもある。それは実践的な言葉ではなく、言葉同士の繋がりを図式的に示そうとするようなものである。言語学では前者をパロールと呼び、後者をラングと呼ぶ。言葉にはラングとパロールがある。そう言ったのは、ソシュールという言語学者である。

言語学では実践的な言葉をパロールと呼び、体系的な言葉をラングと呼ぶ。人が実際に言葉を使う際に、言葉の体系を思い浮かべているわけではないが、人は言葉を使ってスムーズに会話することができる。人は言葉を話す時に意識して体系から取り出すことはしない。会話は体系など意識しなくてもスムーズに行われる。

アメリカにノーム・チョムスキーという有名な言語学者がいるが、チョムスキーは面白いことを言っている。人は誰もが経験的にではなく、先天的に言語というものを身に着けていると。つまりチョムスキーの考えによれば人は言葉の体系を誰しも持ち、それには特別な教育といったものは必要ない(フォー・ビギナーズ97 チョムスキー 現代書館 2007年 p.69)。

上流階級で有名な大学を出ているから、大学を出ている人よりより高度な言語体系を持っているのではない。人は先天的に誰もが膨大な数の言語を手に入れているのだと。この考え方によると言語体系はどうやって獲得するか?などという問いは立たなくなる。言語の体系を人は誰しも持っているのだから。つまりここで我々は言語体系がどこから来たのか?という根本的な問いをスキップすることができる。人は繋がりやすい言葉と、繋がりにくい言葉の関連性を持つ体系を先天的持っているのだから。

少々脱線したが本題に戻ろう。繋がりやすい言葉があると述べた。そしてその言葉を有する体系が人間には先天的に備わっている。言葉同士が繋がりやすいかどうかは、それぞれの個人の中に存在する言葉の体系によって決まる。各個人の言葉の体系はそれぞれ似通っている。言語は話す言葉が違っても似たような体系を持っていると考えることができる。つまり、この世界の多くの人々が繋がりやすい言葉という連想を持つことになる。そして、繋がりやすい言葉があれば当然繋がりにくい言葉もあるのである。

 

 

○繋がると意外性があるもの同士

 

連想しにくい言葉。言葉の非日常的な繋がり。それは人々にとって時に心地よい刺激となる。連想し易い言葉の羅列に飽きた人たちは、繋がりにくい言葉同士の連結に興奮する。繋がりにくい言葉同士が繋がる時には、時としてその言葉の繋がりが人々の中に大きな快楽を呼び起こす。それは何かわからない状態に置かれている人間が、何かわからない状態に言葉を付けて、繋がりにくい言葉同士を繋げる作業であり、その作業の結果は人々の間に快楽を生むのである。

人は先天的な言語体系を持っており、その体系の中で遠い言葉つまり繋がりにくい言葉同士を繋げる。それが答えを提示するということである。難解な問題に頭を悩ませている人がいて、その人に対して、答えを提示すること、それが繋がらない言葉同士が繋がるということである。それは快楽を生む。それはつまり、人が快楽を避けない限り、繋がらない言葉が繋がることを求めている人がいるということである。

東浩紀は「朝カルArchive 東浩紀 批評の書き方実践編(ラジオデイズ公演)」の第三巻の中でこのようなことを言っている。ここでは概要を示す。東浩紀が言っているのは大体次のようなことである。

「今思想というのは、ディグというアメリカのソーシャルニュースサイトでは、思想(アート・アンド・カルチャー)というのはライフスタイル(自動車、教育、飲食、健康、旅行)のカテゴリーに入っていてエンターテイメントのカテゴリーからは離れている。…思想や文学や芸術はライフスタイル(真面目)に区別されているけど実はライフスタイルに区別されたら負けでエンターテイメント(不真面目)に区別されなきゃいけないんじゃないかということを言いたい…真面目なもの(思想)と不真面目なもの(エンターテイメント)が混然一体となってしまった空間というのを名指していたのがデリタというのから動かないので、そうではなくて真面目と不真面目を攪乱するのがデリタだったというように発想を切り替える。実はこれで繋がるようになっている。デリタの話から思想がエンターテイメントになるという結論は出て来ない。デリタはそんなことを言っていないのだから。つまり俺の中で繋げるしかない…僕のやっていることというのはパッチワーク批評(二次創作批評)で本来だったら繋がらないことをどう繋げて、ある種のストーリーを作っていくのかという批評をやっている」

東浩紀は日本の批評界では名の知られた人気のある批評家である。東浩紀は言う。批評というのは繋がらないものを繋げることなのだと。そこに批評が批評たることの意味がある。そして東はこの中では直接は言っていないが、繋がらないものが繋がる批評こそが面白い批評なのだと言いたいのではないか。

東浩紀は当たり前のことが当たり前に繋がるというのには何の商品価値もないと言う。繋がらない事が繋がって初めてそこに商品価値が生まれると言っている。東は商品価値という言葉を嫌っているようだが、自身の評論が商品として価値を持つのは繋がらないもの同士が繋がることだと述べている。ここで繋がらないものと表現されているのは繋がらない言葉同士と私が前述しているものと言っていいだろう。

90年代から批評家として活躍する人物に宮台真司がいる。宮台もキーワード同士を繋げることに強い関心を持つ批評家(社会学者)である。

宮台真司が書く文章には強い快楽がある。宮台真司の文章を読む者はその快楽に浸ることができる。

例えば宮台真司は著書「どうすれば愛しあえるの」(KKベストセラーズ 2017年)で社会の中にあると思われている恋愛を、社会の外に位置付けるという作業を行う。つまり一般では恋愛=社会内という繋がりを、恋愛=社会の外という繋がりに切り替えるのである。

宮台真司はこう唱える。90年代以降はそれ以前では可能だったロマンチックな恋愛が不可能になった。それ以前では「人はまだロマンチックな「愛」国や恋「愛」が可能でした」と宮台真司は述べる。「非合理・不条理・理不尽を意思できるのが人格的な主体だとすれば、人々はまだ人格的な主体でした。そうであるぶん人々は、損得勘定の自発性を超え、道徳感情の内発性から行動できたといえます。」(p.45~p.46)。ここで言われる非合理・不条理・理不尽が「愛」である。

愛とは一見合理的なもので、愛はそれに等しい対価が支払われると現在では考えられがちである。しかし宮台真司はこの考え方に対してこう提示する。愛は贈与である。対称性など無い。それは与えた分返って来るとは限らない。それが愛であり、その愛が近いもの同士の繋がりを生み、その近い繋がりが自分の大切な人を守るためにもっと遠い関係にある人を助けるという繋がり(例えば国)を生み出していたと。

国が最も望ましいものかの是非は置いておくとして、宮台真司の言葉は人の中に新鮮な喜びを生み出す。それは繋がらないと思われていた考え方(言葉)が繋がる瞬間がここにはあるからである。

繋がりにくいものが繋がることには大きな快楽がある。その快楽は人を新しい言葉の繋がりを示す媒体に引き寄せる。その立役者として例えば批評家が存在するのである。

父と母と子

映画「イカとクジラ(原題:The Squid and the Whale)」を観た。

この映画は2005年のアメリカ映画で、両親共に作家である兄弟とその両親を描いたドラマ/コメディ映画である。

バークマン一家の父バーナードと母ジェーンは、フランクとウォルトという2人の男の子を育てていく途中で不仲になり離婚することになる。そしてウォルト(兄)と、フランク(弟)が保護者の間を曜日ごとに行き来する共同監護の日々が始まる。

ジョーンは成功した作家で稼ぎも多いが、父バーナードは落ち目の作家で、小説の書き方講座を開きなんとか生活を成り立たせている。

商業的成功から見離された父は、父を慕う息子ウォルトに向かってこう言う。「大衆は俗物ばかりだ」「俗物とは本や映画に関心がない低レベルの人たちだ」と。

兄ウォルトも弟フランクも両親の不仲が原因のためか精神的に病んでいる。兄ウォルトは感情的になれなく、人の気持ちに鈍感な青年であり、弟フランクは、自分の精子を図書館の本や学校のロッカーにこすりつけるような奇怪な行動をとる。

両親の方はといえば、母ジェーンは夫との不仲のせいで何人かの男との虚しい情交を持ち、父バーナードは大衆を侮蔑するだけの稼ぎのない男で、兄ウォルトの好きな女の子とセックスしてしまうようなダメなやつである。

映画は途中から兄ウォルトの心理面に迫るようになる。兄ウォルトは父バーナードにべったりの父っ子青年である。ピンク・フロイドのHey Youという曲の歌詞をパクッて学校で自作の詞として歌った件で、ウォルトは精神科医に母との思い出を語る。

「昔母と博物館に行ってイカとクジラの戦いを見たことがある。見た時は怖かった。でも家に帰った後に母とその話をした時は楽しかった」と。

映画のクライマックスで父が疲労で倒れた後、ウォルトの恋を裏切って、ウォルトの好きな女の子と寝た弱った父を前にして、ウォルトは急に博物館に走り出す。イカとクジラの戦いを見るために。

きっとその時のウォルトには父は受け入れがたい恐怖として見えたのではないだろうか?イカとクジラの戦いを前に恐怖が楽しさに変わった母との思い出を想起し、ウォルトは自身の危機を乗り越えようとしているのである。母との関係を見直すことをその行動は促すだろう。