正式な発音って何?

映画「マイ・フェア・レディ(原題:My Fair Lady)」を観た。

この映画は1964年のアメリカのミュージカル映画であり、映画の舞台は1900年代前半のイギリスである。映画の主人公は、イギリスの下層階級の20代の女性イライザ・ドゥリートルと、音声学の教授のヘンリー・ヒギンズである。

この映画は言葉の発音について研究している2人の人物、ヒギンズとピカリング大佐そして“正式な”英語が発音できないイライザの計3人を中心として話が展開していく。

映画中、イギリスでは階級により言葉の発音が違うとヒギンズは言う。ヒギンズの言い分はこうである。イギリス(この場合はイングランドのことを指すと思われる)には正式な言葉の発音がある。その言葉の発音や言葉遣いが階級を隔てる壁になっていると。ヒギンズはそれに付け加えてこうも発音する。

「私は正式な言葉というものを知っている。それはイングランドの上層階級が使う言葉である。そして私の教育であれば下層の人間でも正式な英語を覚えて、上層階級の仲間入りができる」と。

この映画はイライザという下層階級の女性をヒギンズという上流階級の人間が教育して、イライザを上流階級の仲間にしてしまおうとするのが描かれている。

さてここで正式な英語とされているのはイングランドの上流階級が使う英語である。つまりこの映画ではイングランド中心主義が貫かれている。

イングランド上流階級が使う英語は、ウェールズスコットランドアイルランド北アイルランドで使われてるどの英語よりも素晴らしい。それだけではない。上流階級の使う英語は同じイングランドの中でも一番なのだとこの映画主張しているように見える。

しかし、この映画の中にはイングランド上流階級中心主義に対する揺らぎのようなものが見える部分もある。

ヒギンズはイライザの教育のために共に生活するようになり、その生活に愛着を覚えるようになっている。映画の最後にイライザがヒギンズ教授の家から出ていき寂しくなったヒギンズがイライザの声の訛りをサンプルとして録った録音を聞くシーンがある。

ヒギンズのいる部屋の中の蓄音機がイライザの訛った、しかも品がない言葉を出力する。それを真剣な顔をして聞いているヒギンズがスクリーンに映る。

ヒギンズはその訛りや下品さにも愛着を感じているのだろう。教育者は、一つの理想を抱きながら教育をする。そして時にはその理想というのが揺らぐのである。イライザの訛りや品のない発言をヒギンズが求めたように。

秘密

映画「ドント・ブリーズ(原題:Don’t Breathe)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、デトロイドの廃墟と化した住宅地の一軒家に住む盲目の老人と、その家に盗みに入った強盗3人との攻防戦であり、ホラー・スリラーというジャンルに当たる映画である。

この映画のタイトルであるDon’t Breatheの意味とは“口外してはならない”とか“(秘密にして)漏らしてはならない”という意味である。

この映画には口外してはならない秘密を持った3つの種の人がいる。それはシンディの親と、ロッキーと、盲目の老人のことを指すと思われる。

映画の舞台となる一軒家に住んでいる老人には娘がいた。その娘はシンディ・ロバーツという金持ちの娘に車で轢かれて死んだ。シンディは親の金で罪を逃れた。シンディの親が盲目の老人に示談金で100万ドルほど払ったからだ。

その金が目当てでロッキー(女性)、アレックス(男性)、マネー(男性)の3人が盲目の老人(男性)の家に強盗に入る。すると強盗の内の2人のロッキーとアレックスが盲目の老人の家の地下室にシンディが監禁されているのを発見する。そしてシンディは何とその地下室で盲目の老人に人工授精させられていたのである。

強盗の内マネーとアレックスは盲目の老人に殺される。ロッキーは100万ドルを持って老人の一軒家から脱出する。以上である。

シンディの親は娘が人を轢き殺したことを“口外”したくはない。盲目の老人は、シンディを無理に人工授精させていたことを“口外”したくはない。ロッキーは、盲目の老人の家から100万ドル盗んだことを“口外”できない。このように3種類の“口外してはならない”ことがある。

人はかくさなければならない事実を抱えて生きるものなのかもしれない。誰だって人に言えない秘密の1つや2つあるのかもしれない。

この映画の場合ロッキーは盲目の老人の秘密により、母親から虐待される日々から解放されることになる。それは盲目の老人の善意からというよりも、ロッキーが盲目の老人の“口外してはならない”秘密を知っているからである。情報をつかんだロッキーが自由を手に入れたのである。

映画中、ロッキーもシンディと同じように盲目の老人の手により、無理やり人工授精されそうになる。それをアレックスが救う。ロッキーは盲目の老人にレイプされそうになった。

そもそも盲目の老人は何故そのようなことをしたのか?それは自分の子供が欲しいからだと老人は語る。そこで我々は盲目の老人に対する距離感を、大きな隔たりを感じずにはいられない。

崇高さに狂わないこと

映画「栄光のランナー/1936ベルリン(英題:Race)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ、ドイツ、カナダ合作映画で、1936年のベルリン・オリンピックで4種目(100メートル、200メートル、走り幅跳び、リレー)で金メダルを獲得した黒人陸上選手ジェシーオーウェンス(正式名ジェームズ・クリーブランドオーウェンス)のその時の活躍を描いた映画である。

1936年は第一次世界大戦第二次世界大戦との間の時期で、ドイツはユダヤ人大虐殺を引き起こしたナチス・ドイツが勢力を維持していたし、アメリカ国内では黒人の人種隔離政策が堂々と行われていた。

この映画の英題であるraceには競争という意味と人種・民族といった意味がある。この映画のタイトルが意図していることは明らかである。

映画のタイトルRaceには2つの意味があると言える。オリンピックで競争することを指す意味と、世界で公然と行われている人種差別を指す意味とだ。

ジェシー・オーエンスはrace(競争)することで、racism(人種差別)と戦ったのである。そして競技への信念を通じてジェシーは人種差別を超越してしまったのである。

ジェシー走り幅跳びでドイツの選手と決勝を戦うことになる。その決勝にたどり着くには、そのドイツ人選手の助けが必要だった。それはこういうことだ。

ジェシー走り幅跳びをする際にいつもふみ切りの位置を遠くからでもわかるように、ふみ切りの横にハンカチを置いた。ドイツ大会でもハンカチを用意しようとしたが、その際にファウルをとられて、一回幅跳びをしたことになってしまった。

そこで困っているジェシーを見て、ドイツ人選手がふみ切り板の横にハンカチを目印として置いてくれたのだ。そのドイツ人選手の名前はルッソ・ロングという。

選手たちの周囲の人間は政治やビジネスにからめとられて選手たちが持つようなスポーツマン・シップを持つことはないとみられる。

しかし、それは選手たちも同じことではないのだろうか?

人はいつも政治やビジネスの渦中で暮らしている。選手であろうが、ビジネスマンであろうが、国際五輪委員でも同じことである。選手だって相手の選手に政治的憎しみを抱くこともあるかもしれない。

しかし、映画中の選手たちはその暗い部分を乗り越える。選手にはメダルという共通の目標がある。その前で血みどろにならずにいられる選手は、当然敬意の対象になるべきである。

ゾンビを殺せ!!

映画「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 30周年記念バージョン(原題:Night of the Living Dead:30th Anniversary Edition)」を観た。

この映画は1968年の映画である「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(原題: Night of the Living Dead)」の30周年を記念して作られた1999年の映画であり、この映画の1968年版の脚本を担当していたジョン・A・ルッソが新たに15分の追加撮影を加えて再編集したものである。

この映画はゾンビ映画であり、ある日突然登場したゾンビがどんどん増えていき、ゾンビに追われながら逃げ延びたベン、バーバラ、トム、ジュディ、ハリー、ハリーの妻、カレンという3人の男と4人の女が(女の子を含む)が、田舎の一軒家に立てこもるという話である。映画の中心となるのはアメリカの東部である。

この映画の中にはヒックスという神に仕える男が出てくる。その男はこう言う。「全能の神を信じる者は不滅の魂を得る」と。不滅の魂を得た者とは何者か?それは一応ゾンビであるということができる。なぜならゾンビとは一旦人が死んで再び蘇ったものだからである。

ゾンビは通常の人間よりは不滅の死に一歩近い。しかしそのゾンビは既に一応と記したように人間に頭を砕かれると死んでしまう。つまりゾンビは神のことを信じておらず、死が訪れる存在なのである。

ゾンビとなる前に神を信じていた。ゾンビとなり人を殺して食った(食いたいと、殺したいと思った)。つまりゾンビとなることは神に背くことなのである。一度ゾンビになって蘇ることにより神に救われたかに見える人間は、結局は神に背くゾンビとして生き返ったに過ぎなかった。

不滅の魂とは単なる神のいたずらに過ぎないのではないだろうか?

映画の最後にヒックス師が「神を信じていない者は地獄で焼かれるがいい」と言うが、ゾンビも人間も地獄で焼かれるのかもしれない。なぜなら人間は今や信仰より科学や技術に夢中だし、ゾンビは人を殺す。どちらもヒックス師の祈る対象である神にとっては罪人だからだ。

映画中ショッキングなのは、ラストのゾンビと疑わずに動く人影を撃ち殺すシーンである。「目と目の間を狙え」と保安官が言うと自警団の男が、黒人の生存者ベンを銃で撃ち殺す。もしベンが白人だったら、白人から成る自警団の人々はベンを助けたのだろうか?

最期のシーンの強烈さによって、ゾンビ狩りは黒人をリンチして殺していた時代のアメリカを思わせるものとなる。白ならゾンビでない?黒ならゾンビだ?

同じケースが、男性だと正常、女性だと狂人とされることについて

映画「リリス(原題:Lilith)」を観た。

この映画は1964年のアメリカ映画で、精神病院に入院をしている統合失調症の患者であるリリーと、その施設に勤める作業療法士ビンセント・ブルースとの恋愛とその恋愛の終わりまでを描いた映画である。

この映画の中に登場する人物リリスの人物設定には元となる像が存在するように思われる。それはユダヤの伝承において男児を害すると信じられていた女性の悪霊、その名は全く同じなリリスである。

様々な文献からの情報によるとリリスは、男の子を害し、男性を誘惑する、男性への復讐を誓った女性の悪霊である。

映画中のリリスも男子を困らせる女性として描かれている。

映画中のリリスはビンセントを困らせるために、他の女性と寝たりするし、また子供の男の子を困らせることをする。まだ十代前後の男子にセックスを連想させるキスをしたり、男子に小遣いをあげて私(リリス)の言ったとおりに小遣いを遣ったか来週チェックするわよと困らせる。

映画中のリリスは意図的に子供やビンセントを困らせているというよりも、その態度の理由をリリスの精神的異常のせいだと描いているように見える。つまり狂った人そのままの姿がリリスなのである。

映画中リリスは「私は愛しはしない。ただ自分の喜びが大切なの」というような発言をする。リリスは自分の喜びを追求するため、愛のために自身を束縛するような愛はいらないと言うのである。これは愛により他者を束縛して家庭を持つような男という種にとっては、とても耐えられないことである。

相手の愛を自分のものとしたい男(この映画の場合はビンセント)にとっては、リリスのような奔放な女性は男性の思うようにコントロールできない不都合な存在なのである。

映画中のリリスはただ狂女として描かれているために男性を傷つけることへの責任は問われはしない。精神異常者に健常者と同じ態度をとることは時として退けられるのである。

ユダヤの伝承にある悪霊リリスは女性解放運動の象徴の一つともなってる。なぜリリスが女性解放のシンボルとなるのか?それは『ベン・シラのアルファベット』という文献の中に理由があると思われる。

アダムの鋤骨からイヴが誕生する前にすでに女性がいた。それがリリスである。リリスは同じ土から作られたアダムとリリスを対等であると主張したのである。

男と同じ地位を求める女性像は悪霊となる。この映画でリリスが狂女として描かれているように、社会は女性の自立を認めようとはしていない。

芸術と理想の家族を生きる

映画「さようなら、コダクローム(原題:Kodachrome)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、写真家とその息子の音楽プロデューサーと写真家の専属の看護師を中心として描かれる、ロード・ムービーである。

ロード・ムービーとは、人生の挫折をした人間が再起をかけて旅に出るという映画である。挫折と再起。そのためのアメリカ大陸の長い道路。

この映画の主人公は、音楽プロデューサーの写真家の息子であるマットである。マットはアルバム主体の作品創りをしている古いタイプの音楽プロデューサーであり、今や会社をクビ寸前である。

写真家の看護師のゾーイは結婚に失敗している。そしてマットの父である有名な写真家のベンは、肝臓癌で死が近づいているのだが、自分のことを気にかけてくれる人がいないという状況である。

ベンは基本的に家族という機能を信じていない。ベンは家族の理想像を破壊する人物である。節制も利他愛もベンにとっては芸術の次に来るものである。ベンは理想の家族像よりも、芸術という理想を生きる人物である。

しかし、ベンも自分の死と向き合った時に、家族というあり方の良さのようなものにひかれていくのである。ベンにとって芸術がすべてであるはずだったが、芸術だけでは満たされない部分があったのである。

その満たされない部分を満たしてくれるのが何かベンは気付いていた。ベンが弱り果てた時も、金銭的な関係からではなく、近くに居てくれる人、近くに居て欲しい人とは誰であろうか?ベンはそう考えたに違いない。

ベンは家族という理想を他の多くの人々と共有するのを拒否して生きているかに見える。

しかし、ベンは家族という理想像を拒否しながら、内面では(見えない心の中では)肯定しているのである。

ベンはマットに、ベンとマットとゾーイの3人でのアメリカの旅を申し出る。ベンはいくつかの口実を作ってマットを旅に誘い出す。コダックのフィルムの現像ができなくなる前に一緒に現像しにカンザスパーソンズに行こうだとか、マットの仕事の手伝いをするとか。

しかし、それはただの口実に過ぎない。ベンにとってマットの存在が重要なのだから。

ベンは芸術家としての孤高さを最期まで生き抜くと同時に、ベン自身が捨てた家族という理想像を生きようとした。ベンの行為は矛盾している。

それは存在しているかのようで存在していなく、存在していないかのようにして存在しているものである。そう、すべては曖昧なのである。その曖昧なものに、明確なレッテルを貼ろうとする時に、齟齬が生じてしまうのではないか?すべては緩やかに存在しているのだから。

性と暴力

映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす(原題:The Postman Always Rings Twice)」を観た。

この映画の元となっているのは1934年に出版されたジェームス・M・ケインの同名小説で、この小説を元として同じタイトルの映画が、この1981年制作の作品以外にも他に3つ(1939年、1942年、1946年)ある。

この映画はアメリカ映画で、フランクとコーラという2人の男女の愛憎劇を描いたクライム・サスペンス・ドラマといったものである。

ガソリンスタンドとレストランを経営するニック・パパダキスとコーラ・パパダキスの元に通りすがりのフランクという男がやって来る。フランクはニックがいない時にコーラを強引に迫りコーラと関係を持つ。

コーラはそのうちにニックを殺してフランクと共に生活するという道を選ぶ。ニックを事故に見せかけて殺したフランクとコーラは愛し合いつつ、憎しみながら映画のラストのコーラの事故死による2人の訣別まで過ごすのだった。

この映画で印象的なのはセックスと暴力の描写とその関係である。この映画では何度もセックスシーンが描かれる。そしてそのセックスシーンは暴力的な状況から引き起こされるのである。

この映画では暴力とセックスが類似するものとして描かれている。“穏やかに見つめ合う2人が、次第にセックスへと流れ込む”という描写はこの映画の中ではあまり見られない。

ほとんどのセックスは相手を無理に抑え込んでセックスしようとする男フランクに抵抗する女コーラという前提から生じる。つまり男の方が強引に女を抑え込んでセックスするのである。暴力的なセックスがここに見られる。

フランクとコーラはエロスとタナトスにより動かされているような人たちである。性欲と破壊的欲求(つまり暴力)に支配されているのがフランクとコーラなのである。

コーラの夫ニック・パパダキスは決して人間的魅力に満ちた優しさの溢れる男ではなかったかもしれないが、この映画ではニックはあまりにも哀れである。

ニックはギリシャからの移民でこうぼやく。「この国にはチャンスはあるが、心がない」「皆外国人を馬鹿にする」と。

アメリカは移民の国である。コロンブスによるアメリカ大陸発見に端を発して、ヨーロッパの国々からアメリカ大陸へ、人々の入植が始まる。15世紀からアメリカ大陸への入植が行われ、黒人奴隷の貿易も17世紀ころから既に始まっていた。

アメリカはネイティヴ・アメリカンを殺して土地を奪うことにより生まれた国である。移民が移民を馬鹿にするのがアメリカなのである。少なくともこの映画では。移民として差別したり、ネイティヴ・アメリカンを殺すのはアメリカのご都合主義なのだろう。