フラワー・ムーヴメントの名残り

映画「ギャンブラー(原題:McCabe&Mrs.Miller)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画で、開拓時代のカナダを描いた、ロバート・アルトマン監督による作品である。

この映画の原題にある通り、この映画の主要人物はジョン・マッケーブとミラーという男女2人である。ジョン・マッケーブは酒場の主人で、ミラーは売春宿の主人である。

映画はジョン・マッケーブが鉱山を生業としている人々が元となっている街に到着するところから始まる。

最初この町にはシーハンという宿と酒場の経営者がいたが、ジョン・マッケーブはシーハンの店で賭博をして金を儲けて自分の酒場を作る。そして酒場のすぐ近くに売春テントを建てる。ジョン・マッケーブは酒と女で金を稼ごうとするのである。

そこに現れるのがミラーである。ミラーは無教養なジョン・マッケーブと違い教養を持つ女性として描かれる。教養を持つといっても大学で教えている教養といったような教養ではなく、洗練された都会的な常識を持つといったような意味で考えるのがいいと思われる。

ジョン・マッケーブはミラーが好きになるのだが、ミラーの方はジョン・マッケーブを1人の売春相手となる客としてしか見ていない。教養に憧れるミラーにとって、ジョン・マッケーブは魅力的には映らないのである。

何故か?ジョン・マッケーブは教養を欠くから。しかもこの町は山中の田舎だからである。ミリーは自分の夢を語る。「私は将来サンフランシスコに住むの」と。

カナダ北西部の小さな鉱山の町とサンフランシスコでは大きな差がある。サンフランシスコは暖かく都会で洗練されている。ミラーは洗練された街に憧れる。

この映画はカナダのブリティッシュ・コロンビア州の山の中に町のセットを作り、そのセットを使って撮影されている。カナダの山の中の小さな町。しかも100年前(1871年頃)の町である。この映画のセットは都会的な洗練とは真逆の所にある。サンフランシスコとこの町を比べてみればすぐにわかるだろう。この町の存在自体が前近代的で変化から逃避しているような点があることに。

1969年はフラワー・ムーヴメントが終わった年であるといわれている(ギャンブラーは1971年の映画。この映画には、フラワー・ムーヴメントの名残りが見られる)。フラワー・ムーヴメントとは、現代の社会の在り方に反抗をした若者たちが中心となって起こした運動だった。

その時代を描いた映画にはヒッピーたちが拓いた町に住む姿が描かれていることもある(ex.イージー・ライダー)。ヒッピーたちは文明社会を文明社会の中で糾弾した。この映画のセットの在り方は、そのヒッピーたちの在り方と似ている。この映画のセットも自給自足ができる町を売り物にしていると特典映像で売り物にしている。

支配欲

映画「ワイルド・パーティー(原題:Beyond the Valley of the Dolls)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、ショー・ビジネス界の若者たちの混沌とした日常を描いた映画である。

この映画の中心となるのは3人組の女性バンドとそのマネージャーである。ケリー、ペット、ケイシーから成る3人組の女性バンドと、そのマネージャーのハリスは音楽の世界で成功するために各地を公演して廻っていた。

そんな時バンドのヴォーカル・ギターであるケリーの叔母が100万ドルを遺産として受け取ったとの知らせが、ケリーの元に届く。ケリーは自らの亡き母が貰うはずだった遺産の相続のために、叔母スーザンの元に行く。

そのスーザンはショー・ビジネスで仕事をする人物で、ロニー・バーゼルという男と繋がりがあった。ロニー・バーゼルはZマンとも呼ばれる男装者で、業界の仕掛け人であった。そのコネを生かしてケリーとペット、ケイシーは音楽業界で成功をおさめていく。

しかしその成功に反するかのように、マネージャーのハリスは心傷ついていくのだった。ハリスはケリーを愛していた。時はフリー・セックスの時代だったが、ハリスはケリーという一人の女性を求めていた。お互いに一対一で付き合って生きていくことをハリスは望んでいた。

この2人は最後には結ばれることになるのだが、この物語の背景となるショー・ビジネス界の結末はハッピー・エンドではない。

ロニーは男装者であると書いたが、ロニーは映画中男性として振る舞っているが、実は体も心も女性である。ロニーはランスという美青年を愛するのだが、その愛は残酷にも踏みにじられる。

ロニーは自らの権力を使い、ランスを自らの愛のしもべにしようとするのだが、ランスに「この醜い女め!!」とののしられる。ロニーはその言葉に激怒しランスの首を自宅にあった“エクスカリバー”で切り落とす。

ロニーはランス(たち)変装ごっこをする。「自らはスーパー・ウーマン役だから私が一番美しい。スーパー・ウーマンはすべての男が望むものだから」だと。つまり「変装してスーパー・ウーマンになった私は、スーパー・ウーマンだから私は世界一美しい」と言う。

確かにロニーの観念の世界でならばそうなのかもしれないが、実際肉体の方は観念の力ではどうともならないこともあるのである。

ランスに拒否されたロニーは暴走して自宅にいる人間たちを皆殺しにしようとする。観念的に最上級になったはずなのに、この私にひざまづかないランスたちなど死んでしまえばいいとロニーは暴走する。

この暴走はものすごくインパクトがある。性的に抑圧された女性のような男性のようなロニーという人間が行き場を失ってしまうのである。否、性的に抑圧されていたというよりは、観念の世界が壊されたと言うべきか?ロニーには、自らの世界の拒否の後の行き場が残念ながらなかったのである。

権力に都合の良い口実

映画「キャッチ22(原題:Catch-22)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、第二次世界大戦と思われる時代背景を持ち、爆弾を落とす戦闘機のアメリカ軍のパイロットの精神状態を描いた作品である。

映画中“キャッチ22”という用語の説明がされる。そこで示されるキャッチ22の意味とはこうだ。ある戦闘機(爆撃機)のパイロットがいる。パイロットは自分が精神を病んでいてもう爆撃機には乗りたくないと言っている。そして軍に、自分はもう精神的に病んでいて気が狂っているから爆撃機には乗れないと訴える。すると軍からはこういう返事が来る。「飛行の免除を願うことは精神的に病んでいないことの証拠だ。だから出撃免除にはできない」と。

つまりこの場合軍は、爆撃にすすんで出る者は異常者で、爆撃に出ない選択をする者こそ正常だというのである。つまり軍が自ら軍の命令を快諾する者は病的であるとすんなり認めるのである。

しかし軍は自国の国民に国を守るために戦うことを推奨する。軍にとって国のために戦ってくれる兵士は重要な必需品(人ではない)である。人を品と思っているとは言い過ぎかもしれない。

仮に軍は人を物だとせず、人を権利を持つ存在だと認めているとしよう。軍はそこで国民を勧誘する際に「軍の兵士は異常です」とは言わないだろう。「軍人は精神的異常者の集まりですよ」と言ったところで誰も軍には加わろうと思わないだろう。

しかし、いざ軍人となってしまうと話は別なのである。「君たちは異常者だ」と軍は平気で国民(軍人となった)に言う。一旦国民を取り込んで軍人にしてしまえば後は軍法会議を脅しに使って執拗に軍人たちを戦地に仕向けるのである。

特に過去の戦争ではそのような体制が整っていたのだろう。否、現在でも戦闘兵に対してはそのような態度がとられているのかもしれない。

普通の人間なら、一度戦場に出ただけでその恐怖に打ちのめされてしまう。しかし彼らは軍を出ようとしない。それはキャッチ22のような仕組みを使って軍が兵士たちを縛っているからであろう。

例えば、その縛りの例としてアメリカ兵たちの兵士になる理由がある。貧しいアメリカ人は大学へ行きたい。大学を出た方がより好条件の職場に就けるからだ。大学へ行く金を稼ぐには軍人になるのが手っ取り早い。

よって貧しいアメリカ人の若者は軍隊に入隊して学費を稼ごうとする。すると、軍は“キャッチ22”のような口実、この場合“貧困から抜け出したければ命を危険にさらして国に奉仕せよ”を使う。「キャッチ22」も「大学へ行くための従軍」も軍隊に都合の良い口実にしかすぎないのである。

世俗を捨てて北で生きる

映画「ファイブ・イージー・ピーセズ(原題:Five Easy Pieces)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、ある一人のアメリカ上流階級出身の青年の心の葛藤を描いた映画である。

映画のラストで主人公ボビー(=ロバート)は、自分の所有物をすべて捨てて北へ向かうトラックに、ヒッチハイクのようなことをして乗って旅立って行く所が、ジョン・クロカワーの「荒野へ」という本と、その映画化としてのアメリカ映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を思わせる。

クロカワーの「荒野へ」とその映画版の「イントゥ・ザ・ワイルド」という一つの物語と、この「ファイブ・イージー・ピーセズ」は時系列的に前後関係にある。前が「ファイブ・イージー・ピーセズ」で、後が「荒野へ」である。

この2つの作品をとおしてみると一つの一貫した物語が見えてくるように思われる。

この2つの作品の時間経過を表すとこうだ。上流階級出身の青年が、その生後に持った特権を捨てて、上流階級とは異なる世界へ、もっと言うならこのクソな人間社会とは別の世界へ旅立って行くという時間経過だ。

「ファイブ・イージー・ピーセズ」の主人公は、上流階級の音楽家の家に生を受けるのだが、主人公ボビーは上流階級の社会を異常だと思っている。ゆえに自分自身を肯定的に見ることができない。

ボビーは心底上流階級が嫌いで、その生活が染みついている自分自身を愛することができない。人は自らを愛するように他者を愛するとよく言われる。自分から自分への愛を確認することにより、愛の在り方を知って、そこから「愛し方」を人は学ぶのである。

自分の中で愛を感じることができなければ、人はどう愛していいのかわからないのである。ボビーが映画中で愛するキャサリンという女性にボビーは「自分自身やその周りの環境を愛せない人は、他人を幸せにすることはできない」と交際を拒否される。

その後ボビーは死の間際で俳人のようになって何の反応もしない父にこう語りかける。「僕がいるとそこが悪くなる」と。ボビーはきっとどんな場所に居てもその場所の悪さが見えてしまうような鋭い視線を持っているのだろう。だからボビーにとって上流階級だけでなく社会そのものが、所属するのにあたらないものなのだろう。

人間社会のどの場所に居ても居心地が悪い。それがボビーの持つ本音であり、それを修正することはボビーの若さではまだ無理なのである。なぜならボビーは“どこかに住みやすい場所がある”という信念を生きているからである。

どこに居てもその場所の欠点が見えてしまい、心地悪い。そんなボビーが目指したのは“北”だったのである。つまりボビーは人間を見限ったのだろう。

映像の説得力

映画「マッシュ(原題:M*A*S*H)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画であり、1950年から1953年の間に起こった朝鮮戦争を背景とした軍医たちを中心とした物語である。

この映画は、朝鮮戦争のアメリカ軍の負傷兵が担ぎ込まれてくるマッシュ4077という移動米軍外科病院の軍医であるデューク・フォレストとホークアイ・ピアスそしてジョン・マッキンタイアたちが繰り広げるどんちゃん騒ぎを描いている。

ちなみにマッシュとは英語表記ではM.A.S.H.でMobile Army Surgical Hospitalの略であり、これは前述の移動野外病院を指す。

映画中に戦場で士気高揚のため兵士たちに映画を見せているが、タイトルが呼び出されるだけで映画の映像は流れない。映画のラストでナレーションがこう告げる。「今回上映する映画はマッシュです」。映画の外にあるものが、映画の中に存在する瞬間である。

映画は通常映画の中で語られない。この映画の中で観客が今観ている映画が示されることはない。しかしこの映画は違う。この映画では映画の中で、映画自身について言及されるのである。この時に映画を観ている人間は、映画が事実ではないことに改めて気付かされるのである。

「この映画は事実ではなくて映画という作り物であります」。なぜ人はこの表現に“はっ”とするのだろうか?それはきっと映画を観る人が、映像の説得力に負けているからであろう。人間はつぎはぎの映像に弱いのである。(つぎはぎではなくて“リアルタイム”で流れる映像を観ると、人はそれを現実であると、つぎはぎの映像よりも本当であると思い込み易いだろう。)

映画中、負傷兵の手術をする映像が何度も繰り返し登場する。これは映画であるから、この負傷も血も作り物であるだろうと人は予想することはできる。しかしそれはあまりにもリアルに作り込んであるから実際に人が負傷しているのではないかと考えてしまう。

つまり人は自身の予想を作り物のリアルさゆえに信じることができないのである。実際に負傷兵を見たことがない人も、映画の映像は実際だと思えるほどリアルであり、強い説得力持つのではないだろうか?

映像というにせものの作り出す現実に人は簡単に幸福してしまうのである。映画とは映像のトリックの集まりである。特殊メイクというリアルさの陳列である。

映画の映像はリアルであればあるほど評価されて、それにより映画はどんどん真実に近いにせものという逆説に満ちた表現手段となっていく。映画の前に人は一度はひれ伏すのである。

古い共同体としてのアイルランドと新しい共同体であるアメリカ

映画「ブルックリン(原題:Brooklyn)」を観た。

この映画は2015年のアイルランド・イギリス・カナダ合作映画で、一人の移民の女性がアメリカ人としてのアイデンティティを得るまでの物語である。

この映画の主人公はエイリシュというアイルランドを移住前の国とする若い20代くらいの女性である。エイリシュは苗字をレイシーという。エイリシュ・レイシーがこの映画に登場する彼女の最初の名前である。

この映画の中でエイリシュはアメリカでイタリア系移民のトニー・フィオレロと結婚する。そしてエイリシュは、エイリシュ・フィオレロとなる。エイリシュ・レイシーからエイリシュ・フィオレロへ。この名前の変更が彼女の成長を表している。

映画の舞台は1940年代後半から1950年代の前半だと思われる。アイルランドでは不景気のためエイリシュにはしっかりとした職がなかった。しかもアイルランドは古くからの街である。

この場合の“古い”とはどういう意味か?“古い”というのは街中の人が街中の人のことについてよく知っているということである。そう街の人が、街の人について熟知しているのである。悪い所も、良い所も。

その点でアメリカはアイルランドとは大きく異なる。アメリカの人間関係は良く言えば新しく過去がない、悪く言えばお互いが無関心、疎遠である。この点でアメリカはアイルランドと異なっている。

エイリシュがアメリカの“新しさ”とアイルランドの“古さ”に気付く瞬間がある。それはアイルランド時代の近所の年老いた女が、エイリシュに「私はお前が夫を持っていながら、アメリカ人の夫を置き去りにして、アイルランドの身持ちのいい男と仲良くしているのを知っている」と告げた後である。

エイリシュはこの老婆(ミス・ケリー)の言葉によって自分が今身を傾けつつあったアイルランドという“古い街”の粘着質な悪い部分に気付くのである。

エイリシュはミス・ケリーという無思考な老婆にこう言い放つ。「私はエイリシュ・レイシーではない!!私はエイリシュ・フィオレロだ!!」と。エイリシュは自分の帰属先をアイルランドではなくアメリカであると言うのである。私は人の噂話を陰でひそひそとしているような場所では暮らせないと。

しかしこうも言える。他人についてひそひそ話をしているような場所は共同体的な結束が強く、社会の包容力もその方が良く、弱者やはぐれ者を生み出さないのだと。アメリカでは失業者は路上にあぶりだされる。アイルランドでろくな職がないエイリシュも家族とミス・ケリーの店に包摂されていた。

しかし、誰が陰口を囁かれるような共同体を好むのだろうか?人間が生きていくために共同体は必要なのだろう。しかし“古い”ままの共同体など一体誰のために存在するのだろうか?「意地悪い共同」は変化すべきである。

囚人の権利

映画「ニューヨーク1997(原題:Escape from New York)」を観た。

この映画は1981年のアメリカ映画で、1981年にとっての近未来である1997年のニューヨークのマンハッタン島を描いたSF映画である。

1988年アメリカは犯罪率が4倍になり、マンハッタン島の周囲に高さ12メートルの壁を張り巡らし、マンハッタン島そのものを刑務所としたものが存在するというのがこの映画の設定である。そしてその島にアメリカ大統領が乗った飛行機が墜落するのがこの映画の始まりである。

アメリカ大統領は中国とソ連とのサミットに向かう途中、アメリカ解放舞台の女性にエア・フォース・ワン(大統領専用機)をハイジャック(のっとり)される。女性は言う。「アメリカ大統領をアメリカが作った刑務所の中に入れる。アメリカという国は帝国主義で、人種差別の国家である。その国の大統領を刑務所の中に入れるのだ!!」と。

囚人が暮らすマンハッタン島にもアメリカ合衆国に反抗する地下組織が存在する。黒人のリーダー、デュークが先頭となる暴力的集団である。デュークたちは刑務所の外に出ることを願っている。デュークたちはアメリカ大統領を外への脱出の切符として使おうとする。

そんな中アメリカ政府からの大統領救出の命令を課せられた囚人スネーク・プリスキンがたった一人でマンハッタン島に侵入する。スネークはある罪により、ニューヨークのマンハッタン島という刑務所、つまり大統領が捕らえられたデュークという黒人男性が仕切る場所へ投獄される予定だったのである。

政府は投獄予定だった囚人を大統領救出のために使用したのである。それはただ単に使い捨てのような役回りである。そうスネークは大統領救出に出発する直前に体に時限式の自爆的な物質を入れられることになる。

「22時間以内に大統領を救出しろ。しなければお前は体の中にある物質により死ぬ」と、政府の刑務所の管理代表者であるボブ・ホークは言う。

映画の最後自らの命と大統領を救ったスネークは大統領に言う。「国家のために犠牲になった者たちへの言葉は?」。大統領は感謝の意を表すがその直後にこう言う。「テレビに私が映るのは2分後か?」。

そう大統領にとっては国家のために犠牲となった命など、テレビというものの前にはただの些細な用事に過ぎないのである。映画のラスト、大統領がテレビ放送向けに流す核エネルギーの安全性を示す情報に代わって、この事件中に死んだキャピーというタクシー運転手の好きな音楽が流れる。大統領のギョッとした表情に失笑がこぼれるだろう。