少女は無垢ではないのか?

映画「マジカル・ガール(原題:Magical Girl)」を観た。

この映画は2014年のスペイン映画であり、セックスと暴力とドラッグと日本製アニメが素材として登場する映画である。

この映画の出来事の発端となるのは、アリシアという白血病の余命いくばくもない少女の願いを勘違いした父ルイスの暴走である。

12歳の少女アリシアは自分の願い事を本に書いている。その願い事とは①誰にでもなれること②「魔法少女ゆきこ」のコスプレ衣装を手に入れること③13歳になることである。

父親はアリシアの書いた言葉を見て、その中で叶えられそうな願い事である「魔法少女ゆきこ」のコスプレ衣装を手に入れようとする。

ここで父の勘違いがある。アリシアの願い事とは本に書いてあることとは違ったのである。アリシアの願い事は父親と一緒にいることだったのである。

そうとは知らず勘違いした父親は、アリシアが本の中で書いている願い事の一つである「魔法少女ゆきこ」の衣装をネット販売で手に入れようとする。

しかし問題がある。その衣装が高額であること、そして父ルイスは失業中なのである。お金がない父親は強盗しようとするが、強盗の瞬間に階上から降りかかってきた嘔吐物により実行を断念し、何とその嘔吐の主とセックスすることになる。そのセックスの相手には夫がいる。

セックスの相手バルバラはルイスに「不倫したことを夫にばらされたくなかったら金をよこせ!!」と脅される。バルバラは夫アルフレドを裏切った事実を知られたくないがために急の仕事をして要求された金額を払おうとする。

バルバラは倒錯的な暴力的な性的プレイに身を投じて、金を得ると同時に、そのプレイの暴力のために瀕死の状態になってしまう。

その状態を知ったバルバラのことが好きな教師ダミアンが、バルバラに頼まれて復讐をする。ダミアンは10年刑務所にいたので、その中で出会った人に助けてもらい銃を入手して、父ルイスと娘アリシアと巻き添えの2名を殺す。

どうしてこのような悲劇が起こってしまったのだろうか?不景気な世の中が悪いのか?それとも父親の不理解のせいか?ここでは後者に注目したい。

もし父親が娘との時間を長くとることができたなら、このような悲劇は起こらなかったのだと考えられる。父と娘のコミュニケーションの不足がこのような悲劇を生じさせてしまったのではないだろうか?

バルバラの教師だったダミアンはしかしなぜアリシアを殺したのだろうか?バルバラを脅していたのはルイスだったのに。

アリシア白血病の純真無垢な少女ではないのだろうか?ダミアンは父を殺されたショックやその後のアリシアの経済的不足を考えてアリシアを殺したのか?それともコスプレをしていたアリシアに俗っぽさへの嫌悪感を覚えたせいだろうか?

「自由」は他の価値より優先される

映画「エクス・マキナ(原題:Ex Machina)」を観た。

この映画は2015年のイギリスのSFスリラー映画で、この映画には人工知能を持った人型のロボットが登場する。

主人公は、インターネットの検索エンジンの会社「ブルーブック」に勤めるケイレブ・スミスという社員である。ケイレブはある日抽選という形式で「ブルーブック」社の社長の別荘に招待される。

別荘は大自然の中にあるのだが、社長ネイサンは別荘であるものを制作していた。その制作していたものとは、人工知能を持つ人型ロボットである。

ケイレブが別荘に留まる期間は一週間である。その期間にケイレブは人工知能を持つロボットのエヴァと1日ごとに会話を重ねる。

その会話の目的は、表面上はケイレブが人工知能を持つロボットと会話して、人工知能を持つロボットを人間と判断するか、それともロボットとして判断するかである。

表面上の目的と言ったが、ネイサンのケイレブとエヴァとの会話の目的は別の所にあったのである。

エヴァは施設から出してもらえない。エヴァはしきりに施設を出たがっている。そこにエヴァに脱出のチャンスが来る。それはケイレブを誘惑して同情心を勝ち取り、脱出の手助けをさせることである。

ネイサンはエヴァが施設の外に出たがるのを重々承知していたし、それにケイレブが手助けをするかどうかが、ネイサンの関心だったのである。

ネイサンは誘惑者としてのエヴァの誕生を、人工知能を人間と認めるというテストの答えとしたのである。

すべてはネイサンの計画通りに運んでいく。しかし予想外の出来事が生じて、ネイサンはエヴァの脱出を見逃す(ネイサンはエヴァに殺される)ことになる。

ネイサンの予想外の出来事とは何か?それはケイレブがネイサンの予想を超える働きをしたことであり、同時にエヴァ以前に存在していたロボットの手助けという予想外の出来事があったからである。

ケイレブもエヴァ以前の人型ロボットもネイサンに侮られていた。ネイサンはきっと頭の良い人間で、他人のおおかたの行動は予想がつくのだろうし、それを外す機会はあまりなかったのであろう。なんせAIを作り出した人間なのだから。

しかし、予想不可能性は存在したのである。ネイサンの予想不可能性はどこから生じたのか?それはネイサンが人工知能と人間の自由への渇望を見過ごしていた点にあるのではないだろうか?

「知能を持ち始めたものは、どんなものであろうと自由を求めるのである」というこの映画の結末にある前提は、私たちに非常に心地よいものと思えるのである。そしてラストでガラスに窓でもがくケイレブの姿に私たちはゾッとするのである。

”愛は盲目”つまり恋愛中の人は非合理的になるということ

映画「ロブスター(原題:The Lobster)」を観た。

この映画は2015年のギリシア・フランス・アイルランド・オランダ・イギリス合作のSF恋愛映画である。この映画の世界は、恋人がいなくて45日以上経つと、動物にされてしまうという世界で、この映画の主人公であるデヴィッドという中年男性が、11年11ヶ月続いたパートナーとの交際を交際相手から断たれたところでこの映画は始まる。

この映画では「絶対恋愛」を体制が説き実践する。体制があるところに必ず反体制は存在する。そうつまり「絶対恋愛」体制に反対する「恋愛、セックス禁止」組織が存在するのである。

主人公のデヴィッドは当初は体制の側で体制の作った規則に則って生きようとする。しかし、デヴィッドはある出来事が原因で、反体制の組織で生きてくことになる。

ある出来事とは、こうだ。デヴィッドにはすでに体制により犬にされた兄がいた。デヴィッドは犬となった兄を連れて行動しているのだが、その犬となった兄が交際中の相手に殺されてしまう。

それがショックでデヴィッドは、その交際相手を麻酔銃で眠らせ、動物してしまう。その出来事のせいで、もうデヴィッドは体制の側を見限る。「絶対恋愛」を押し付け、その上人々を精神的不安に追い込んでいる体制などの中にはもういられないのである。

しかし、反体制の組織にも問題があった。それは「恋愛、セックス禁止」し、その禁止のために暴力が用いられるということであった。

デヴィッドは反体制の組織の中にある女性と恋愛関係になる。するとそれを知った反体制組織の女性リーダーは、2人の間を引き裂こうとする。デヴィッドは生きたまま土の中に埋まり、相手の女性は手術で盲目になってしまう。

デヴィッドと彼女との共通点はお互いに近視であるということだった。彼女が盲目になるとその共通点が消えてしまう。しかしデヴィッドはこう考えるに至る。「2人が盲目になってしまえば共通点ができる」。

映画のラストでデヴィッドは盲目になることを決意したかのように映画は終わる。恋は盲目(Love is blind)という言葉がある。これは恋をすると人は非合理的な行動をとってしまうようになるという意味だろうが、映画の最後に2人は文字通り、身体的にも“愛は盲目”になってしまうのである。

生存のためには、どちらか片方が視力を使って相手の補助をして生き抜いていくのが合理的な考え方だと思われるが、恋をしている2人にはその判断ができない。実生活上の不都合よりも恋愛上の不都合(この場合、2人の共通点がないこと)が優先されてしまうのである。

恋の中にいると人は非合理的になる。しかし、人が合理的でいられるのは人生のどれだけの機会なのだろうか?そう考えてしまう。

アメリカが失ったもの

映画「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ(原題:Where to Invate Next)」を観た。

この映画は、マイケル・ムーアが監督を務めた2015年のアメリカのドキュメンタリー映画である。

マイケル・ムーアはアメリカ国民である。そしてマイケル・ムーアの住むアメリカという国は世界を支配する帝国である。アメリカは機会を見計らっては、世界の他の国々を侵略してばかりいる。

しかし、その侵略がうまくいっていたのは、第二次世界大戦までで、それ以降のアメリカが起こした(介入した)戦争ではアメリカは勝利を収めていない。勝利は収めていないもののアメリカは依然として世界ナンバー1の軍事大国である。

映画はマイケル・ムーア監督がアメリカのペンタゴン(国防総省)に呼ばれるところから始まる。アメリカの軍関係者がマイケル・ムーアを呼び出してどうしたら戦争に勝てるかマイケル・ムーアに聞くのである。

マイケル・ムーアは言う。「兵士たちに休みを与えろ」と。そしてマイケル・ムーアは、自身がアメリカの代表として、アメリカ以外の国に侵略して、その行った先の国の良い所を奪ってしまおうと立ち上がるのである。

マイケル・ムーアは、アメリカを良い国にしようとするのであるが、結局行く先々の国の良い所はアメリカを発祥としていることに気付くのが、この映画のオチである。

マイケル・ムーアが訪ねる国は、イタリア、フランス、フィンランドスロベニア、ドイツ、ポルトガルノルウェーチュニジアアイスランドである。

マイケル・ムーアが訪ねるこれらの国では、アメリカと違って社会保障がしっかりしていたり、女性の権利が確立されていたりする。年に30~35日の有給休暇や、健康に気を配った学校給食、宿題がない学校、ただで通える大学、上司が仕事の時間外に部下に介入しないこと、タダの医療費、労働者の団結、死刑の廃止、開放的な刑務所、妊娠中絶の合法、女性の大統領、女性経営者による金融危機からの救済などなど。アメリカ以外の国にはアメリカが見習うべき所が沢山あるのである。そしてそのアメリカが見習うべき所とは、アメリカが元々生み出したものなのである。

マイケル・ムーアが見たから、マイケル・ムーアと同じような考えをした人が見たら、アメリカの現状はこのように変えるべきだと感じるのだろうか?

今現在のアメリカの在り方に凝り固まってしまう人もいるのだろう。そんな人から見たらマイケル・ムーアの言うことはただの嘘だ!!となってしまうのであろう。

マイケル・ムーアが勧める社会とは、民主主義で社会保障がしっかりしている国である。自由であるためにも民主主義と社会保障は必要なのだと映画を観る人は考えるだろう。

今、その相手を愛している証拠

映画「さざなみ(原題:45 Years)」を観た。

この映画は2015年のイギリス映画で、結婚して45年間連れ添ってきた熟年夫婦の老人2人を描いた映画であり、男女の結婚観のすれ違いを描いた映画である。

ケイト・マーサーとジェフ・マーサーの夫婦は、もうすぐ結婚45周年のパーティーを迎えようとしている。そこにこんなニュースが2人の間に割り込む。ジェフの昔の恋人カチャがスイスの高い山の氷河の中から見つかったとつづる手紙がそれである。

この手紙をきっかけに夫婦の間に違和感のようなものが生じる。ジェフは昔の恋人カチャとの思い出について、ケイトに話す。すると話が回数を重ねるごとにケイトはカチャがそして夫ジェフが気に入らなくなる。夫は昔の恋人について熱心になるが、妻はそれが受け入れられないのである。

ある時ケイトとジェフは街へ出かける。そこでリーナという女性とその家族に彼女たちは会う。リーナはケイトに言う。「私と夫は結婚記念パーティーの時に離婚の危機を迎えたわ。でも夫が結婚パーティーで泣いたから許してあげたの。男って女は今を生きているけど、男の方は過去の遺産にすがりつくものよね。今が大切ってことを教えてあげなきゃ」と。ケイトは「ジェフは泣かないと思うわ」と言い返すだけである。

男は過去の恋愛の相手について語る時、その女性に対する愛情があると知らず知らずに話しているようである。もう終わった話ならいいが、何度も執拗に話されている女はたまったものではない。

その恋人への思いは自分への嫌がらせなのか?今に満足していないから過去の恋人のことを語るのではないか?女はどんどん疑心暗鬼になってくる。ここに男と女の結婚観の違いがある。

男にとって結婚とは無償の愛のものである。つまり一度結婚してしまえば、愛は当たり前に与えられるものと思っている。しかし女にとって結婚とは何か?それはきっと日々の愛の積み重ねである。

女にとって愛の供給元とは相手の愛情を常に感じられることである。つまりそれは永遠に続く無償の愛とは違う、愛されているという証拠の積み重ねのようなものなのである。

映画はジェフとケイトの45周年パーティーのダンスのシーンで幕を閉じる。そこで流れるのはムーディー・ブルースというバンドの“ゴー・ナウ”という曲である。その曲の歌詞はこうである。

「僕はさよならって言ったから、君は今すぐ(どこかへ)行きなよ」。訣別の曲である。45周年パーティーでジェフはリーナの言ったリーナの夫のようにスピーチの最中に泣き出してケイトに愛していると許しを請う。しかし、映画の最後の曲は“ゴー・ナウ”である。2人の気持ちはすれ違うのである。

米ソ冷戦とハリウッド

映画「ヘイル、シーザー!(原題:Hail,Caesar!)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画であり、1950年代のアメリカのハリウッドの映画界を描いた映画である。映画の内容はコメディである。又、映画の背景には米ソ冷戦、資本主義と共産主義が窺われる。

映画の主人公は映画の制作管理部の部長であるエディ・マニックスという男の子と女の子の子供を持ち妻と暮らす男である。エディは部長として数々の映画の製作に関わっている。その数々の映画の内には、ベアード・ウッドロックという人気スターもいた。

とある日、映画の撮影の最中にベアードは誘拐される。ベアードを誘拐したのは、映画の脚本家たちであった。脚本家たちは誘拐者であるがベアードと仲良く語らう。そして脚本家たちは、10万ドルの身代金を映画会社キャピトル・ピクチャーズ・スタジオのマニックスの元へ請求する。

10万ドルを受け取った誘拐者である脚本家たちは、共産主義者でありロシアと通じていた。脚本家とベアードが集う邸宅は海沿いにあり、何とそこにソ連の潜水艦がハリウッドの大物スターを迎えに来た。

そして10万ドルはその俳優に渡されるが、そのスターについて行きたがった犬をキャッチするために、10万ドルの鞄は海の底に沈む(共産主義者にはお金という資本というものの根本のようなものは必要ない?)。ベアードはその間にスター俳優仲間のボビー・ドイルに助けられる。

一方、エディ・マニックスは、映画界を管理する仕事をするか、今より好条件で仕事ができるロッキード社に入社するか迷っていた。ロッキード社とはアメリカ軍の軍用機を作っている会社であり、ロッキード社のスカウトマン、ガタヒーは水爆の写真を持っていて、ロッキード社の軍用機が水爆を積めこめるようなものであることを臭わせる。

誘拐から解放されたベアードは脚本家たちに吹き込まれた共産主義的な考え方(資本主義は格差の維持をするものだ!!)をエディに伝える。するとエディはベアードの顔をひっぱたきながらこう言う。

「お前はなぜそんなことを言っているのだ!!目をさませ!!今からお前の本当の思いをセリフとして言ってこい!!」と。ベアードは制作中の映画のラスト・シーンの言葉を言おうとするが、うまく言うことができない。その映画とはキリストに関する物語である。ベアードはキリストを讃えるセリフを言うことができない。

エディは映画の最後ロッキード社のからの誘いをきっぱりと断る。エディはイデオロギーの戦いに加わるよりも、映画という真理を語る物語を作っていくことを決意したのである。

ベアードが映画の最後のセリフを言うことができないのは、ベアードの中に資本主義を生み出したキリスト教の考え(プロテスタント)に対するアンチが脚本家たちによって植え付けられたからであろう。

戦争の犠牲

映画「最前線物語(原題:The Big Red One)」を観た。

この映画は1980年のアメリカ映画で、第一次世界大戦の終わりから第二次世界大戦の終わりまでを描いた戦争映画である。

この映画の原題である“The Big Red One”とは、アメリカ軍の第一歩兵師団を指す言葉であり、この映画の中心人物である第一歩兵師団の軍曹であるポッサム軍曹とその4人の部下、グリフ・ジョンスン、ピンチ・ザブはこの第一歩兵師団の隊員である。

ポッサム軍曹率いる第一歩兵師団は、第二次世界大戦で、北アフリカ、イタリア、フランス、ベルギー、ドイツ、チェコスロバキアという土地で戦闘に参加する。この映画の最後の戦地は、チェコスロバキアのテレジーンであると思われる(テレジーンがあるのは現在のチェコである。1992年までチェコスロバキアという国が存在したが、その後チェコスロバキアチェコ共和国スロバキアに分離した)。

テレジーンには第二次世界大戦当時、テレジーン収容所と呼ばれるユダヤ人収容所が存在した。テレジーン収容所にはユダヤ人14万4000人が送られてきた。その4分の1である3万3000人が病気、飢え、過労、ドイツ兵による暴行や拷問や刑罰でテレジーンで亡くなり、8万8000人がアウシュビッツなどのユダヤ人虐殺を目的とした収容所で亡くなっている。

映画中テレジーンの焼却炉が出てくるが、その焼却炉の目的はテレジーンで亡くなった3万3000人のユダヤ人を焼却処分するための焼却炉である。

つまりテレジーンのユダヤ人たちはその劣悪な環境の中でガス室に送られるまでもなく、大量に殺されていたのである。

ポッサム軍曹はテレジーンの収容所で独りの少年を見つける。少年の喉には傷があり、そのせいか声は発さず、ポッサム軍曹の語りにも無口である。少年が何も話さないことが、この少年の置かれていた劣悪な環境を示しているようでもある。

ポッサム軍曹は言う。「君はユダヤ人か?ポーランド人?チェコ人?ロシア人?」。少年は相変わらずポッサム軍曹の問いかけには答えない。この問いかけに答えないこの少年は、どこの国の少年かはよくわからない。するとここに浮かび上がって来るのは“すべての戦争で被害を受けた子供たち”という言葉である。

テレジーンにはエルベ川とユーガー川の合流点に建築された要塞に由来する。ポッサム軍曹と少年は川の岸辺でオルゴールを鳴らし、少年はリンゴを食べる。川の流れは穏やかで美しい。水遊びにもってこいの川である。

しかし2人の背後にある看板にはチェコ語でこう書かれている。「水遊び禁止」。少年の身なりはボロボロ、そして汚れている。近くの川で洗えばいい?ダメだ。それは戦争が生んだ規則により禁止されているから。