感情移入しにくい暴力的な人物と感情移入しやすい非暴力的な人物

映画「ヘイトフル・エイト(原題:The Hateful Eight)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画であり、監督はクエンティン・タランティーノある。映画の舞台は南北戦争(1861-1865)のすぐ後のアメリカ合衆国である。

この映画の登場人物のメインとなる人々は、この映画のタイトル通りに8人登場する。そしてこの8人は北軍、南軍、ギャングのグループのどれかに属するのである。

この内、北軍に属するマーキス・ウォーレンという黒人男性はエイブラハム・リンカーンの手紙を持っている。しかしこの手紙が本物かどうかは明らかでない(多分偽物である)。

アメリカ南北戦争というのは、アメリカが文字通りに北軍と南軍に分かれて戦った戦争である。北軍と南軍の対立軸とは何か?それは奴隷制と、貿易である。

北軍奴隷制を必要とせず、産業の工業化のために流動性の高い人手を必要としていた。そして貿易は保護貿易を望んでいた。一方南軍は大規模プランテーションの経営のために黒人の奴隷を必要としており、そのプランテーションで作られた綿花を売るために自由貿易を望んでいた。

北軍の大統領として有名なのがエイブラハム・リンカーンであり、一方南軍の大統領がジェファーソン・デイヴィスである。

この南北戦争北軍勝利に終わり、法律上は黒人の自由が確立された。しかし実際は黒人への人種差別はこの戦争の後も、そして現在まで続くことになる。

この映画は、血みどろの映画である。女性は顔を必要以上に殴られ、男たちは口から、傷口から血を大量に吐き出す。そしてカービン銃によって人間の頭部は破壊され、脳髄がそこら中に飛び散る。

この映画の中で傷を負わない者など誰一人いない。

ワイオミング州のレッド・ロックの近くで起きるこの惨劇に同情の余地など残っていない。

例えば奴隷制の一番の被害者は黒人たちである。誰が何といおうとこの事実は変わらない。しかし、この映画に中に登場するマーキン・ウォーレンという黒人男性は非常に暴力的であり、映画の中で南軍の軍人だけでなくインディオを殺しまくったというセリフが出てくる。

この映画の登場人物には誰一人肩入れできる人物が登場しないのである。「いやそれは違う。この映画には女性が出てくるじゃないか。女性こそ純粋たる被害者ではないか!!!」。しかしこの映画の中では違うのである。

ディジー・ドメルグという女性も暴力的で粗野な女性でなかなか同情を許さない。ディジーは何度も顔を首吊り人ジョン・ルースに殴られる。その様子はとても酷い。

そこでディジーに同情しそうになるが、ディジーも暴力性を内部に秘めた女性なのである。

この映画のサブの登場人物には感情移入ができるかもしれない。なぜなら彼らは暴力によって殺された、純粋な非暴力的な人物に映るからである。

愛あるまなざしで描かれた絵は人の心を打つ

映画「リリーのすべて(原題:The Danish Girl)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ、イギリス、ドイツの合作映画で、映画の主人公は世界初の性別適合手術を受けた人物である。その人物はリリー・エルベである。

リリー・エルベとは自身の思う性別になるために、アイナー・ヴェイナーという男性として承認されていた人物が、自身を女性として主張するために付けた名前である。

アイナー・ヴェイナーをリリーと呼んだのは、モデルの仕事をしていたウラという人物である。このウラが性別適合手術の医者をリリー・エルベに紹介した人物でもある。

映画の舞台は1926年以降のヨーロッパで、リリー・エルベはデンマーク出身のデンマーク人である。

アイナー・ヴェイナーは風景画家として、妻であり人物画家であるゲルダ・ヴェイナーと暮らしている。ゲルダは人物画家のモデルの代役として夫アイナーに女装をさせて人物画を描く。

この時アイナーは自分の記憶が呼び起こされるのを感じる。アイナーの呼び起こされた記憶とは、自身の風景画の景色であるヴァイレでの記憶である。

アイナーは幼い頃から既に同性愛や女装に目覚めていた。子供のころハンス・アクスギルと過ごした日々、特にアイナーが女装をしてハンスとじゃれあっていた時の記憶が、アイナーの良き思い出として残っているのである。

アイナーは風景画を描く時、その幼い日々に感じた気持ちを思い起こしていたのであろう。そしてその風景画は世間からも評価を受ける。それはきっと風景画の中に世間の多くの人々が本物の愛を見つけたからだろう。

アイナー(後のリリー・アルべ)の妻ゲルダ・ヴェイナーは世間から評価される夫に嫉妬していた。ゲルダの描く人物は評価されなかったからだ。しかし、その後ゲルダの描く人物画が評価されることになる。

それは何故か?それはきっとその絵がアイナーの女性としての姿だったからである。そこには、アイナーの望んだ真の姿としてのリリー・エルベの姿があり、アイナーの風景画同様、ゲルダの描かれる対象への愛が真実だったから、世間から評価されたのであろう。

リリー・エルベというアイナーが望む姿がそこに描かれ、それを見つめるゲルダのまなざしには本当の愛があったのだろう。大衆そして画商とは画家の愛あるまなざしを直観して、そこに共感するのであろう。

リリー・エルベは映画の中で語る。神が私を女としたのであり、間違った体を医師が治すのだと。

リリー・エルベは周囲から特定の見方で見られる。それは人間誰もが同じである。個人としての人間は、複数の視線により成り立っているともいえるのである。リリー・エルベは女性として見られることを望み、生きた尊い命だったのである。

傲慢な理性

映画「サウルの息子(英題:Son of Saul、原題:Saul fia)」を観た。

この映画は2015年のハンガリー映画であり、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を描いた映画である。

この映画の主人公はナチス・ドイツによるユダヤ強制収容所で囚人ながら、送られて来たユダヤ人の同胞がガス室で殺された後を処理をするゾンダー・コマンドという囚人部隊の一員であるサウルという男である。

サウルはユダヤ人としてユダヤ強制収容所に連れて来られて、ユダヤ人殺害の補助的な役割を担っている。

ある日サウルはユダヤ人の死体の山の中から生き残っている少年がいるのを見る。その瞬間、サウルはその少年が自分の息子であると思う。そしてその少年を埋葬してやりたいという思いに駆られる。

ユダヤ人の正式な葬儀にはラビは欠かせない存在のようである(ラビはユダヤ教においての宗教的指導者のことである)。

サウルは映画の最中ずっとラビに自分の息子と思っている少年を埋葬してもらうように行動し続ける。

ナチスユダヤ人大量虐殺の標的となりながら、その虐殺の補助をし続けたゾンダー・コマンド。ユダヤ人大量虐殺の補助をしたユダヤ人。しかし、彼らはユダヤ人以外の何者でもなかった。

ゾンダー・コマンドも3ヶ月から1年周期で隊員たちが入れ替わっていた。つまり、その周期でゾンダー・コマンドは殺されて、新しく収容所に送られて来たユダヤ人の一部がゾンダー・コマンドになったのである。

自らが殺されるであろう場所で死体処理し続けるゾンダー・コマンドが正気を保つ方法はあったのだろうか?

正気を保つ方法として考えられるのが、反乱の企てや、死者の弔いだとこの映画では描かれている。そうこの映画ではユダヤ人ゾンダー・コマンドによる反乱と同時に、ゾンダー・コマンドによる弔いが描かれているのである。

映画中、反乱を企てる準備をしているゾンダー・コマンドがサウルはこう言う。「お前は死んだ者のことばかりにこだわっているが俺たちは生きている。お前も死んだ者のことなど忘れて反乱に参加しろ!!」。

反乱を企てるゾンダー・コマンドには、サウルの行動は非合理的で不可解なものに映るのである。

死体処理をして数ヶ月の命を生きるのか?その任期切れが来たらすぐに行動を起こすべきか?期限が切れるまで賢く生き延びて、期限を知ったら命の延命のために戦って生き残る。それがゾンダー・コマンドにとって一番合理的な生き方だったのである。

人が人を追い詰める時、その制限のタガは簡単に外れてしまう。人は人に対して過剰に振る舞う。自制心を知っているかのような傲慢な理性(ナチス・ドイツ)は、決して見逃してはならない。人はその存在を直視すべきである。

近代化が排除した同性婚

映画「キャロル(原題:Carol)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、テレーズ・べリベットとキャロル・エアードという2人の女性の恋愛を描いた映画である。映画の時代はアイゼンハワーが大統領に就任した1953年頃と思われる。時期はクリスマス前から新年へと進んで行く(アイゼンハワーが大統領に就任するのを祝って、テレーズの働いているデパートでは就任記念のセールをやっている。アイゼンハワーが大統領に就任したのは1953年の1月10日なので、もしかしたら、就任直前の1952年のクリスマス・シーズンが映画の舞台になっているのかもしれない)。

1950年代とはどのような時代だったのだろうか?この映画は女性同士の恋愛を描いているので、特に1950年代の同性愛者への待遇がいかなるものであったのかが気になるところである。そして男性同士の同性愛と女性同士の同性愛、それぞれへの待遇、また両性愛同士の待遇の共通点はいかなるものであったのだろうか?

ここで同性同士の結婚についてみてみたい。同性の結婚が法的に認められるのは2010年代に入ってからだと、各国の法整備をみてざっといえると思う。例えばオランダでは2000年に同性婚法が成立している。これが同性婚法の先駆の例である。

しかし、同性婚合法化への動きが活発になるのは2010年代だと言っていい。ポルトガルアイスランドデンマーク、フランス、イギリス、ルクセンブルク等の国の多くが2010年代に同性の結婚を合法化している。

では、同性の結婚が合法化されていない状態というのはどういった状況なのだろうか?簡単に言ってしまえば、同性での結婚は認めませんというのが同性婚合法化以前の全体の流れなのである。

同性婚を認めないというの事実が、同性婚したい人々の排除を生み出す一因となっているというのは確かなことである。「異性同士の結婚以外は排除する」というのが同性婚法成立以前の同性愛者への国家の態度表明なのである。

18世紀後半のイギリスから始まる近代化は、その国に住む人々に合理的な態度を押し付けて行った。産業化のためには家族があることが好ましく、父一人、母一人、複数の子供、そして祖父、祖母という家族の形が産業化した、つまり近代化した社会の好んだスタイルである。ここに同性婚の入り込む隙間はない。

同性愛は表舞台に立たないことが近代の社会には好ましいのである。同性婚などされてしまったら子供が生まれなくなるのだから。近代化という産業を中心とする社会の合理化のために犠牲になったのが同性愛者なのである。

一般的なスタイルの維持のために“異常”を吊るし上げろ!!これが近代国家の正体なのである。

現在同性愛者も異性愛者と同じように子供を持つカップルとして生活をしている。その姿は映画「キッズ・オールライト(原題:The Kids Are All Right )」(2010年、アメリカ)でレズビアンのカップルという姿で描かれている。

移民が移民を排除する

映画「天国の門(原題:Heaven’s Gate)」を観た。

この映画は1980年のアメリカ映画で監督はマイケル・チノミで、19世紀末から20世紀の初頭までの期間を描いた映画であり、映画の主題は、移民の対立と恋愛である。

この映画の中で描かれているアメリカでの移民の対立は実際にあった。ワイオミング州のジョンソン郡でのジョンソン郡戦争のことである。

アメリカは移民の国である。アメリカ大陸に移民よりも先に住んでいたのはアメリカ・インディオの人々である。そこにヨーロッパから白人が入植し、インディオたちの土地を奪って、そこで農業や牧畜を始めたのである。

アメリカとはインディオからヨーロッパ白人たちが奪った土地であり、アメリカで幅をきかせている白人たちは皆移民なのである。つまり、アメリカに住む白人はインディオから土地を奪ったという罪をおっている。

それに加えてアメリカの移民たちはもう一つの罪を犯すことになる。それがこの映画に描かれている移民による移民の排除である。アメリカ移民たちはインディオから土地を奪い、奪った土地を自分たちの所有物として独占しようとして、後から入植してきた移民たちを排除しようとしたのである。

映画では新しい入植者として農場主と商人たちが登場する。そして先にアメリカに入植していた牧畜業者協会が新しく入植してきた農場主や商人たちを武器を用いて殺すのである。

移民が自分と同じく移住してきたものを冷遇し、殺害する。生活のためにやっていることだと殺人を合法的だと正当化するのが牧畜業者協会である。

アメリカに移り住んだのはヨーロッパで不遇の運命にあり、それを脱却しようとした人々である。アメリカはイギリスからの独立を勝ち取ることで自立した。ではアメリカ人として自立したのは誰か?それは当時のイギリス人たちである。

イギリスでは国教以外の宗教を弾圧していた。イギリスから独立した元イギリス人たちは、イギリスの国教以外の宗教を信仰していた。だから本国イギリスでの生活に耐えかねて、新天地アメリカに彼らはやってきたのである。抑圧された者たちが作り上げたのがアメリカなのである。

しかし、この映画で描かれる移民は移民を弾圧し抑圧する。自分たちの住むアメリカのルーツ(非イギリス国教派がイギリスから逃れてアメリカに移り住んだ)をこの移民たちは全く知らなかったのであろうか?

「そんなもの知ったことか!!俺たちは俺たちのルールでやる。歴史など糞くらえだ!!」そんな言葉が聞こえてくるようである。自らの歴史を知る。これはとても大切なことだ。同じ過ちを繰り返さないためにも。

至る所に神はいる。人間の中にも。

映画「シン・レッド・ライン(原題:The Thin Red Line)」を観た。

この映画は1998年公開のアメリカ映画で、第二次世界大戦ガダルカナル島の戦いを描いた作品である。この映画はある特定の1人の主人公が居て物語が繰り広げられるものではなく、ガダルカナルの戦いの戦闘に参加した複数の兵士たちの視線で描かれている。

この映画は主に3つのルーツを持つ人々が登場する。まず映画の主体となるのはアメリカ兵である。そしてそれに敵対する日本兵がいる。そしてその戦闘の地で生活をしているガダルカナルの住人たちがいる。

複数の人々の視線で描かれている映画だと先に書いたが、その人々とは主にアメリカ兵のことである。つまりこの映画はアメリカから見た、ガダルカナルにいる住人の姿と、日本兵の有様なのである。

この映画の中では映画の途中に所々誰かに話しかけている語りが入る。その語りの主人は時によって変わるが、話しかけている相手は一定の相手のようである。では一体彼らは誰に話しかけられているのか?

それはきっと「神」に語り掛けているのである。「汎神論」という言葉がある。この言葉が指す意味とは「神はいたるところにある。この世のすべてのものが神なのである」だ。太陽も木々も川も海も鳥も山も人間も「神」ということができるというのが汎神論という立場である。

“人間が神である”とはどういうことなのか?それは人間の中に生じる悪でさえも「神」であるということである。善いことが「神」と繋がっているのは理解できるが、悪が「神」と繋がっているとはどういうことなのか?

「神」は全能である。「神」は全能であるがゆえに悪いことも作ることができるのである。この考え方、つまり神万能主義においては「神」と悪とは併存できるのである。

映画の語りは常に“これも神なのですか?”“あれも神なのですか?”と語り掛ける。そして映画の最後にその疑問は確信へと変わる。

語りはこう言う。「あなたは私の目を通して見ているのだ」と。これは人間の体の中に「神」が存在していることの確信である。

人間が正しい行いを行うことができるのは悪が何かわかっているということである。つまりこの場合では悪が善が存在するために存在することが認められる。「神」はあらゆるところにある、つまり人間の中にもあるのだから、正しいことを人間が心の中に思い描くことも可能である。

「神」は人間に善という理想形を指示しているのである。最後の語り「私の目を通じて世界を見よ」とは「神」と人間の合一を表現しているのかもしれない。

ギャングをマフィア逮捕のために利用したFBI

映画「ブラック・スキャンダル(原題:Black Mass)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、犯罪映画である。この映画は実話を元にした映画で、映画の舞台はアメリカ合衆国マサチューセッツ州のボストンである。ボストンの南にある南ボストンに3人の幼なじみがいた。

1人はジェームズ・“ホワイティ”・バルジャー、もう1人はビリー・バルジャー、そしてもう1人はジョン・コノリーである。ジェームズ(ジミー)とビリーは兄弟であり、ジョンはその友達である。ジミーは大人になってギャングになり、ビリーは州の議員になり、ジョンはFBIに入った。

南ボストンは貧しい白人が住む地域であり、ジミーがギャングになったのは不思議ではない。またビリーとジョンは成功したサウシー(南ボストン出身の人)であると言える。

この映画のポイントはFBIとギャングが協力してマフィアを排除し、そのままFBIとギャングが癒着し、FBIとギャングがお互いの利益のために他の犯罪集団を排除して、何が正義なのかわからなくなる点にある。

ある時FBIのジョンは幼なじみであるジミー(ホワイティ)にこう協力を呼びかける。「ジミー君は、“ウィンター・ヒル”っていうギャングのボスだよね。君の敵にイタリア系マフィアのアンジェロ・ファミリーがいるよね。アンジェロ・ファミリーは君たちの敵でもあるし、FBIの敵でもある。だから手を組んでアンジェロ・ファミリーを排除しようよ」と。

これがFBIの一捜査官とギャングのボスとの癒着の始まりである。FBIのジョンはマフィアの排除のためにジミーを利用し、ジミーはジミーの犯罪を密告したものをFBIのジョンから聞き証拠封じに殺していく。

この映画の中で、ジミーは何件もの殺人を犯す。そしてFBIの後ろ盾があるため捕まることはない。ジミーはFBIの情報操作のためにやりたい放題なのである。

映画の中ではこの事の始まりは、FBIのジョンがジミーに話を持ち掛けたことである。FBIは汚い仕事である殺人をギャングにさせているようにも見える。ジミーから仕入れた情報という建前により犯罪者を捕まえて、ジミーたちに対抗する他のギャングの、もしくは“ウィンター・ヒル”の中の密告者の名をジミーに知らせてたのだから。裏切り者をジミーが殺すことは当然ジョンたちFBIも予期していたはずである。

アメリカ国民の良心をFBIは裏切っているのではないだろうか?ジミーの殺人は当然人の目を引くが、それをそのまま放置していたFBIは、アメリカ国民の良心や、もしくは良くありたいと思う人間たちの良心を踏みにじっているのである。