至る所に神はいる。人間の中にも。

映画「シン・レッド・ライン(原題:The Thin Red Line)」を観た。

この映画は1998年公開のアメリカ映画で、第二次世界大戦ガダルカナル島の戦いを描いた作品である。この映画はある特定の1人の主人公が居て物語が繰り広げられるものではなく、ガダルカナルの戦いの戦闘に参加した複数の兵士たちの視線で描かれている。

この映画は主に3つのルーツを持つ人々が登場する。まず映画の主体となるのはアメリカ兵である。そしてそれに敵対する日本兵がいる。そしてその戦闘の地で生活をしているガダルカナルの住人たちがいる。

複数の人々の視線で描かれている映画だと先に書いたが、その人々とは主にアメリカ兵のことである。つまりこの映画はアメリカから見た、ガダルカナルにいる住人の姿と、日本兵の有様なのである。

この映画の中では映画の途中に所々誰かに話しかけている語りが入る。その語りの主人は時によって変わるが、話しかけている相手は一定の相手のようである。では一体彼らは誰に話しかけられているのか?

それはきっと「神」に語り掛けているのである。「汎神論」という言葉がある。この言葉が指す意味とは「神はいたるところにある。この世のすべてのものが神なのである」だ。太陽も木々も川も海も鳥も山も人間も「神」ということができるというのが汎神論という立場である。

“人間が神である”とはどういうことなのか?それは人間の中に生じる悪でさえも「神」であるということである。善いことが「神」と繋がっているのは理解できるが、悪が「神」と繋がっているとはどういうことなのか?

「神」は全能である。「神」は全能であるがゆえに悪いことも作ることができるのである。この考え方、つまり神万能主義においては「神」と悪とは併存できるのである。

映画の語りは常に“これも神なのですか?”“あれも神なのですか?”と語り掛ける。そして映画の最後にその疑問は確信へと変わる。

語りはこう言う。「あなたは私の目を通して見ているのだ」と。これは人間の体の中に「神」が存在していることの確信である。

人間が正しい行いを行うことができるのは悪が何かわかっているということである。つまりこの場合では悪が善が存在するために存在することが認められる。「神」はあらゆるところにある、つまり人間の中にもあるのだから、正しいことを人間が心の中に思い描くことも可能である。

「神」は人間に善という理想形を指示しているのである。最後の語り「私の目を通じて世界を見よ」とは「神」と人間の合一を表現しているのかもしれない。

ギャングをマフィア逮捕のために利用したFBI

映画「ブラック・スキャンダル(原題:Black Mass)」を観た。

この映画は2015年のアメリカ映画で、犯罪映画である。この映画は実話を元にした映画で、映画の舞台はアメリカ合衆国マサチューセッツ州のボストンである。ボストンの南にある南ボストンに3人の幼なじみがいた。

1人はジェームズ・“ホワイティ”・バルジャー、もう1人はビリー・バルジャー、そしてもう1人はジョン・コノリーである。ジェームズ(ジミー)とビリーは兄弟であり、ジョンはその友達である。ジミーは大人になってギャングになり、ビリーは州の議員になり、ジョンはFBIに入った。

南ボストンは貧しい白人が住む地域であり、ジミーがギャングになったのは不思議ではない。またビリーとジョンは成功したサウシー(南ボストン出身の人)であると言える。

この映画のポイントはFBIとギャングが協力してマフィアを排除し、そのままFBIとギャングが癒着し、FBIとギャングがお互いの利益のために他の犯罪集団を排除して、何が正義なのかわからなくなる点にある。

ある時FBIのジョンは幼なじみであるジミー(ホワイティ)にこう協力を呼びかける。「ジミー君は、“ウィンター・ヒル”っていうギャングのボスだよね。君の敵にイタリア系マフィアのアンジェロ・ファミリーがいるよね。アンジェロ・ファミリーは君たちの敵でもあるし、FBIの敵でもある。だから手を組んでアンジェロ・ファミリーを排除しようよ」と。

これがFBIの一捜査官とギャングのボスとの癒着の始まりである。FBIのジョンはマフィアの排除のためにジミーを利用し、ジミーはジミーの犯罪を密告したものをFBIのジョンから聞き証拠封じに殺していく。

この映画の中で、ジミーは何件もの殺人を犯す。そしてFBIの後ろ盾があるため捕まることはない。ジミーはFBIの情報操作のためにやりたい放題なのである。

映画の中ではこの事の始まりは、FBIのジョンがジミーに話を持ち掛けたことである。FBIは汚い仕事である殺人をギャングにさせているようにも見える。ジミーから仕入れた情報という建前により犯罪者を捕まえて、ジミーたちに対抗する他のギャングの、もしくは“ウィンター・ヒル”の中の密告者の名をジミーに知らせてたのだから。裏切り者をジミーが殺すことは当然ジョンたちFBIも予期していたはずである。

アメリカ国民の良心をFBIは裏切っているのではないだろうか?ジミーの殺人は当然人の目を引くが、それをそのまま放置していたFBIは、アメリカ国民の良心や、もしくは良くありたいと思う人間たちの良心を踏みにじっているのである。

反復する破壊的欲動

映画「イット・フォローズ(原題:It Follows)」を観た。

この映画は2014年に製作されたアメリカ映画で、映画の内容はホラーである。この映画の主人公はジェイという19歳の女子大生である。ジェイは交際していたヒュー(本名:ジェフ・レドモンド)とセックスする。

セックスの後ヒューはジェイを気絶させ拘束し、ジェイに“自分をつけて来るもの”を見せる。そしてヒューは言う。

「今のセックスで僕は君にあるものをうつした。それは感染者以外には見えない。そしてそれは変幻自在で君の命を奪いに来る。君はゆっくり確実に追いかけてくるそれから逃げるんだ。もし君が死ねば以前感染していた者(この場合はヒュー)の命を奪おうとそれはしてくる」と。

ジェイは友達のポール、ヤラと姉妹の女の子と近所のグレッグと共に、ジェイをつけて来る“It(それ)”から逃げ続ける。ジェイの仲間の中で特にジェイを思いやっているのは、ジェイのファースト・キスの相手のポールである。

ポールはヤラにドストエフスキーの「白痴」の主人公みたいと言われるような文系内向系(?)青年である。ポールは好きなジェイの見ている世界と同じ世界が見たいのかもしれない。なぜならポールはジェイが好きだから。

ポールは映画の最後にジェイとセックスする。ポールはきっとそれでジェイと同じ世界を共有することになるのを期待している。

ところで映画の中に登場する変幻自在の“It”とは何なのだろうか?その“It”が何なのかを映画はあまり説明しない。“It”は何のために現れて、何を目的にしているのか?

人間には欲動というものがある。例えば性欲、食欲、睡眠欲。欲動は一時的に解消されてもまた沸き起こる。つまり欲動は反復する。欲動の一種に破壊的欲動(死の欲動)も存在する。当然それも欲動の一種なので反復する。一旦おさまっても欲動はまた生じるのである。

この映画の中の“It”とはセックスしたいと思う性的欲動と同じ欲動である死の欲動のことでないだろうか?死の欲動が治まっても、また再発するように“It”からいくら逃げても“It”は姿を変えて繰り返しジェイの元に現れる。死の欲動と“It”とは同じものではないだろうか?

“It”は変幻自在であるのだが、その姿は女性であったり、子供であったり、ジェイの父と似ていたり様々である。

映画中グレッグは自分の母と同じ姿をした“It”とセックスをして死ぬが、そのことが“It”の変幻自在さを知るためのヒントになるのかもしれない。性欲動に反するもの、つまり破壊的欲動が“It”なのであるから、禁欲すべき相手から破壊的な攻撃を受けるのはおかしなことではないのではないだろうか?

つまり禁欲すべき相手とセックスするのは、本人にとって破壊的な意味を持つ。“It”は死の欲動つまり破壊の欲動であるから、本人を破壊する近親者とのセックスは“It”の目的とするところなのである。

女性という弱者

映画「ピクニックatハンギング・ロック(原題:Picnic at Hanging Rock)」を観た。

この映画は1975年のオーストラリア映画であり、この映画の舞台は1900年のオーストラリア、ヴィクトリア州である。アップルヤード女学校の女生徒と教師マクロウと使いの男性はマセドン山にピクニックに出かける。

ピクニックに行った先で、マクロウ先生と女生徒のミランダ、アーマ、マリオンの4人が行方不明になる。映画の途中アーマは岩山の中で発見されるが、他の3人は行方不明のまま映画の幕は閉じる。

映画の中で4人が行方不明になった理由は明かされない。はっきりとは。この4人の行方不明の事件による負担もあり神経を衰弱させていく校長の女性は、発狂して死ぬ前にこうつぶやく。

「あのマクロウってのはしょうがないやつだ。強姦されて、殺され、神隠しに遭うなんて」と言う。これは事実なのだろうか?この言葉を吐き捨てる時の校長はアルコールに浸っていて、部下との会話もままならなくなっている。

この校長の発言に信憑性があるとは言えないのではないか?つまりこの校長の言葉は、ただの酔っぱらいの暴言に過ぎないのではないだろうか?しかし、この校長の発言が嘘でないならば、それは非常に恐ろしいことである。なぜなら4人はレイプ殺人にあったということになるのだから。

この映画の中には孤児院出身の人物が2人出てくる。女学校の生徒セーラと、女生徒たちが岩山の方へ入って行くのを見るアルバートという青年である。ここでは特にセーラに注目したい。

セーラは謎の失踪と遂げる4人の中の一人ミランダを愛している。ミランダはセーラ以外の女生徒にボッティチェリの絵の中の天使のようだと例えられる美貌の持ち主である。このセーラのミランダに対する愛は同性愛的なものだと思われる。

ミランダは言う。「セーラ他の人を愛して」と。セーラはミランダに失恋するのである。セーラは女学校の校長に早く学費を払えと何度も責められる。校長は女学校の経営のことで頭がいっぱいであり、セーラの生い立ちに同情する様子はない。そしてセーラは学校の経営が傾いた後に、学校の植物園で転落死しているのを見つけられる。

校長は言う。「セーラは後見人が連れて帰ったわ。荷物も持って行ったしね」。セーラは後見人に引き取られてはいなかった。女学校で悲劇の死を迎えたのである。この映画の登場人物は現実の社会、世界にひどく打ちひしがれているように見える。女学校の校長もその1人である。

七夕の夜、鎌倉の海の砂浜で、花火をする歌

レミオロメンの2008年の通算4枚目アルバム「風のクロマ」の15曲目の曲、アルバムのラストの曲「花火」を聴いて思ったことをここに書く。特に歌詞から受けた印象について書きたいと思う。

歌詞の語り手は男性であり、燃え上がるような一瞬の恋に憧れるような傾向を持つのがこの男性像の特徴だ。「私は夏の花火のような恋ならしたくはないから/あなたをどこまで信じていいの?」という女性が男性の印象から受けて女性の中に沸き起こった思いや、「未来でも過去でもなく今が一番綺麗/永遠が心に染み渡っていく」という歌詞からも「今」を重要視する男性の姿が思い描かれる。

そしてここで気になるのは、この男性が「今」から「永遠」をみていることだ。この「今」とはどのようなものだろうか?この「今」とは「今」が「永遠」に続くというような意味ではなく、「今」が「永遠」のように尊いものであると言っていると読み取れる。つまり「今」が最高なので「永遠」になればいいと言っており、「今」が最高でなくなったらそれは「永遠」に値しないと言っているのである。

一方女性側は「夏の花火のような恋ならしたくはないから」と述べる。女性側は素晴らしい「今」が続くことに意味があると述べているのだが、男性側と違うのは「今」が最高とは言わずに、「夏の花火のような恋」は嫌と言っているように、長く続く愛がいいと言っているところである。

「僕ならいつだって単純明快なんだよ/未来でも過去でもなく今を見つめてごらん/目の前の君をずっと愛している/永遠が心に染み渡っていく」と最後に男性の思いが歌われる。これから先愛がずっと続くかどうか悩んでいて、僕とこれからも付き合っていくか困っているのなら、“ずっと続く”という部分をみつめるのをやめて、「今」のこのお互いの気持ちを大切にしようと男性は語る。ここでも男性は最高な「今」の状態が「永遠」に続くことを男性は語るのである。つまり最高でなくなったら「今」などいらないのである。

一方女性は「あなたのすべてを信じてたいの」と言う。ここには愛が盛り下がった時でも信じることはできるという事実が表現されている。つまり最高な「今」だけに注目している男性のような考えとは違い、この先、愛が冷めかけた時の男性の思い、行動を気にしているのである。

女性側は冷静である。愛には冷めている時も熱いときもある。「今」の男性の気持ちが舞い上がっているように。男性のそのあり方自体が女性にとっては不可解なのである。冷めた時も熱い時も愛である。それが女性にとっての愛である。

しかし男性にとっては燃え上がっている「今」が一番であり他は受け入れられないのである。「君の笑顔は気まぐれすぎて」とあるが、実は男性よりも長い射程で物事をみつめているのが女性なのである。「線香花火に人生を準えても 興味がなさそうだね」とあるが、女性側は「夏の花火のような恋ならしたくはない」のだから、その喩え話は女性にとってはただの戯言に過ぎないのである。最高の「今」が「永遠」に続くと信じているおめでたい男と、恋愛には波があることを熟知している女性との差異がここにみられるのである。男性は下心に気が行って熟考に至らないのかもしれない。

 

※歌詞はレミオロメンのCDの歌詞カードより参照した。歌詞を見たい方はこちらのページをどうぞhttp://j-lyric.net/artist/a000776/l013625.html

自分が弱者になることを恐れて、その恐怖から相手に暴力を振るうこと

映画「トム・アット・ザ・ファーム(原題: Tom à la ferme)」を観た。

この映画は2013年のクサヴィエ・ドラン監督による、サイコ・スリラー映画である。この映画はロンシャン家の農場やその周辺で繰り広げられる、ある特定の人物たちの物語である。

主人公トムはギョームと付き合っていたが、ギョームが死ぬ。トムはギョームの葬式に出席するためにギョームの実家の農場に行く。その農場にいるのはロンシャン家のアガットという年老いた女性とその息子フランシスであった。

アガットはギョームの母で、フランシスはギョームの兄である。死んだギョームには秘密があった。それはギョームがゲイであり、ギョームの恋人トムがいることである。ギョームは母と兄に自身のセクシャリティを隠していたのである。

トムがロンシャン家の2人に、自身がゲイであり、恋人がギョームであることを告白してしまえば、事は単純に進むように思われる思えるのだが、話はそうは進まない。

兄フランシスはギョームがゲイであることを見抜いていた。フランシスは田舎に住む、マッチョな男である。弟のギョームがゲイであると知れたら町中の注目の的であるし、そうなるだろうとフランシスは強く思い込んでいる。(田舎の封建的な人々は「私が思っていることは皆が思っているに違いない」という思い込みがあるのかもしれない。そしてフランシスの立場に置かれた場合、それが自分で自分の首を絞めることになるのである。)

フランシスはトムに対して暴力と愛情で接する。要するに飴と鞭である。トムはギョームの死に罪悪感を持っているらしく、フランシスのトムへの暴力は罪の償いであると思っている。

トムはフランシスに飴と鞭を使われることにより、フランシスに飼いならされていく。フランシスは、明確には語られることはないが、同性愛的な感情を、当然他の多くの男たちと同様にある傾向として持っているのだと見える。

フランシスのそんな態度に、トムは自分が愛されていると感じ、フランシスに気を許すが、ギョームの日記を母アガットが読んだことを知ると、危機感を覚える。フランシスはアガットが性的にストレートなことを重んじる女性だと信じている。

フランシスは母のことがすべてだと言っていた。もし、母アガットがギョームがゲイであることを知ったら、母アガットは傷つくだろう。つまりフランシスの暴力がトムへと向かうのである。

人は相手を見下すと暴力的になることがある。自分より弱いはずの相手に負けるかもしれないという恐怖が相手を見下すことによって強まるからだろう。そして人は一端暴力を振るうと、暴力を止められなくなる。なぜなら暴力を止めたら仕返しを食らうかもしれないという恐れを抱くようにもなるからだ。よって暴力者は、暴力を恐れるがために暴力的になる。そう例えば、映画のエンディング曲の中で歌われるアメリカという国のように。

社会の壁か、自分の中の壁か

映画「わたしはロランス(原題:Laurence Anyways)」を観た。

この映画は2012年のカナダ、フランスの合作映画であり、ラブ・ストーリーである。この映画の中心となるのはロランス・アリアという生物学的男性と、身も心も女性であるフレッドである。

ロランスとフレッドは異性愛者同士のカップルとして登場するが、その2人の関係も映画開始直後に崩れる。それは何故か?それはロランスが女になりたい生物学的男性だと、フレッドに告白するからである。

映画中ロランスの家族(特に母)とのやり取りで、ロランスが昔から女性的であったという述懐がなされる。ロランスはすでに子供のころから自分は生物学的には男の形をしているが、実は女性になりたい人間なんだと薄々勘付いていたというように描かれる。

フレッドに女性になることを告白するロランスだが、ロランスは性転換手術をすぐに受けるようなことはしない。ロランスは映画で10年の時を経て、その外見に現れているように、徐々に女性になっていくのである。

この映画の面白いところは、ロランスは女性になったから男性に愛されたいのだと言い出すのではなく、女性になりたいが好きな相手は女性というところではないだろうか?ロランスが女性に憧れるのと、ロランスが誰を愛するのか?というのは別の問題なのである。

ロランスは女性性に憧憬を持っているが、性愛的には自由な状態なのである。このロランスとは対照的に女性性に価値を見出し、男性に愛される女性でありたいと願うのは、ロランスの恋人フレッドである。

フレッドは女性に変わっていくロランスをうまく受け入れることができない。フレッドは男性しか愛することができないのである。映画の最後にロランスはフレッドに言う。「私たちがうまくいかなくなったのは、私が女性になったからじゃないわよ」と。

ロランスは愛があって、その愛の形はどんなものでもあり得ると言っているようである。愛があれば同性であろうと異性であろうと関係ないのだと。

この映画は映画の冒頭の言葉にもあるように、私たちの“普通”を疑うような心境に映画を観る者をさせる。人は、彼は普通、彼はアブノーマルというように境界線を引きたがる。自分と同じ種類、自分とは違う種類、自分の眼中に入らない人たち(この場合人々は眼中に入らない人たちを意識していない場合が多いだろう)と。

この映画はこの線引きの残酷さを私たちに教えてくれる。“残酷さ”はロランスを受け入れられないフレッドの葛藤の原因として映画中に現れる。フレッドが困惑の色合いを強めるたびに、我々は性の現実を目の前に突き付けられている気になる。フレッドの苦痛は世界が閉じてしまっている現れなのである。