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介護と精神的疲弊

映画「たたり(原題:Haunting)」を観た。

この映画は1963年のアメリカ合衆国の映画で、丘の家という幽霊屋敷とその屋敷に集まった4人の男女(男2人、女2人)とその屋敷の管理人の夫婦等を描いたホラー映画である。

この映画の主人公は、エレナー・ラーンスという中年の女性であり、エレナーは独身の女性である。エレナーは何故独身なのか?ただ一人でいたいからなのか?映画の製作された時代背景と、映画の中のエレナーの状態からエレナーは望んで独身でいるのではないように思われる。

エレナーたち3人を屋敷に呼び寄せるのはジョン・マークウェイという人類学の学者である。そしてジョンは、丘の家と呼ばれる屋敷に伝わる悲劇に興味を持ち、その悲劇の起こされた世にも不思議なものに惹かれているのである。ジョンはそれを「超自然現象(スーパーナチュラル)」と呼ぶ。

エレナーが独身でそれを好んでいるわけではない理由は、エレナーがジョンに好意を寄せることから何となく察せられる(当時の女性にとって結婚は死活問題だった)。エレナーが独身でいた理由とは何か?それは母親を11年間つきっきりで看病していたからである。そしてエレナーは介護の疲れから精神的にまいってしまっているのである。

映画中エレナーは自らの母の最期をこう語る。「母はいつも壁を叩いて、私を呼んだ。母が死んだ日も母は私をそうして呼んだの。しかし私はその日は母の元へは行かなかった」。つまりエレナーは母の介護に疲れ切っていたのである。

エレナーの聞いた壁を叩く音は幻聴だったのではないのか?映画中、幽霊屋敷で超自然的なものがエレナーたちのいる部屋の壁をドンドン叩く音が聞こえるシーンがある。それはエレナー以外の人にも聞こえているのだが、明らかにエレナーが特にその“壁を叩く音”に異常に反応する。その様子は、エレナーが正気でないこと、エレナーが幻聴を聞いているような印象を与える。確かではないが。

映画の終盤エレナーは「あの壁を叩く音は私を呼んでいる音だわ!!」と言い、過去に悪い出来事が起こった屋敷の部屋に、おしかけてきていたジョンの妻を助けに行くシーンがある。

そしてそのシーンの後にエレナーは自分と敵対していると思っていた屋敷が、自分と一体となったと感じる。つまりエレナーにとっての“壁を叩く音”とは“エレナーを呼ぶ母が壁を叩く音”だったのである。

エレナーは壁を叩いて助けを呼ぶ者(前述のジョンの妻は夫の愛のなさに心の悲鳴を上げている)に反応して行動して、母を見殺しにしてしまったかもしれないという罪悪感から解放されたのである。

そしてエレナーにとって罪悪感の元となっていた“家”という存在と和解し、エレナーは再び自分にとっての家を見つけることができたのである。エレナーは家つまり家族によって疲労させられ、罪を着せられた後に、再び家に戻れると思った直後に死ぬことになる。エレナーにとって家に戻るとは再び従属することを意味するのだろう。エレナーは死という不幸な解放を得たのである。それは喪失でもあるが。

古代の儀式と現代的合理性

映画「血の祝祭日(原題:Blood Feast)」を観た。

この映画は1963年のアメリカ映画で、スプラッター・ムービーの元祖的存在の作品であり、監督はハーシェル・ゴードン・ルイスである。この映画はアメリカ合衆国のとある一時期に起こる連続殺人を描いたものである。

連続殺人の犯人はフアド・ラムセスという「古代宗教儀式」という架空の本の著者である老人であり、このフアド・ラムセスが古代宗教の儀式にのっとって殺人を犯していくのである。

映画中、血が飛び散るシーンが多い。これがこの映画をスプラッター映画と呼ぶ原因だと思われる。そして血が飛び散る殺人シーンの殺害者役となっているのが、フアド・ラムセスという老人である。

フアド・ラムセスは“ラムセスのエスニック料理サービス”という店を営んでいる。ラムセスは「古代宗教儀式」という架空の本の著者であり、ラムセスはこの本が欲しくてラムセスの元に住所と電話番号を記してくる若い女性の元へ、殺人へ行くのである。

「私は『古代宗教儀式』という本が欲しいんです」と手紙に住所と電話番号を書くと、そこに本と殺人者が届くというわけである。

ラムセスは何の宗教についての本を書いたのか?それは古代エジプトの宗教儀式についての本であると映画中の出来事から推測される。古代宗教儀式についての網羅的な本がこの「古代宗教儀式」という本で、その本の一部にきっとエジプトの古代宗教儀式に関する記述があるのだろう。

ラムセスは古代宗教儀式を行っている。だがその儀式は生贄を必要とする儀式で、現代行えば犯罪に当たるのである。人の生贄(この映画では若い女性)は古代では慣習に沿って受け入れられているものだが、現代の法では明らかな異常行為、犯罪なのである。時代が変わると人間の考え方も全く変わっていくものだと感じさせる。

ラムセスが心酔しているのは、メソポタミア神話に登場するイシュタルという女神である。この女神は性愛、戦いの女神であり、出産、豊穣につながる女神でもある。性愛の女神であると同時に、勃起不全などの性愛の不具合を象徴する女神である。

ここでは出産、豊穣に注目したい。儀式のために流される多量の血は「金枝篇」を思い起こさせる。儀式のために流される多量の血とは水のことであり、豊穣のために必要なものとされる。

出産とは新しく生まれることであり、人間が死に新しく生まれてくるというような「金枝篇」の記述を思い起こさせる。又、犠牲となるものを食べるという行為は、生けるものの若さを自身のものとしているようである。古代の儀式というのは何ともおぞましいものだ。

「母の求めている私」と「理想の私」

映画「わたしに会うまでの1600キロ(原題:Wild)」を観た。

この映画は2014年にアメリカで公開されたロード・ムービーというよりウォーキング・ムービーである。この映画の舞台となるのは、アメリカ合衆国にある長距離自然歩道(The Pacific Crest Trail/パシフィック・フレスト・トレイル/略称PTC)である。

Pacificは「太平洋の」を意味し、crestとは「頂上」を意味し、trailとは「痕跡」を意味する。要するにPTCとは、太平洋沿いにある山の頂上を通って行くような道の跡のことである。PTCはアメリカのメキシコとの国境から北へ向かって、アメリカのカナダとの国境への長い道のことである。

この映画の主人公シェリル・ストレイドはたった一人でこの長い道を歩いた実在の女性である。この映画の原作はシェリル・ストレイド本人が書いた自叙伝である。

シェリルが幼い頃にシェリルの母ボビー・グレイは娘シェリルと息子リーフを連れて父親の元を去っている。何故か?それは父親の暴力が原因である。シェリルの父は酔っぱらって家族(特に母ボビー)に対して暴力を振るうような父親だったのである。

シェリルは母ボビーの手によって育てられることになるが、そんな母も病気のために、シェリルが20代のうちに死んでしまう。シェリルは母親の病気のショックのためか、行きずりの男とのセックスを繰り返し、ヘロインに手を出してボロボロの状態になる。

そんなギリギリの状態からシェリルを救い出してくれたのは元夫のポールだった。しかしシェリルの心の問題はそんなに簡単に解決しない。シェリルにとって父の暴力と父の不在、そして母の死はとても大きな陰をシェリルに落としていたのである。

この映画に映し出されるのは自然と、踏みならされた、時には未踏の道を歩く人間たちの姿である。シェリルは同じようにPTCを歩いている人々と時に触れ合いはするものの、ほとんど大半の時間を一人で歩きながら、時にはテントの中で過ごしている。

歩いている最中は自分で自分の頭に浮かび上がってくる思いや音楽や思い出などと共に過ごしている。シェリルは「母が求めていた私」になるために4年7ヵ月3日の旅をすることになる。

旅の終わりのシェリルの所持金は20セントである。シェリルは苦悩の最中に言う。「昔の私は母の望んでいる私だったのに、今の私は母の望んでいた私じゃない」と。ドラッグとセックスにおぼれて確固たる自分の姿をシェリルは見失っていたのかもしれない。

ドラッグは現実感を薄れさせるのだろうし、複数人とのセックスは自身の中の自分像を曖昧にするのかもしれない。「母の求めている私」であることは、シェリルの精神状態を安定させるために必要なものだったのだろう。「母の求めている私」はシェリルの理想の自分と等しいものになったのだろう。

不条理なもの

映画「鳥(原題:The Birds)」を観た。

この映画は1963年に公開されたアメリカ映画であり、鳥が人を襲うというパニック、サスペンス映画である。この映画の主要人物はメラニー・ダニエルズとミッチ・ブレナーというカップルで、ミッチの母親であるリディアとミッチの妹であるキャシーも共に主な登場人物である。

サンフランシスコで暮らしているメラニーは、休日をデボガ湾で過ごすサンフランシスコ在住の弁護士ミッチの家にミッチの好意により訪れることになる。しかしデボガ湾に訪れたことにより、鳥の襲撃という恐ろしい体験をメラニーはすることになる。

この映画の中では何度も執拗に鳥が人間を襲う描写がある。鳥は何故人間を襲うのか?その理由について映画の後半で少し触れられる。それはデボガ湾のバーのシーンである。メラニーが鳥に襲われたことを、現地の住人やバーにいる人たちに説明すると、その話を聞いていたバンディという老婆が「鳥はそんなことはしません」「鳥よりも有害なのは人間です」と言う。つまり地球にとって有害な人類は鳥から攻撃を受ける理由が充分にあるのである。

つまり鳥は自分たちにとってもっとも有害な人類を殺そうとするのである。ここで言う“人類の有害さ”とは何か?それは、人間による環境破壊のことだろう。人類は自らの文明の発展のために大地に有害な物質を撒いている。そんな人類が攻撃の対象となるのは必然的なことであると映画は言っているように思える。

しかしバンディという人物はこうも言う。「鳥は脳ミソが小さいから人を襲うなんてことは考えつきませんよ」と。鳥は何故人間を襲ったのか?それは科学的には証明できないことなのである(ちなみにバンディという老婆は鳥について趣味で学んでいる)。

つまり鳥はつじつま合わせでは説明できないような不条理の象徴のような存在なのである。

バーにいる酒飲みの男が聖書のエゼキエル書6章と、イザヤ書5章を引用するシーンもある。その男は叫ぶ。「世界の終わりだ!!」紙の裁きが人間を襲っているというのである。エゼキエル書イザヤ書というのは旧約聖書に出てくる部分である。

旧約聖書の神というのは不条理な神である。旧約聖書にはヨブ記という部分がある。ヨブという男が特に理由もなく神に試されて悲惨な目に合うという部分である。これぞ不条理という話である。

映画の中の鳥も理由なしに人を襲う不条理な存在であるのではないだろうか?映画の中には「愛の鳥」が登場する。その2羽の鳥は、世界が鳥という恐怖で覆われた後も仲良く生きている。2羽の仲睦まじい様子が愛の象徴であるのなら、少しは気が紛れる気がする。

家族には守護者としての父が欠かせないのか?

映画「フレンチアルプスで起きたこと(原題:Force Majeure)」を観た。

この映画には別題として「TOURIST(ツーリスト)」というタイトルがついている。ツーリストとは観光客のことである。この映画は2014年製作のスウェーデンデンマーク、フランス、ノルウェーの合作映画で、映画の舞台はフランスのアルプス山脈で、映画の中心となるのは、スウェーデンから休暇でスキーを楽しみに来た家族である。

この家族は4人家族で、父トマス、母エバ、姉ヴェラ、弟ハリーから成る。映画にはこの他にトマス一家と関わる形で2組のカップルが登場する。その1つのカップルは旅先で知り合った男性と女性から成るカップルで、もう1つのカップルはマッツとファンニというトマス家の従来の知り合いであるカップルである。

この映画の冒頭では、雪崩が起きる。そして雪崩が起きた時に父トマスは家族3人を置き去りにして逃げてしまう。それがこの一家の中に横たわる危機になる。エバ、ヴェラ、ハリーは自分たちを置いて逃げ出してしまった父親が許せない。特に妻であるエバにとっては夫を許せない気持ちが所々に顕在するようになる。

映画ではフレンチ・アルプスで起こった5日間の出来事が描かれるのだが、妻のエバは夫トマスの過ちを責める。エバは直接的にも間接的にもトマスを責める。エバは映画に登場する2つのカップルに対して、夫トマスは家族を置いて逃げたのに逃げたことを認めようとしないと言う。それを聞いている夫トマスはどんどん追い詰められて最後には泣き出す。

「僕は自分がダメな奴だってわかっている。自分でも自分が嫌いだ」。泣くトマスを見ていたヴェラとハリーはトマスに覆いかぶさって泣く。そして2人の子供たちに誘われてトマス一家は、リゾート地の素敵なホテルで一つのかたまりとなって泣く。家族と父親の役割の深い関係がここにみられる。父親の地位が揺らぐと家族は崩壊に近づくのである。

トマス一家と出会う、1組のカップルの女性のみとエバが結婚観について語り合うシーンがある。その女性はエバと違って夫がいるにも拘らず、旅先のイタリア人男性とできている。エバは言う。「あなたのその勝手な振る舞いに家族は悪影響を受ける」。その女性はそんなことはないと言い返すのだが、エバは引き下がらずに口論になりそうになる。

“家族に悪影響与え”ないなら…。雪崩で逃げ出すような男なら、他の男と取り換えてしまいたい。エバは心のどこかでそう思っているのかもしれない。その考えを強く抑えつけようとするためにエバは、トマスにを怒鳴りつけ怒りを示すのかもしれない。

支配は人を抑圧する

映画「ラブ&マーシー 終わらないメロディー(原題:Love&Mercy The Ture Story of Brian Wilson)」を観た。

この映画は、アメリカ合衆国カルフォルニア州出身のロック・バンド、ザ・ビーチ・ボーイズのメイン・ソング・ライターのブライアン・ウィルソンの半生を描いた、2015年制作の映画である。

この映画は1980年代のブライアン・ウィルソンを描いた部分と、1960年代のブライアン・ウィルソンを描いた部分から成っている。この2つの時代が同時進行することで映画は進んで行く。

映画の1960年代を描いた部分ではアルバム「ペット・サウンズ」とシングル曲「グッド・ヴァイブレーション」の制作過程が描かれており、1960年代ではブライアン・ウィルソンが立ち向かう敵としてブライアン・ウィルソンの父がいる。

1980年代の部分では、精神的に疲弊しきったブライアン・ウィルソンの生活が描かれており、ブライアン・ウィルソンの敵としてブライアン・ウィルソンの主治医ユージン・ランディが登場する。

1960年代に登場する父と、1980年代に登場するユージン・ランディは似たような存在である。ブライアンの父も、ユージンもブライアン・ウィルソンを支配することによってそれぞれ父とユージンの幸福(=お金)を手に入れようとする。

父は家族のためだとブライアンを搾取し、ユージンはブライアンの病気のためだとブライアンを監視する。

父はブライアンが作曲した曲を勝手にA&Mに売って75万ドルを手に入れ言う。「家族のためだ。音楽産業なんて5年後はどうなるかわからない」。ユージンはブライアンに妄想型統合失調症という病名を与えて、ブライアンを薬漬けにする。「君の病気のためなんだ」と。

父とユージンはブライアンにとっての神のような存在である。父とユージンはブライアンを自由にコントロールする。LSDの体験としてブライアンが神を感じると泣き出すシーンがある。そうブライアンの中にいる神(=父的存在)は恐れられる神なのである。

ブライアンを愛で解放してくれる(語義矛盾?)神的な存在は居ないのか?いる。メリンダ・レッドベターという女性である。メリンダはユージンに薬漬けにされているブライアンを、ブライアンの家族を動かすことによって法的にユージンから解放する。

その前兆を知ったユージンは、メリンダのオフィスに怒鳴り込む。メリンダはユージンの狼狽ぶりに笑みをこぼすが、ユージンの「ブライアンの金が欲しいなら順番待ちだ」という言葉に我に返る。そしてメリンダはブライアンの元から去る。

これがメリンダの素晴らしさである。そして映画の最後にブライアンがメリンダを探し出して2人は結ばれる。さらにブライアンにとってメリンダが素晴らしい存在になったのである。

暴力の連鎖

映画「ルック・オブ・サイレンス(原題:The Look of Silence)」を観た。

この映画は2014年に公開された、デンマークフィンランド、フランス、ドイツ、インドネシアイスラエル、オランダ、ノルウェー、イギリス、アメリカの合作ドキュメンタリー映画である。

この映画の背景にはインドネシアの独裁政治とその後の民主化による独裁政権への糾弾がある。

1965年9月30日にインドネシアではある事件が起きる。その当時のインドネシア共和国の大統領はスカルノであったのだが、スカルノに不満を持つ急進左派の大統領親衛隊長ウントゥンを代表とする軍隊が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデターを起こす。

スカルノはこのクーデターの鎮圧にスハルトをリーダーとした右派軍隊を使う。このときスハルトは左派軍隊を攻撃するだけでなく、民間の左派とみられる人たちを、民間のいわゆるゴロツキから成るような青年団や殺人部隊を使って殺害した。

この事件の後、そのままスハルトは勢力を保ち、スカルノからスハルトへの権限移行が行われて、スハルトインドネシア共和国の2代目の大統領となる。

つまり左派の軍人がクーデターを起こしたため、右派の軍人がそれに対抗してこともあろうに右派の軍人は、民間人の中に左派を見つけ出し、その人たちを民間人に殺させたのである。(右派の軍人には左派の人たちがそれほど脅威に映っていたのだろう)。民間人にも左派と右派の違いを与えて、右派が一方的に左派を殺害していったのである。

殺された左派の人々は100万人以上にのぼると言われている。ここでいう民間の左派とは組合員や小作人、知識人である。軍隊が直接民間の左派とみられる人に対して行動を行うと問題になるので、代わりに民衆を民衆に殺させたのである。

この映画の主人公は、ジョシュアという撮影当時44歳である男性である。ジョシュアは1965年9月30日の事件を機に始まった大虐殺で兄のラムリを失っている。

映画中ジョシュアは、兄の殺害に関わった民間(当時の政権に関係した人物ではなく)の人々に会って、自分の仕事の雑談として当時の話を聞き出し「あなたは兄を殺したのですか?」と問いを投げかける。

その問いかけに謝罪の意思を示す人はほとんどいない。

映画中、民間の殺人部隊の一員の妻だけが「ごめんなさい」と謝るが、他の人々はインドネシアの暗い過去に向き合おうとはしない。ただただ事実から逃げようとするだけである。罪を犯したという事実を認めようとしない。

民間の殺人部隊の“英雄”たちは、当時の殺人の様子を“美談”として自慢げに語る。しかしジョシュアの兄ラムリを殺したという事実の確認となると黙る。誰も心の底から良いことだったとは思えないのである。

 

※右派軍人勢力と共産党、左派軍人勢力の間のバランサーとしてスカルノは求心力を持っていた。つまりスカルノは左派と右派のバランスを保つ人だった。しかし急進派の左派軍人たちがクーデターを起こす。そのクーデターの鎮圧のために反クーデター勢力としてスハルトを中心とする右派軍人をスカルノは使う。そのまま右派が国を支配する。左派軍人のクーデターを鎮圧するために左派軍人を使ったらどうなったか?左派軍人は急進左派軍人を責められなかったのか?クーデターを起こした急進左派は暴力的である。対する右派の軍人たちも暴力的である。暴力がさらなる暴力を呼び起こした。これは暴力による悲惨な事件である。