不条理なもの

映画「鳥(原題:The Birds)」を観た。

この映画は1963年に公開されたアメリカ映画であり、鳥が人を襲うというパニック、サスペンス映画である。この映画の主要人物はメラニー・ダニエルズとミッチ・ブレナーというカップルで、ミッチの母親であるリディアとミッチの妹であるキャシーも共に主な登場人物である。

サンフランシスコで暮らしているメラニーは、休日をデボガ湾で過ごすサンフランシスコ在住の弁護士ミッチの家にミッチの好意により訪れることになる。しかしデボガ湾に訪れたことにより、鳥の襲撃という恐ろしい体験をメラニーはすることになる。

この映画の中では何度も執拗に鳥が人間を襲う描写がある。鳥は何故人間を襲うのか?その理由について映画の後半で少し触れられる。それはデボガ湾のバーのシーンである。メラニーが鳥に襲われたことを、現地の住人やバーにいる人たちに説明すると、その話を聞いていたバンディという老婆が「鳥はそんなことはしません」「鳥よりも有害なのは人間です」と言う。つまり地球にとって有害な人類は鳥から攻撃を受ける理由が充分にあるのである。

つまり鳥は自分たちにとってもっとも有害な人類を殺そうとするのである。ここで言う“人類の有害さ”とは何か?それは、人間による環境破壊のことだろう。人類は自らの文明の発展のために大地に有害な物質を撒いている。そんな人類が攻撃の対象となるのは必然的なことであると映画は言っているように思える。

しかしバンディという人物はこうも言う。「鳥は脳ミソが小さいから人を襲うなんてことは考えつきませんよ」と。鳥は何故人間を襲ったのか?それは科学的には証明できないことなのである(ちなみにバンディという老婆は鳥について趣味で学んでいる)。

つまり鳥はつじつま合わせでは説明できないような不条理の象徴のような存在なのである。

バーにいる酒飲みの男が聖書のエゼキエル書6章と、イザヤ書5章を引用するシーンもある。その男は叫ぶ。「世界の終わりだ!!」紙の裁きが人間を襲っているというのである。エゼキエル書イザヤ書というのは旧約聖書に出てくる部分である。

旧約聖書の神というのは不条理な神である。旧約聖書にはヨブ記という部分がある。ヨブという男が特に理由もなく神に試されて悲惨な目に合うという部分である。これぞ不条理という話である。

映画の中の鳥も理由なしに人を襲う不条理な存在であるのではないだろうか?映画の中には「愛の鳥」が登場する。その2羽の鳥は、世界が鳥という恐怖で覆われた後も仲良く生きている。2羽の仲睦まじい様子が愛の象徴であるのなら、少しは気が紛れる気がする。

家族には守護者としての父が欠かせないのか?

映画「フレンチアルプスで起きたこと(原題:Force Majeure)」を観た。

この映画には別題として「TOURIST(ツーリスト)」というタイトルがついている。ツーリストとは観光客のことである。この映画は2014年製作のスウェーデンデンマーク、フランス、ノルウェーの合作映画で、映画の舞台はフランスのアルプス山脈で、映画の中心となるのは、スウェーデンから休暇でスキーを楽しみに来た家族である。

この家族は4人家族で、父トマス、母エバ、姉ヴェラ、弟ハリーから成る。映画にはこの他にトマス一家と関わる形で2組のカップルが登場する。その1つのカップルは旅先で知り合った男性と女性から成るカップルで、もう1つのカップルはマッツとファンニというトマス家の従来の知り合いであるカップルである。

この映画の冒頭では、雪崩が起きる。そして雪崩が起きた時に父トマスは家族3人を置き去りにして逃げてしまう。それがこの一家の中に横たわる危機になる。エバ、ヴェラ、ハリーは自分たちを置いて逃げ出してしまった父親が許せない。特に妻であるエバにとっては夫を許せない気持ちが所々に顕在するようになる。

映画ではフレンチ・アルプスで起こった5日間の出来事が描かれるのだが、妻のエバは夫トマスの過ちを責める。エバは直接的にも間接的にもトマスを責める。エバは映画に登場する2つのカップルに対して、夫トマスは家族を置いて逃げたのに逃げたことを認めようとしないと言う。それを聞いている夫トマスはどんどん追い詰められて最後には泣き出す。

「僕は自分がダメな奴だってわかっている。自分でも自分が嫌いだ」。泣くトマスを見ていたヴェラとハリーはトマスに覆いかぶさって泣く。そして2人の子供たちに誘われてトマス一家は、リゾート地の素敵なホテルで一つのかたまりとなって泣く。家族と父親の役割の深い関係がここにみられる。父親の地位が揺らぐと家族は崩壊に近づくのである。

トマス一家と出会う、1組のカップルの女性のみとエバが結婚観について語り合うシーンがある。その女性はエバと違って夫がいるにも拘らず、旅先のイタリア人男性とできている。エバは言う。「あなたのその勝手な振る舞いに家族は悪影響を受ける」。その女性はそんなことはないと言い返すのだが、エバは引き下がらずに口論になりそうになる。

“家族に悪影響与え”ないなら…。雪崩で逃げ出すような男なら、他の男と取り換えてしまいたい。エバは心のどこかでそう思っているのかもしれない。その考えを強く抑えつけようとするためにエバは、トマスにを怒鳴りつけ怒りを示すのかもしれない。

支配は人を抑圧する

映画「ラブ&マーシー 終わらないメロディー(原題:Love&Mercy The Ture Story of Brian Wilson)」を観た。

この映画は、アメリカ合衆国カルフォルニア州出身のロック・バンド、ザ・ビーチ・ボーイズのメイン・ソング・ライターのブライアン・ウィルソンの半生を描いた、2015年制作の映画である。

この映画は1980年代のブライアン・ウィルソンを描いた部分と、1960年代のブライアン・ウィルソンを描いた部分から成っている。この2つの時代が同時進行することで映画は進んで行く。

映画の1960年代を描いた部分ではアルバム「ペット・サウンズ」とシングル曲「グッド・ヴァイブレーション」の制作過程が描かれており、1960年代ではブライアン・ウィルソンが立ち向かう敵としてブライアン・ウィルソンの父がいる。

1980年代の部分では、精神的に疲弊しきったブライアン・ウィルソンの生活が描かれており、ブライアン・ウィルソンの敵としてブライアン・ウィルソンの主治医ユージン・ランディが登場する。

1960年代に登場する父と、1980年代に登場するユージン・ランディは似たような存在である。ブライアンの父も、ユージンもブライアン・ウィルソンを支配することによってそれぞれ父とユージンの幸福(=お金)を手に入れようとする。

父は家族のためだとブライアンを搾取し、ユージンはブライアンの病気のためだとブライアンを監視する。

父はブライアンが作曲した曲を勝手にA&Mに売って75万ドルを手に入れ言う。「家族のためだ。音楽産業なんて5年後はどうなるかわからない」。ユージンはブライアンに妄想型統合失調症という病名を与えて、ブライアンを薬漬けにする。「君の病気のためなんだ」と。

父とユージンはブライアンにとっての神のような存在である。父とユージンはブライアンを自由にコントロールする。LSDの体験としてブライアンが神を感じると泣き出すシーンがある。そうブライアンの中にいる神(=父的存在)は恐れられる神なのである。

ブライアンを愛で解放してくれる(語義矛盾?)神的な存在は居ないのか?いる。メリンダ・レッドベターという女性である。メリンダはユージンに薬漬けにされているブライアンを、ブライアンの家族を動かすことによって法的にユージンから解放する。

その前兆を知ったユージンは、メリンダのオフィスに怒鳴り込む。メリンダはユージンの狼狽ぶりに笑みをこぼすが、ユージンの「ブライアンの金が欲しいなら順番待ちだ」という言葉に我に返る。そしてメリンダはブライアンの元から去る。

これがメリンダの素晴らしさである。そして映画の最後にブライアンがメリンダを探し出して2人は結ばれる。さらにブライアンにとってメリンダが素晴らしい存在になったのである。

暴力の連鎖

映画「ルック・オブ・サイレンス(原題:The Look of Silence)」を観た。

この映画は2014年に公開された、デンマークフィンランド、フランス、ドイツ、インドネシアイスラエル、オランダ、ノルウェー、イギリス、アメリカの合作ドキュメンタリー映画である。

この映画の背景にはインドネシアの独裁政治とその後の民主化による独裁政権への糾弾がある。

1965年9月30日にインドネシアではある事件が起きる。その当時のインドネシア共和国の大統領はスカルノであったのだが、スカルノに不満を持つ急進左派の大統領親衛隊長ウントゥンを代表とする軍隊が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデターを起こす。

スカルノはこのクーデターの鎮圧にスハルトをリーダーとした右派軍隊を使う。このときスハルトは左派軍隊を攻撃するだけでなく、民間の左派とみられる人たちを、民間のいわゆるゴロツキから成るような青年団や殺人部隊を使って殺害した。

この事件の後、そのままスハルトは勢力を保ち、スカルノからスハルトへの権限移行が行われて、スハルトインドネシア共和国の2代目の大統領となる。

つまり左派の軍人がクーデターを起こしたため、右派の軍人がそれに対抗してこともあろうに右派の軍人は、民間人の中に左派を見つけ出し、その人たちを民間人に殺させたのである。(右派の軍人には左派の人たちがそれほど脅威に映っていたのだろう)。民間人にも左派と右派の違いを与えて、右派が一方的に左派を殺害していったのである。

殺された左派の人々は100万人以上にのぼると言われている。ここでいう民間の左派とは組合員や小作人、知識人である。軍隊が直接民間の左派とみられる人に対して行動を行うと問題になるので、代わりに民衆を民衆に殺させたのである。

この映画の主人公は、ジョシュアという撮影当時44歳である男性である。ジョシュアは1965年9月30日の事件を機に始まった大虐殺で兄のラムリを失っている。

映画中ジョシュアは、兄の殺害に関わった民間(当時の政権に関係した人物ではなく)の人々に会って、自分の仕事の雑談として当時の話を聞き出し「あなたは兄を殺したのですか?」と問いを投げかける。

その問いかけに謝罪の意思を示す人はほとんどいない。

映画中、民間の殺人部隊の一員の妻だけが「ごめんなさい」と謝るが、他の人々はインドネシアの暗い過去に向き合おうとはしない。ただただ事実から逃げようとするだけである。罪を犯したという事実を認めようとしない。

民間の殺人部隊の“英雄”たちは、当時の殺人の様子を“美談”として自慢げに語る。しかしジョシュアの兄ラムリを殺したという事実の確認となると黙る。誰も心の底から良いことだったとは思えないのである。

 

※右派軍人勢力と共産党、左派軍人勢力の間のバランサーとしてスカルノは求心力を持っていた。つまりスカルノは左派と右派のバランスを保つ人だった。しかし急進派の左派軍人たちがクーデターを起こす。そのクーデターの鎮圧のために反クーデター勢力としてスハルトを中心とする右派軍人をスカルノは使う。そのまま右派が国を支配する。左派軍人のクーデターを鎮圧するために左派軍人を使ったらどうなったか?左派軍人は急進左派軍人を責められなかったのか?クーデターを起こした急進左派は暴力的である。対する右派の軍人たちも暴力的である。暴力がさらなる暴力を呼び起こした。これは暴力による悲惨な事件である。

自由への脱走

映画「大脱走(原題:The Great Escape)」を観た。

この映画は1963年公開のアメリカ映画で、戦争(第二次世界大戦)で捕虜になった連合国軍兵士(つまりナチス・ドイツに捕虜として捕らえられている)たちの脱獄の様子を描いた映画である。

時は第二次世界大戦(1939年~1945年)中で場所はドイツ軍占領下のどこか(映画中には場所の名前は出てこない。映画の内容に示唆されるような実在の捕虜収容所としてはスタラグ・ルフトⅢ《捕虜収容所》がある)。そこに脱走常習犯の連合国軍の兵士である捕虜が大勢移って来るところから映画は始まる。

この映画の主要な登場人物は、バージル・ヒルツというアメリカ人捕虜兵士と、ロジャー・バートレットというイギリス人捕虜兵士である。この二人には違いがある。もちろん共通点もあるのだが。共通点は同じ連合国軍の兵士であり、脱走を何度もこころみて失敗を繰り返しているところ。この二人の違いは、所属する国もそうかもしれないが、ヒルツは単独行動で脱出をこころみようとするが(映画でははじめアイブスというスコットランド人と2人で脱走をこころみようとする。まるきり一人ではないが大集団ではない)、ロジャーはあくまで軍の作戦として集団で脱走しようとするところである。またヒルツと違ってロジャーは次の脱走をしたらゲシュタポ(ドイツ)に死刑にされるところも違っている。

ロジャーにとっての脱走はあくまで軍の作戦の一環である。敵国ドイツに捕虜として捕まった後も、ロジャーは軍人として生きて、多くの部下を率い、200人~300人を脱走させるという脱走計画を立て実行する。

一方ヒルツにとって脱走とは自由のための脱走である。自分個人の自由のためというのがヒルツにとっての脱走なのである。

ロジャーはあくまで国のため、軍のため、集団のために脱走しようとするが、ヒルツおいては自分の自由のためにという目的が優先されるのである。

映画中ヒルツは最初ただ二人での脱出に失敗して、その後ロジャーの指揮下の大脱走にスカウトされる。そしてヒルツもロジャーたちと一緒に脱走を実行する。

映画の最後ロジャーはドイツ兵に銃殺される。ヒルツはスイスとの国境の辺りでドイツ兵に捕まってしまう。

個人の自由を追求する姿勢と、国の勝利のために貢献しようとする姿勢。後者の方がドイツ軍にとっては危険なものとして映ったのかもしれない。国のためにではなく個人の自由のために戦うこと。それは国という存在の存続にとって思わしいものなのだろうか?ここでは人間としての生き方を考えるといいように思われる。

つまり国というのは個々人の快適な自由のための手段として用いられるべきだということである。よって、個人の自由の追求は他者の自由を侵さない限りは、許容されるべきなのである。ヒルツの生き様はそれを考える良い機会である。

非暴力による解放

映画「グローリー 明日への行進(原題:Selma)」を観た。

この映画は、アメリカ大陸(北部)で行われていた黒人差別と、その差別と闘うマーチン・ルーサー・キング・Jrを主とするアメリカ国民たちを描いた作品である。

1619年に北アメリカ大陸へ、アフリカ系黒人たちが労働力(主に畑仕事の)として奴隷として連れてこられてから、アメリカでの黒人たちの不遇の時代が始まる。

当初アメリカへ連れてこられた黒人たちは奴隷として白人経営者が経営する農場で働かされていた。1863年に奴隷解放宣言が行われてからも黒人に対するアメリカでの“扱い方”は酷く、この映画の舞台となる1965年当時もアメリカ黒人に対する人種差別は非常に厳しい状態だった。

アメリカでも特に黒人に対する差別が厳しいのがアメリカ南部であった。1965年にマーチン・ルーサー・キング・Jrたちがアラバマ州セルマからモンゴメリーへの行進を行った当時でも、このような行進が行われた理由からもわかるように、公然として黒人への差別、暴力が行われていた。

アメリカ黒人差別主義者たちが、特にアメリカ白人たちがアメリカ黒人に行っていた暴力にはすざましいものがある。黒人奴隷には充分に給料もなく、住む所も食べる物も粗末で、黒人奴隷が働かなくなると黒人奴隷を鞭で何度も打った。そして黒人奴隷を“購入する”にはお金がかかるため、農場主たちは黒人女性に無理にでも子供を生ませた。白人男性が黒人女性をレイプして子供を生ませていた。

1965年の黒人に対する白人たちの差別はどうだったのか?まず黒人と白人では座席の場所が違った。食堂もトイレもバスの座席も黒人と白人のものとがわけられていた。そして自由を求め行動する黒人に対しては、公権力である警察が平気で暴力をふるっていた。

黒人が奴隷として北アメリカ大陸に連れてこられてから300年半黒人に対するアメリカ白人たちの態度は一貫して否定的なものである。アメリカ白人の中には“黒人は奴隷として働かせるためにアフリカ大陸から連れてきたもの”でしかないのである。

映画中、ノーベル平和賞を受賞しているキング牧師の表情は常に険しい。電話や自宅はFBIに盗聴され、黒人解放運動の参加者たちは相次いで殺されていく。しかしキング牧師は非暴力という自分の信念を貫き、黒人の選挙権の獲得、しいてはそれによる黒人の自由と平等の実質的な獲得を目指して進んで行く。

セルマからモンゴメリーへの行進はテレビ中継され、それが世論を動かした。テレビを観た人々が黒人の解放運動に参加したのだ。

子供時代を忘れてしまう大人たち

映画「大人は判ってくれない(原題:Les Quatre Cents Coups)」を観た。

この映画は1959年にフランスで制作された映画であり、ある一人の不良少年の成り立ちについての映画である。この映画の原題を直訳すると「400回の殴打」となるそうである。では「400回の殴打」とは何を意味しているのだろうか?

この映画の中では、主人公の少年アントワーヌ・ドワネルが大人に殴られるシーンが何度か出てくる。アントワーヌは父親そして鑑別所の職員に殴られる。この映像が示していること、それはアントワーヌが大人たちに直接殴られたり、直接殴られると同様のような仕打ちを受けてきたことではないだろうか?

アントワーヌは周囲の大人たちに肉体的にそして精神的に痛めつけられているのである。アントワーヌの周りにいる大人たちは、正直な少年に対して冷たい仕打ちをする人ばかりだ。その代表がアントワーヌの父と母に現れている。

アントワーヌの父と母はアントワーヌに対して冷たい。アントワーヌには愛情が足りていない。アントワーヌは映画が好きで、時折両親はアントワーヌを映画に連れて行ってくれるが、それは一時の気休めでしかなく、父と母はアントワーヌを邪魔ものとして扱う。

その結果としてアントワーヌは家出をすることを選び、生活するお金欲しさに泥棒をする。愛情が足りないがゆえに家出の道を選ばざるえなかったアントワーヌ少年に対して、父と母は言う。

父「アントワーヌを少年鑑別所に入れてくれ」。母「アントワーヌをもっと怖がらせて」。

アントワーヌは鑑別所の中で女医から受けた質問に対してこう言う。「本当のことを言っても信じてもらえないんだ」。アントワーヌの口から出た本音である。

このアントワーヌの言葉を聞いた母親は何というか。「あなたは親に対して何てことを言うの!!反省しなさい」である。

ある時母親はアントワーヌに「作文がうまくいったら、1000フランあげるから作文を頑張って書いて」と言う。するとうれしくなったアントワーヌは良い作文を書こうとして小説家バルザックの「絶対の探求」を暗記して、それを作文として学校で書く。

するとそれを読んだ学校の先生はこう言う。「これはただの盗作だ」。アントワーヌはバルザックの文学の中にある光をみつけたようで、バルザック肖像画を飾りそこに蝋燭の火を灯す。するとそれが原因でボヤが起きる。

当然父と母は理由も聞かずにアントワーヌを怒鳴りつける。アントワーヌは「盗作」という概念を知らなかった。火事騒ぎを起こしたくて起こしたのではない。アントワーヌは「世界の危険」に対して無知だっただけである。ただ学習の機会に教えるべき大人たちが不在だったのである。

少年(もちろん少女も)は無限の可能性を持っている。そして彼らの成長には導き手となる大人が必要なのである。(半面教師ということもあるかもしれないが…)。