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非暴力による解放

映画「グローリー 明日への行進(原題:Selma)」を観た。

この映画は、アメリカ大陸(北部)で行われていた黒人差別と、その差別と闘うマーチン・ルーサー・キング・Jrを主とするアメリカ国民たちを描いた作品である。

1619年に北アメリカ大陸へ、アフリカ系黒人たちが労働力(主に畑仕事の)として奴隷として連れてこられてから、アメリカでの黒人たちの不遇の時代が始まる。

当初アメリカへ連れてこられた黒人たちは奴隷として白人経営者が経営する農場で働かされていた。1863年に奴隷解放宣言が行われてからも黒人に対するアメリカでの“扱い方”は酷く、この映画の舞台となる1965年当時もアメリカ黒人に対する人種差別は非常に厳しい状態だった。

アメリカでも特に黒人に対する差別が厳しいのがアメリカ南部であった。1965年にマーチン・ルーサー・キング・Jrたちがアラバマ州セルマからモンゴメリーへの行進を行った当時でも、このような行進が行われた理由からもわかるように、公然として黒人への差別、暴力が行われていた。

アメリカ黒人差別主義者たちが、特にアメリカ白人たちがアメリカ黒人に行っていた暴力にはすざましいものがある。黒人奴隷には充分に給料もなく、住む所も食べる物も粗末で、黒人奴隷が働かなくなると黒人奴隷を鞭で何度も打った。そして黒人奴隷を“購入する”にはお金がかかるため、農場主たちは黒人女性に無理にでも子供を生ませた。白人男性が黒人女性をレイプして子供を生ませていた。

1965年の黒人に対する白人たちの差別はどうだったのか?まず黒人と白人では座席の場所が違った。食堂もトイレもバスの座席も黒人と白人のものとがわけられていた。そして自由を求め行動する黒人に対しては、公権力である警察が平気で暴力をふるっていた。

黒人が奴隷として北アメリカ大陸に連れてこられてから300年半黒人に対するアメリカ白人たちの態度は一貫して否定的なものである。アメリカ白人の中には“黒人は奴隷として働かせるためにアフリカ大陸から連れてきたもの”でしかないのである。

映画中、ノーベル平和賞を受賞しているキング牧師の表情は常に険しい。電話や自宅はFBIに盗聴され、黒人解放運動の参加者たちは相次いで殺されていく。しかしキング牧師は非暴力という自分の信念を貫き、黒人の選挙権の獲得、しいてはそれによる黒人の自由と平等の実質的な獲得を目指して進んで行く。

セルマからモンゴメリーへの行進はテレビ中継され、それが世論を動かした。テレビを観た人々が黒人の解放運動に参加したのだ。

子供時代を忘れてしまう大人たち

映画「大人は判ってくれない(原題:Les Quatre Cents Coups)」を観た。

この映画は1959年にフランスで制作された映画であり、ある一人の不良少年の成り立ちについての映画である。この映画の原題を直訳すると「400回の殴打」となるそうである。では「400回の殴打」とは何を意味しているのだろうか?

この映画の中では、主人公の少年アントワーヌ・ドワネルが大人に殴られるシーンが何度か出てくる。アントワーヌは父親そして鑑別所の職員に殴られる。この映像が示していること、それはアントワーヌが大人たちに直接殴られたり、直接殴られると同様のような仕打ちを受けてきたことではないだろうか?

アントワーヌは周囲の大人たちに肉体的にそして精神的に痛めつけられているのである。アントワーヌの周りにいる大人たちは、正直な少年に対して冷たい仕打ちをする人ばかりだ。その代表がアントワーヌの父と母に現れている。

アントワーヌの父と母はアントワーヌに対して冷たい。アントワーヌには愛情が足りていない。アントワーヌは映画が好きで、時折両親はアントワーヌを映画に連れて行ってくれるが、それは一時の気休めでしかなく、父と母はアントワーヌを邪魔ものとして扱う。

その結果としてアントワーヌは家出をすることを選び、生活するお金欲しさに泥棒をする。愛情が足りないがゆえに家出の道を選ばざるえなかったアントワーヌ少年に対して、父と母は言う。

父「アントワーヌを少年鑑別所に入れてくれ」。母「アントワーヌをもっと怖がらせて」。

アントワーヌは鑑別所の中で女医から受けた質問に対してこう言う。「本当のことを言っても信じてもらえないんだ」。アントワーヌの口から出た本音である。

このアントワーヌの言葉を聞いた母親は何というか。「あなたは親に対して何てことを言うの!!反省しなさい」である。

ある時母親はアントワーヌに「作文がうまくいったら、1000フランあげるから作文を頑張って書いて」と言う。するとうれしくなったアントワーヌは良い作文を書こうとして小説家バルザックの「絶対の探求」を暗記して、それを作文として学校で書く。

するとそれを読んだ学校の先生はこう言う。「これはただの盗作だ」。アントワーヌはバルザックの文学の中にある光をみつけたようで、バルザック肖像画を飾りそこに蝋燭の火を灯す。するとそれが原因でボヤが起きる。

当然父と母は理由も聞かずにアントワーヌを怒鳴りつける。アントワーヌは「盗作」という概念を知らなかった。火事騒ぎを起こしたくて起こしたのではない。アントワーヌは「世界の危険」に対して無知だっただけである。ただ学習の機会に教えるべき大人たちが不在だったのである。

少年(もちろん少女も)は無限の可能性を持っている。そして彼らの成長には導き手となる大人が必要なのである。(半面教師ということもあるかもしれないが…)。

戦争の不条理さ

映画「史上最大の作戦(原題:Longest Day)」を観た。

この映画は1962年のアメリカ映画であり、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦を描いた映画である。1944年、ヒトラー総督の率いるナチス・ドイツはその勢力を西ヨーロッパまで拡大していた。もう少し西には海を隔ててイギリスがある。

イギリスは当時、ドイツ軍による空爆攻撃を受けていた。ナチス・ドイツを放っておけば、イギリスはドイツ軍によって占領されてしまう。ドイツの勢力拡大を抑えようとフランス、イギリス、アメリカを主とする連合国軍は、当時ドイツの占領下にあった現フランス北西部のノルマンディーから上陸し、ドイツ軍に占領された土地を取り戻そうとしているのであった。

アメリカ、フランス、イギリスを主とする連合国軍とナチス・ドイツを率いるヒトラーという図式がここにある。

映画で中心として描かれるのは、ノルマンディー上陸作戦の際に上陸したいくつかある海岸のうちのオマハ・ビーチと内陸のサント・メールに降りた落下傘部隊の苦闘の様子である。

連合国軍の兵は300万、ドイツ軍の兵は50万である。連合国軍の方がはるかにドイツ軍を上回る数の兵を持っている。しかし、上陸作戦はその2ヶ所(オマハ・ビーチとサント・メール)で苦戦していたのである。

ドイツ軍はノルマンディー上陸を予想していなかった。ノルマンディー作戦が行われた6月5日から6月6日にかけては悪天候であり、しかもノルマンディーはイギリスからヨーロッパ大陸へ隔てる幅が広く、ドイツ軍はイギリスから最も近い海岸があるノルマンディーよりももっと北の方にある海岸から連合国軍は攻めてくると思っていたのである。

ドイツ軍の不意を突いた連合国軍はオマハ・ビーチとサント・メールで苦戦するも上陸作戦は成功する。「史上最大の作戦」というタイトルから士気高揚のための戦争賛歌映画を想像してしまいそうになるが、この映画の戦争の描かれ方は暗い。

ドイツに占領された旧フランス領ノルマンディーの海岸一帯に連合国軍が軍艦から集中砲火をあびせるシーンがある。当然ノルマンディーには反ドイツの親連合国である住人もいる。映画中では、その人の家に連合国の砲弾が降り注ぐのである(映画中その人物の生死は描かれない)。

まさに戦争である。敵も味方もあったものではない。戦争では大多数の命と引き換えに少数者の命が平気で排除されてしまうのである。連合国軍の兵士がオック岬のドイツ大砲台を目指して死にもの狂いで進んで行くが、大砲などどこにもありはしないと分かる。“大砲があるかもしれない”という囮のための無駄死にである。

愛に狂った男

映画「気狂いピエロ(仏題:Pierrot Le Fou)」を観た。

この映画は1965年のフランス・イタリア合作映画であり、この映画の監督はフランスとスイスの国籍を持つジャン=リュック・ゴダールである。この映画はサスペンスの要素が少し入った恋愛映画である。

この映画の主要な登場人物はフェルディナン・グリフォンとマリアンヌであり、この映画の中で二人の恋は再燃し、そして終わりを迎える。

フェルディナンは文学(例えば詩)を読むインテリで、過去にスペイン語の教師をしたりテレビ局に勤めていたことがある。その恋人マリアンヌは、第三世界(この映画の場合アフリカ)を相手に商売をする売人の一味であり、過去にエレベーター・ガールや、テレビ局で働いていたこともある。

フェルディナンはお金目当てで妻と結婚したが、妻のことが好きになれず、仕事も辞めて悶々とした日々を過ごしている。フェルディナンは言う。「世の中バカばっかりだ!!」。そんなフェルディナンの元にフェルディナンの元カノだったマリアンヌが現れる。

再会したその晩に2人の恋は再燃し、マリアンヌが人を殺したことが原因となり、フェルディナンとマリアンヌは逃避行の旅に南仏へ行くことになる。

旅の序盤は仲良く過ごしていた2人だが、旅の中ごろになるとマリアンヌの方がフェルディナンに飽きてくる。マリアンヌは言う。「フェルディナンは本を読んでばかり、大切なのは生きることなのに」。マリアンヌの心はフェルディナンからどんどん離れていく。

マリアンヌはフェルディナンと5年ぶり再会して愛が再燃した時から、フェルディナンのことを「ピエロ」と呼ぶ。映画の終盤ではマリアンヌがフェルディナンに渡した自作の詩の中で、マリアンヌはフェルディナンのことを「気狂いピエロ」と表現する。マリアンヌにとってフェルディナンは頭がどうにかしたピエロのように哀れな男としか映っていないのである。

何故か?それはこの再燃した恋が偽りの恋だとマリアンヌは最初からわかっているからである。マリアンヌは自分の“兄”と呼ぶ本命の恋人のために、フェルディナンを商売の汚い取り引きに引きずりこんだだけなのである。

フェルディナンはマリアンヌとマリアンヌが兄と呼ぶ本命の男と闇の商売のお金を奪う。そしてマリアンヌは空港でフェルディナンと落ち合う約束をして去って行くが、マリアンヌはお金を持って“兄”と呼ぶ男の元へ行くのである。

フェルディナンはマリアンヌにとって愛されてもいないのに愛されていると勘違いをしている哀れな道化なのである。

映画中にフェルディナンは言葉を好むのに対してマリアンヌは感情で生きると出てくる。しかし事の成り行きを見てわかるように、女は感情的であるだけでなく同時に計算高くもあるのである。文学ばかりにのめりこむ男と違って。

互いが互いを必要としている

映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男(原題:Get on Up)」を観た。

この映画は、2014年制作の映画であり、この映画の主人公はファンクの帝王と呼ばれた黒人ミュージシャンのジェームス・ブラウンである。

映画の冒頭でいきなりジェームス・ブラウンはショット・ガンを車から持ち出して人前で発砲する。ジェームス・ブラウンといえば、ファンク・ミュージックの黒人ボーカリストとして有名なので、音楽の持つイメージと、ジェームス・ブラウンがショット・ガンを撃つ姿の間には深い溝があるように感じる。音楽のイメージとは愛と平和であり、銃からイメージされるのは戦争や殺人である。

ミュージシャンであるジェームス・ブラウンがなぜ銃を手に取ったのか?その理由は彼の孤独な生き方にあると、映画は観る者に語り掛ける。

ジェームス・ブラウンはアメリカのジョージア州オーガスタで幼少期を過ごしたとされている。そこでの生活は決して裕福なものではなかった。ジェームス・ブラウンの家庭は貧しく、ジェームス・ブラウンが幼い頃に母は家を出ている。そして、ジェームスを育てていた父もジェームスを身内の女性にあずけて軍隊へ入隊する。

父と母が居ず、金もない幼少期と少年期を過ごすジェームスのよりどころとなったのは、音楽だった。ジェームスの音楽の原体験は、父の歌う歌と教会で歌われるゴスペルだった。ジェームスの孤独を慰めてくれたのは音楽だったのである。

音楽を通じて信頼できる仲間も見つかる。その友達とはボビー・バードである。ボビーはジェームスが刑務所に居る時に親しくなった友達である(ボビーは刑務所に慰問公演して、実刑中のジェームスに出会った)。

ジェームス・ブラウンは強引なフロント・マンだった。バンドの練習も、バンドの音楽性も、バンドの給料もすべてジェームスが仕切っていた。強引な仕切りやで、ある時脱税の疑惑が持ち上がり、それがきっかけでバンド・メンバーのたまった不満が爆発し、バンド・メンバーは去って行った。

その際は残ってくれたボビーだったが、その後のジェームスの「お前は俺が居るから今の地位があるんだ。お前独りでは何もできない」という冷たい言葉にジェームスはボビーの元を去って行く。

父も母も友達もジェームスの元を去ってしまう。妻との仲もうまくいかなし、子供(テディ)は死んでしまう。ジェームスは一人孤独である。

映画のラスト、ジェームスは意地を張らずに友ボビーに対して歌う。「君なしでは生きてゆけない」と。映画ではジェームスとボビーとの出会いの時と同様、歌による合一で終わる。

映画中ジェームス・ブラウンがバンドのメンバー全員に「すべての楽器はドラムだ!!」と言うシーンがある。ジェームス・ブラウンの音楽の神髄はここにあるのかもしれない。

法という秩序

映画「リバティ・バランスを射った男(原題:The Man Who Shot Liberty Valance)」を観た。

この映画は1962年に制作されたアメリカ映画で、荒廃した西部の街が、法という秩序を持つまでの期間を描いた映画である。この映画の主要人物は、ハリーとランス・スタッタード、トム・ドニファン、リバティ・バランスである。

ある日、ランス・スタッタードは弁護士に成りたてで西部に出てくるが、西部に入った後の旅中で、強盗であるリバティ・バランスに襲われる。ランスはその時怪我を負うが、そこで助けてくれたのが、トム・ドニファンとハリーであった。

西部では法が行き届いておらず、暴力が法に代わって支配のための道具になっていた。ピケットワイヤという土地(トムとハリーとリバティが住む)も西部の一部だった。当然ピケットワイヤという土地も法ではなく暴力によって支配されていた。

そこに法を持ってやってきたのがランス・スタッタードである。ランスは法を持って無法地帯の一部であるピケットワイヤにやってきたその日に、強盗にされるがままに襲われるのである。いくらランスが法を説いてみても、リバティたちに通じることはない。

法とは社会にいるみんなの合意により作られたものだとされる。みんなで決めた法だから、みんながその法を守るのである。法とは特に憲法とは、みんなから統治権力への命令である。つまり憲法は統治権力が暴走するのをみんながおさえつけているという形をとる。

みんなが支配する、みんなのための統治権力が、みんなの利益になることを決めているのが法である。つまり法には集団が生活してくための知恵が詰まっていることになる。

集団が円滑に生活してくために必要な法を守らない無頼漢がいる。無頼漢たちは暴力で法を犯すことにより、みんなの合意を破っている。しかし、法を行使することができなければ、世の中はならず者たちの思うがままである。

つまり“みんな”の側も無法者に対する暴力装置を必要とする。それが軍隊であり警察である。しかしこの映画中に登場する保安官のように無法者を怖がって無法者たちが野放しになってしまうと、法は必要な時に使用できなくなる。

この映画の場合、警察の代わりに法を守るの者が、トム・ドニファンという男である。リバティ・バランスという大きな牧畜業者たちが操る無法者は、ランスたち弱き小規模農業者や商店が票の力で、大規模で少数からなる牧畜業者を倒すことをやめさせようとして、暴力を使う。

そこに立ち向かうトム・ドニファンは法のためというよりは、ハリーという自らが愛する女性のためにランスの助けをする。ランスに夢を見たハリーの思いは、トム・ドニファンの影の活躍で果たされるのだ。

 

※トム・ドニファンという映画上最強の暴力装置は、大規模牧畜業者の悪を正すためではなく、愛する人の夢のために暴力を使い、結果的に愛する人を救い、悪である大規模牧畜業者の思惑を潰すのである。

より良心的な行動とは?

映画「甘い生活(原題:La dolce vita)」を観た。

この映画は1960年に制作されたイタリア映画で、監督はフェデリコ・フェリーニである。この映画は、映画の主人公であるマルチェロという30代~40代位の男の人生の一期間を、マルチェロに関わる様々な人物と共に描いた映画である。

映画を通してマルチェロという男は、どんな女性とも結婚せずに、出会う女性を次々に口説いていく。口説きは成功することもあれば、失敗することもある。マルチェロを一途に愛そうとするエンマという女性が映画の中に登場する。

エンマは俗に言う家庭的な女性である。子供好きでもある。つまりエンマはマルチェロが望まないこと思う女性である。マルチェロが望まないエンマが持つ望みとは、“結婚して子供が欲しい”“愛する女は私だけにして”という望みであり、これは現在でも一般的にもてはやされる、人々の考えである。

しかし、マルチェロはこの考えに猛反発する。“僕は強制的な母性が大嫌いなんだ!!”とマルチェロは言う。

この映画の中にはマルチェロ父親も登場する。マルチェロ父親も、マルチェロとは違い家庭を持つことはしたが、実は夜遊び好きな男である。マルチェロ父親と似ているのである。

マルチェロは言う。“僕は父と過ごした記憶があまりない”と。マルチェロの中には“父の不在”という父親像がある(?)のだろう。マルチェロにとって父親とは空虚な存在なのである。

この映画の中には、キリストの像が登場する。キリストも父なる神から生まれた子供である。しかしキリストとマルチェロでは人物像がまったく異なる。キリストは愛の人であるが、その愛は人を裏切ることはない。キリストは博愛の人物である。

キリストはすべてを愛するが誰も傷つけない。誰も傷つけず、しかもすべての人々を救う存在である。マルチェロといえば、すべての人を幸福にすることはできない。特に女性(エンマ)に対しては。

マルチェロは多くの女性を愛そうとする。多くの女性を愛そうとしてエンマという女性を深く傷つける。マルチェロがエンマ以外とセックスしなければ、エンマは傷つかないのだろう。

キリストの愛はセックスなしの愛であるが、マルチェロは肉体的なセックスを含む愛の人であり、多数の人とセックスをしてそれぞれの人を愛する行為は、誰かに憎まれるのである。

映画の中には、スタイナーという人々が思い描くような理想的な父親が登場する。俗に言う“優しい父親”だ。しかし物語の終盤で、理性的なスタイナーという父親も、非理性的な衝動に駆られる。

スタイナーは理性的であるがゆえに、人間という生身のものを愛し通すことができなかった。スタイナーは理想を時間外(=死)に求めた。だから、マルチェロは肉体から離れないのだろう。

 

※啓蒙は理想的な人間を作り上げるのではなく、スタイナーのような非理性的な衝動を生じさせてしまうのではないか?啓蒙により理性的な人間を作り上げることは困難が伴うのである。啓蒙されて理性的と思われている人物より、啓蒙に失敗し従来的見方では非理性的と思われている人物が人間としてまともなことをしていることもあるのである。