愛に狂った男

映画「気狂いピエロ(仏題:Pierrot Le Fou)」を観た。

この映画は1965年のフランス・イタリア合作映画であり、この映画の監督はフランスとスイスの国籍を持つジャン=リュック・ゴダールである。この映画はサスペンスの要素が少し入った恋愛映画である。

この映画の主要な登場人物はフェルディナン・グリフォンとマリアンヌであり、この映画の中で二人の恋は再燃し、そして終わりを迎える。

フェルディナンは文学(例えば詩)を読むインテリで、過去にスペイン語の教師をしたりテレビ局に勤めていたことがある。その恋人マリアンヌは、第三世界(この映画の場合アフリカ)を相手に商売をする売人の一味であり、過去にエレベーター・ガールや、テレビ局で働いていたこともある。

フェルディナンはお金目当てで妻と結婚したが、妻のことが好きになれず、仕事も辞めて悶々とした日々を過ごしている。フェルディナンは言う。「世の中バカばっかりだ!!」。そんなフェルディナンの元にフェルディナンの元カノだったマリアンヌが現れる。

再会したその晩に2人の恋は再燃し、マリアンヌが人を殺したことが原因となり、フェルディナンとマリアンヌは逃避行の旅に南仏へ行くことになる。

旅の序盤は仲良く過ごしていた2人だが、旅の中ごろになるとマリアンヌの方がフェルディナンに飽きてくる。マリアンヌは言う。「フェルディナンは本を読んでばかり、大切なのは生きることなのに」。マリアンヌの心はフェルディナンからどんどん離れていく。

マリアンヌはフェルディナンと5年ぶり再会して愛が再燃した時から、フェルディナンのことを「ピエロ」と呼ぶ。映画の終盤ではマリアンヌがフェルディナンに渡した自作の詩の中で、マリアンヌはフェルディナンのことを「気狂いピエロ」と表現する。マリアンヌにとってフェルディナンは頭がどうにかしたピエロのように哀れな男としか映っていないのである。

何故か?それはこの再燃した恋が偽りの恋だとマリアンヌは最初からわかっているからである。マリアンヌは自分の“兄”と呼ぶ本命の恋人のために、フェルディナンを商売の汚い取り引きに引きずりこんだだけなのである。

フェルディナンはマリアンヌとマリアンヌが兄と呼ぶ本命の男と闇の商売のお金を奪う。そしてマリアンヌは空港でフェルディナンと落ち合う約束をして去って行くが、マリアンヌはお金を持って“兄”と呼ぶ男の元へ行くのである。

フェルディナンはマリアンヌにとって愛されてもいないのに愛されていると勘違いをしている哀れな道化なのである。

映画中にフェルディナンは言葉を好むのに対してマリアンヌは感情で生きると出てくる。しかし事の成り行きを見てわかるように、女は感情的であるだけでなく同時に計算高くもあるのである。文学ばかりにのめりこむ男と違って。

互いが互いを必要としている

映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男(原題:Get on Up)」を観た。

この映画は、2014年制作の映画であり、この映画の主人公はファンクの帝王と呼ばれた黒人ミュージシャンのジェームス・ブラウンである。

映画の冒頭でいきなりジェームス・ブラウンはショット・ガンを車から持ち出して人前で発砲する。ジェームス・ブラウンといえば、ファンク・ミュージックの黒人ボーカリストとして有名なので、音楽の持つイメージと、ジェームス・ブラウンがショット・ガンを撃つ姿の間には深い溝があるように感じる。音楽のイメージとは愛と平和であり、銃からイメージされるのは戦争や殺人である。

ミュージシャンであるジェームス・ブラウンがなぜ銃を手に取ったのか?その理由は彼の孤独な生き方にあると、映画は観る者に語り掛ける。

ジェームス・ブラウンはアメリカのジョージア州オーガスタで幼少期を過ごしたとされている。そこでの生活は決して裕福なものではなかった。ジェームス・ブラウンの家庭は貧しく、ジェームス・ブラウンが幼い頃に母は家を出ている。そして、ジェームスを育てていた父もジェームスを身内の女性にあずけて軍隊へ入隊する。

父と母が居ず、金もない幼少期と少年期を過ごすジェームスのよりどころとなったのは、音楽だった。ジェームスの音楽の原体験は、父の歌う歌と教会で歌われるゴスペルだった。ジェームスの孤独を慰めてくれたのは音楽だったのである。

音楽を通じて信頼できる仲間も見つかる。その友達とはボビー・バードである。ボビーはジェームスが刑務所に居る時に親しくなった友達である(ボビーは刑務所に慰問公演して、実刑中のジェームスに出会った)。

ジェームス・ブラウンは強引なフロント・マンだった。バンドの練習も、バンドの音楽性も、バンドの給料もすべてジェームスが仕切っていた。強引な仕切りやで、ある時脱税の疑惑が持ち上がり、それがきっかけでバンド・メンバーのたまった不満が爆発し、バンド・メンバーは去って行った。

その際は残ってくれたボビーだったが、その後のジェームスの「お前は俺が居るから今の地位があるんだ。お前独りでは何もできない」という冷たい言葉にジェームスはボビーの元を去って行く。

父も母も友達もジェームスの元を去ってしまう。妻との仲もうまくいかなし、子供(テディ)は死んでしまう。ジェームスは一人孤独である。

映画のラスト、ジェームスは意地を張らずに友ボビーに対して歌う。「君なしでは生きてゆけない」と。映画ではジェームスとボビーとの出会いの時と同様、歌による合一で終わる。

映画中ジェームス・ブラウンがバンドのメンバー全員に「すべての楽器はドラムだ!!」と言うシーンがある。ジェームス・ブラウンの音楽の神髄はここにあるのかもしれない。

法という秩序

映画「リバティ・バランスを射った男(原題:The Man Who Shot Liberty Valance)」を観た。

この映画は1962年に制作されたアメリカ映画で、荒廃した西部の街が、法という秩序を持つまでの期間を描いた映画である。この映画の主要人物は、ハリーとランス・スタッタード、トム・ドニファン、リバティ・バランスである。

ある日、ランス・スタッタードは弁護士に成りたてで西部に出てくるが、西部に入った後の旅中で、強盗であるリバティ・バランスに襲われる。ランスはその時怪我を負うが、そこで助けてくれたのが、トム・ドニファンとハリーであった。

西部では法が行き届いておらず、暴力が法に代わって支配のための道具になっていた。ピケットワイヤという土地(トムとハリーとリバティが住む)も西部の一部だった。当然ピケットワイヤという土地も法ではなく暴力によって支配されていた。

そこに法を持ってやってきたのがランス・スタッタードである。ランスは法を持って無法地帯の一部であるピケットワイヤにやってきたその日に、強盗にされるがままに襲われるのである。いくらランスが法を説いてみても、リバティたちに通じることはない。

法とは社会にいるみんなの合意により作られたものだとされる。みんなで決めた法だから、みんながその法を守るのである。法とは特に憲法とは、みんなから統治権力への命令である。つまり憲法は統治権力が暴走するのをみんながおさえつけているという形をとる。

みんなが支配する、みんなのための統治権力が、みんなの利益になることを決めているのが法である。つまり法には集団が生活してくための知恵が詰まっていることになる。

集団が円滑に生活してくために必要な法を守らない無頼漢がいる。無頼漢たちは暴力で法を犯すことにより、みんなの合意を破っている。しかし、法を行使することができなければ、世の中はならず者たちの思うがままである。

つまり“みんな”の側も無法者に対する暴力装置を必要とする。それが軍隊であり警察である。しかしこの映画中に登場する保安官のように無法者を怖がって無法者たちが野放しになってしまうと、法は必要な時に使用できなくなる。

この映画の場合、警察の代わりに法を守るの者が、トム・ドニファンという男である。リバティ・バランスという大きな牧畜業者たちが操る無法者は、ランスたち弱き小規模農業者や商店が票の力で、大規模で少数からなる牧畜業者を倒すことをやめさせようとして、暴力を使う。

そこに立ち向かうトム・ドニファンは法のためというよりは、ハリーという自らが愛する女性のためにランスの助けをする。ランスに夢を見たハリーの思いは、トム・ドニファンの影の活躍で果たされるのだ。

 

※トム・ドニファンという映画上最強の暴力装置は、大規模牧畜業者の悪を正すためではなく、愛する人の夢のために暴力を使い、結果的に愛する人を救い、悪である大規模牧畜業者の思惑を潰すのである。

より良心的な行動とは?

映画「甘い生活(原題:La dolce vita)」を観た。

この映画は1960年に制作されたイタリア映画で、監督はフェデリコ・フェリーニである。この映画は、映画の主人公であるマルチェロという30代~40代位の男の人生の一期間を、マルチェロに関わる様々な人物と共に描いた映画である。

映画を通してマルチェロという男は、どんな女性とも結婚せずに、出会う女性を次々に口説いていく。口説きは成功することもあれば、失敗することもある。マルチェロを一途に愛そうとするエンマという女性が映画の中に登場する。

エンマは俗に言う家庭的な女性である。子供好きでもある。つまりエンマはマルチェロが望まないこと思う女性である。マルチェロが望まないエンマが持つ望みとは、“結婚して子供が欲しい”“愛する女は私だけにして”という望みであり、これは現在でも一般的にもてはやされる、人々の考えである。

しかし、マルチェロはこの考えに猛反発する。“僕は強制的な母性が大嫌いなんだ!!”とマルチェロは言う。

この映画の中にはマルチェロ父親も登場する。マルチェロ父親も、マルチェロとは違い家庭を持つことはしたが、実は夜遊び好きな男である。マルチェロ父親と似ているのである。

マルチェロは言う。“僕は父と過ごした記憶があまりない”と。マルチェロの中には“父の不在”という父親像がある(?)のだろう。マルチェロにとって父親とは空虚な存在なのである。

この映画の中には、キリストの像が登場する。キリストも父なる神から生まれた子供である。しかしキリストとマルチェロでは人物像がまったく異なる。キリストは愛の人であるが、その愛は人を裏切ることはない。キリストは博愛の人物である。

キリストはすべてを愛するが誰も傷つけない。誰も傷つけず、しかもすべての人々を救う存在である。マルチェロといえば、すべての人を幸福にすることはできない。特に女性(エンマ)に対しては。

マルチェロは多くの女性を愛そうとする。多くの女性を愛そうとしてエンマという女性を深く傷つける。マルチェロがエンマ以外とセックスしなければ、エンマは傷つかないのだろう。

キリストの愛はセックスなしの愛であるが、マルチェロは肉体的なセックスを含む愛の人であり、多数の人とセックスをしてそれぞれの人を愛する行為は、誰かに憎まれるのである。

映画の中には、スタイナーという人々が思い描くような理想的な父親が登場する。俗に言う“優しい父親”だ。しかし物語の終盤で、理性的なスタイナーという父親も、非理性的な衝動に駆られる。

スタイナーは理性的であるがゆえに、人間という生身のものを愛し通すことができなかった。スタイナーは理想を時間外(=死)に求めた。だから、マルチェロは肉体から離れないのだろう。

 

※啓蒙は理想的な人間を作り上げるのではなく、スタイナーのような非理性的な衝動を生じさせてしまうのではないか?啓蒙により理性的な人間を作り上げることは困難が伴うのである。啓蒙されて理性的と思われている人物より、啓蒙に失敗し従来的見方では非理性的と思われている人物が人間としてまともなことをしていることもあるのである。

成長の物語、大切な物、大切な仲間

映画「ピッチ・パーフェクト(原題:Pitch Perfect)」を観た。

この映画は2012年にアメリカで制作された映画であり、大学のアカペラグループを描いたミュージカル風コメディ映画である。主人公はバーデン大学に通う女子大生のベッカである。

ベッカの通うバーデン大学にはいくつかのアカペラグループがあり、ベッカは父の説教(大学に通うなら大学生として集団の中で生きる姿を見せてみろ)の影響でアカペラグループのうちのバーデン・ベラーズに入ることになる。

ベッカの入ったアカペラグループ、ベラーズのメンバーは個性的なメンバーが集まっている。自分が太っていることを陰で言わせないために自分で“太っちょ”という愛称を名前の前につける子や、レズビアンの子、性的に奔放な子、いつも小声でしか話さない子などがメンバーにいる。

ベッカはアカペラグループに通いながら、大学のFMラジオ局にも通っている。そこで知り合うのがジェシーと言う男の子。しかしジェシーは、ベラーズとライバルの同校内のアカペラグループ、トラブル・メーカーズのメンバーである。

ベッカは音楽を制作することを将来の仕事にしたいと思っており、ジェシーは映画音楽の世界で働きたいと思っている。同じ目的を2人は共有することのできる関係である。2人の関係はどうなるか?それがこの映画の結末部分に描かれている。

ベッカは元々あまり社交的な性格ではなく、大学の寮の部屋で音楽のミックス・データを作っているタイプの女の子である。映画の中でベッカはベラーズのリーダー的人物オーブリーと対立することになる。音楽の(選曲の)方向性を巡って。

アカペラグループで成功しなければ大学を辞めろと父親に言われている父親っ子のオーブリーは、手堅く成功を狙う保守的な姿勢である。それに対して両親が離婚をして父親に育てられているベッカは開放的な構えである。

音楽の選曲もマライヤ・キャリーを選曲する保守的なオーブリーと違って(この場合保守的とは良い子ちゃんのこと)、ベッカはドクター・ドレのヒップ・ホップを人前で歌ってみせる。

良い子ちゃんのマライヤ・キャリーとは違って、ドクター・ドレのヒップ・ホップの曲は当然のように「ペアレンタル・アドバイザリー(購入するのに親の許可がいる)」の表示がついている。

開放的なベッカの選曲は周囲にウケがいい。しかしベッカにも問題点がある。それは時に助けてくれる人をも拒絶するほど孤独であることである。

ベッカがオーブリーと言い合いになった時、フォローしてくれようとしたジェシーに対してベッカは「ほっといてよ!!」と言い返してしまう。

人生では生産的な関係性を築いていくことが大切であるとされる。自分のことを理解してくれるようなパートナー的存在を拒否してしまうようでは、人生は辛くなる。しかし、その欠点をもベッカは映画の最後に克服する。

しかし、社会性ばかりが大切にされているわけではない。ベッカは音楽という自分の大切なものを持つ女の子なのである。

無秩序と秩序

映画「奇跡の人(原題:The Miracle Worker)」を観た。

この映画は1962年に公開されたアメリカ映画で、伝記映画でもある。この映画は実在の人物である通称ヘレン・ケラー、正式名称ヘレン・アダムス・ケラーが、自制の効かない無秩序状態から、自制された秩序の状態へ移り変わるまでの成長のドラマを描いた作品である。

ヘレン・ケラーが無秩序状態から秩序状態に成るとはどういうことだろうか?それには何が必要なのだろうか?ここで鍵となるのは「言葉」である。

ヘレン・ケラーは、幼い頃に患った病気(胃と脳の急性鬱血→映画中の説明、しょう紅熱による髄膜炎→通説)によって、視力と聴力を失って言葉を理解し話すことができない。

ヘレン・ケラーは、言葉を知らない子供であり、言葉を知らないが故に無秩序であり、親の哀れみもあってやりたい放題である。

例えば食事である。ヘレン・ケラーは家族の皆と一緒に座って食事を摂ることができない。家族が食事をしている最中、テーブルの周りをぐるぐる歩き回り、手の感触だけを頼りに食べ物を取ってそれを口に運び、とりあえず口に入れる。食べては動き、食べては動きを繰り返す。

そこにヘレン・ケラーに「言葉」を教えることになるアニー・サリバンが家族の依頼(特に母親の)を受けて登場することになる。

アニー・サリバンは教育者として、ヘレン・ケラーに指文字を使って言葉を教え込もうと悪戦苦闘する。教育に対するヘレン・ケラーの抵抗はすごい。ヘレン・ケラーはアニー・サリバンが気に入らないことをすると、アニー・サリバンにビンタをする。時にはアニー・サリバンの歯が欠けるほどに。

ビンタだけではない。ヘレン・ケラーは体全体を使って暴れまわり、アニー・サリバンに抵抗する。映画を観る者は、この映画の持つ肉体性、暴力性に圧倒されるだろう。

この映画では「言葉」を知らないという無秩序状態がこれでもかというほどに描写される。そして「言葉」の持つ統制力に気付かされるのである。

映画中アニー・サリバンは言う。そして示す。「私はヘレンに言葉という光を教えたい。言葉を知れば世界が広がる。哀れみや寛容な精神では、言葉の意味を知ることはできない。「言葉」を教える教育こそが愛情なのだ」と。

映画中では、言葉とそれが持つ意味とが繋がる瞬間が描かれている。この瞬間こそが、奇跡なのだと映画を観る人は知るのである。

自分の本心を自分は知りえない

映画「ストーカー(英題:Stalker)」を観た。

この映画は1979年に公開されたソビエト連邦(ロシアを中心とした連邦)の映画であり、この映画の原作はストルガツキー兄弟による小説「路傍(ろぼう)のピクニック」であり、この映画の監督はアンドレイ・タルコフスキーである。

この映画はSF映画であるが、宇宙船が宇宙空間の中を飛び回るとか、エイリアンが登場するといったたぐいの映画ではない。しかし、この映画の最初の状況設定はSF的である。それはこのような内容である。

ある時、地球に隕石が追突した。その隕石が落ちた場所は今ではゾーンと呼ばれて、人々から恐れられている。なぜならゾーンに入った人間は誰一人として帰って来なかったからである。そしてこの初期設定に後から付け加えでわかることがある。

それは、このゾーンには“部屋”と呼ばれる場所があって、この場所に入った者の願いがかなえられるという事実である。ただし、かなえられる願いは本当に本人が思っていることであって、それは本人の無意識にあることかもしれない。

つまり本人が思ってもいないことがかなえられて、本人がその結果に驚くということがあり得るのである。

この映画の中では、ゾーンの案内役であるストーカーと呼ばれる家業の男と、“作家”と“教授”という2人の男がゾーンの中の部屋に入って行く。“部屋”にたどり着くのは容易なことではないことが、ゾーンの案内人のストーカー脅え方を観ていると、視聴者にもわかる。

そして3人はやっとのことでゾーンの中の“部屋”と呼ばれる場所にたどり着くが、誰一人として“部屋”に入って願い事をかなえようとはしない。

教授は言う。「この部屋が悪人にわたる前に爆破してやろう」と。しかしそれを実行に移しはしない。

何故か?なぜなら3人は自分の考えている一番の願いがかなうという望みを捨てられないからである。ただ、本当は3人ともこのゾーンの中の部屋に入りたいのだが、それを実行に移せないのには前述したような理由がある。それを表しているのは以下のようなエピソードである。

それは以前ストーカーの師匠である山嵐(ジカブラス)が部屋に入って、自分の望みだと本人が信じている自身の死んだ弟の蘇えりがかなえられずに、山嵐には大量のお金が手に入ったという事実である。

山嵐は、弟よりお金が手に入ったことにより、自分の本当の意思の浅はかさに、自分自身に失望したのである。つまり、前述したように意識上の第一願望と実際の第一願望が違う場合がありえたのである。この違いが3人の足をすくませる原因となっている。

この映画の最後にストーカーの妻はこう語る。「こんな情けない人と結婚する不幸になると周りから言われたけれど、私はこの男と結婚しました。確かに不幸かもしれませんが、幸せは不幸があることにより感じることができるのです」と。

結局、奇跡を起こす部屋に3人は入ることができないが、ストーカーの娘(お猿)が超能力を持つことが示されて映画は終わる。